『倉本聰私論』_「1. 恋」(10/21)


「倉本聰私論 ー『北の国から』のささやきー」
「第二章 倉本聰『北の国から』をさぐる」

 この章では、『北の国から』の代表的な場面を追うことによって、倉本聰の好んで描く人物像をみつめたいと思う。また、『北の国から』、ひいては倉本聰の代表的なテレビ・シナリオに登場する人物たちに共通する特徴を浮き彫りにしたいと考えている。


「1. 恋」(10/21)
 “北の国”は、恋まっ盛りである。いずれもいずれも大自然に育まれたおおらかな恋であり、自ずからなる心のままの恋である。倉本聰が“北の国”でみつめた原初の恋である。
 こごみと草太にみられる恋はその典型である。
 こごみは母性が強く、情の深い女性である。「あわれな男の話をきく」と「押しつけとか」「恩きせがましくとか」「そういうのとぜんぜん無関係に」「ごく自然に」「なンかしたやりたくなる」女性である。スナック「駒草」に勤める「本当に気だてのいい女」性である。
 こごみをだましてもて遊ぶ男がいる。
 「どこに飛んでってはじけるかわかンない」、そんなこごみを「ネズミ花火」と呼ぶ女がいる。
 気だてが「よすぎてちょっとうまくない」と噂する男がいる。
 ここみはとかく世間一般からは理解されにくいタイプの女性である。しかし、こごみは他人(ひと)の口の端にのぼることにはいっさい無頓着である。そして、一つの恋が終われば、心の命ずるままに新たな恋をはじめる。こごみは、恋の不条理をわきまえた女性である。人の不可解さを承知した女性だからである。
 こんなこごみに魅かれた五郎は、ことあるごとに「駒草」に彼女を訪ねる。令子とつらい別れをした後、離婚届の受理通知書を受けとったその夜、令子が再婚することを知らされた日。また、雪子を見送った後。つらい心を抱えた五郎の足は、自ずと「駒草」へと向かう。「さびしいね」、「つらい話だね」、「心配してた」「まいってるンじゃないかって」、「大変だったンだってね」ーー五郎の気持ちを察し、こごみの口にするとっさのひと言は優しさに満ちている。こごみの優しさにくるまれるようにして、子どもにもどる五郎。五郎はなんの不安もなく、安心しきって心のうちのすべてを、こごみの前にさらけだす。やがて、五郎は癒され平安のときをむかえる。

 五郎 「むかしーー女房のあやまちを見ちゃって」
 こごみ「ーー」
 五郎 「そのことに以来ずっとこだわって」
 こごみ「ーー」
 五郎 「何度も何度も手をついてあやまるのを、どうしてもオレ許すことができなくて」
 こごみ「ーー」
 五郎 「子どもたちまでまきぞえにして」
 こごみ「ーー」
   演歌。
 五郎 「だけど最近ずっと思ってた」
 こごみ「ーー」
 五郎 「人を許せないなンて傲慢だよな」
 こごみ「ーー」
   間。
 五郎 「おれらにそんなーー権利なンてないよな」
 こごみ「ーー」
   五郎。
   ーー煙草を口にくわえる。
   こごみ、マッチをすってやる。
   目が合う。
   五郎、かすかに笑う。
 五郎 「ありがと」
   演歌。(1)

こごみは聴く女性(ひと)である。受容する女性(ひと)である。彼岸の住人である。こごみの恋は天衣無縫に天翔る女性の恋である。
 こごみに対して、草太の恋はやんちゃ者の恋である。
 雪子と出会うや否や、草太の心は一気に燃えあがる。そして、周囲の心配をよそに、まっすぐに雪子のもとへとかけよる。結婚の口約束を交わしているつららの気持ちは痛いほど理解しているものの、自分のすなおな心にはさからえない。理性は感情の前にひれ伏す。いったん走りだした者に自らの心を御する術はない。純といえば、これほどまでに純粋な恋はないだろう。
 恋に破れ、家を出たつららが、「トルコ」で働いていることを知り、「オンオン泣き出す」草太。二年と八ヶ月、雪子と合わないことを自らに課した草太。そして、なによりも、雪子にふられたとき、

 草太「純」
 純 「ーーハイ」
 草太「お前らがオラに同情して、雪子おばさんを見送らなかったならそりゃあ筋ちがいだ。お前らはまちがってる」
 草太「雪ちゃんはあの人が好きだったンだ。八年間ずうっと好きだったンだ」
 純 「ーー」
 草太「これはすごいことだ。大したもンだ」
 純 「ーー」
 草太「オラはそういうーーしつこさに感動する」
 純 「ーー」
 草太「オラなンか出る幕じゃない。オラの完敗だ」
 純 「ーー」
   ストーブの火、がバチバチ音をたてだす。
 草太「オラは簡単に女の子に惚れる。だがまた簡単に次の子に移る」
 純 「ーー」
 草太「雪ちゃんはちがった。雪ちゃんはえらい」
 純 「ーー」
 草太「オラは勉強した」
 純 「ーー」
 草太「ああいうのが恋だ」
 純 「ーー」
 草太「オラは雪ちゃんにーー」
   戸の開く音。(2) 

 純、不純を嗅ぎわけるやんちゃ者の嗅覚は鋭い。ひたむきさにおいて、雪子に一蹴された草太は、実に潔く雪子との恋に終止符を打つ。やんちゃ者の恋は、その終わりにおいてもなおすがすがしいのである。そして、疲れをしらないやんちゃ者は、飽くことなく、自ずからなる恋心をひきさげて、新たなる恋へと一直線につっ走るのである。
 つららの結婚、幸せな新婚生活を知り感涙にむせぶ草太。婚前にもかかわらず、アイコに子どもができたことを手ばなしで喜ぶ草太。

北村牧場
   五郎の車とまり、一升瓶を持って五郎下りる。
   「おじさーん!!」
   走ってくる草太、物もいわずに五郎の手をとって陰へ。
 五郎「な、なンだ」
 草太「(嬉しげに舞いあがって)人にいうなおじさん!絶対人にいうな!」
 五郎「何だよ」
 草太「大成功だおじさん!感動だ!ついに交配に成功した!絶対ムリだっていわれてたのに、ついに種ツケに
   成功したンだ!」
 五郎「バイオの牛か」
 草太「ンもオッ。おじさんはッ。牛でないアイコだ!オラとアイコの交配だ!」
 五郎「アイコちゃん!!?」
 草太「そうだよ!アイコが妊娠したンだ!」
 五郎「ニンシンてお前ーーだ、だって結婚式は二月の予定だべ!」
 草太「そんなの少しくらい早くたってかまわん!めでたいことは早いほうがいい。あいつもうできンていわれとったンだ。
   前に何回か中絶しとるから。それができたから喜んじまって、ア、ーーアイコ!!」
  ネコ車を押して現れるアイコ。
 草太「(とんで行って)ダメだお前働くな?そんなことオラやる?」
 アイコ「(嬉し気に)だいじょうぶだって」
 草太「いい、いい、オラやる!それより今おじさんに話した。おじさんすごく喜んでる」 
 アイコ「アリガトウ!」
 五郎「ア、イヤ(口の中で)オメデト」(3)

 私はこんな草太に感動をおぼえる。時事刻々の自ずからなる感情にすなおにしたがい、それがそのまま“ことば”となり表情となり、全身がその刻々の感情で一色に彩られた、どこをとっても嘘のない体。
 草太の恋は、今を生きる自然児の恋である。
 令子と雪子の姉妹は、情念に縁どられた「いい女」の恋をする。生命を賭して吉野の立場を守り通した気丈な令子。冷たい仕打ちをも忍び、八年間のいちずな想いを遂げ、井筒のもとへ嫁した雪子。二人の熱情の前に、離婚直後の同棲、婚約の解消等の“文化的悪”の立つ瀬はない。“文化的悪”は悪たりえないのである。
 「人間は自己本位であるか否か」
 倉本聰は、恋をこの命題の俎上にのせる。恋は盲目、恋は闇。恋心を抱くことは、人間の生理と結びついているだけに、恰好の題材となる。
 人は罪を負うことなしに、他人(ひと)を恋することはできないのだろうか。倉本聰の描く恋は、人間であることの哀しさに満ちている。
 こごみは彼岸に生きる女性(ひと)であり、自然(じねん)に背中を押されて歩む女性である。ただ無為自然な恋をするだけである。「人間は自己本位であるか否か」ーーこごみはこの種の問いかけに対して、ふりむきもしないほど今を生きている。しかし、一歩引き、やんちゃ者の恋に目を向けたとき、そこにはもう人間であることの哀しみの影がちらつきはじめる。令子、雪子姉妹の恋に目をやれば、その影は如何ともし難く、五郎にいたっては影の正体が形をとって現れる。五郎は妻のたった一度のあやまちを許せなかった。五郎は、「文化という檻」にからめとられた男(ひと)である。このような五郎がこごみと出会ったことのもつ意味は大きかった。人であることの哀しさを受容することを知り、他人(ひと)許すことをを学び、ひいては自分を許すこと、自ずからなるものにしたがい、今を生きることの美しさを感触しはじめた。
 『北の国から』では、とかく純と螢の成長ばかりがとりざたされ、五郎の心の軌跡はかき消されがちだが、このテーマのもつ意味は深長であり、素通りするのはあまりにも忍びない。
 自ずからなる恋心に生きる恋。自ずからなるが故に、善悪の判断を俟たない恋。まっすぐな恋。不条理と向き合い、人であることの哀しさを受けとめる人々の織りなす恋ーー倉本聰お墨付きの恋ばかりである。
 『昨日、悲別で』において、「規格外れ」の恋をする母・春子に対して、息子の竜一は、
イメージ
  働く母。
 語り「周囲の人たちが何といおうと、あなたが一人で懸命に生き、懸命に働き懸命に恋をする。それはあなたの
   まさに権利です。
   他人がとやかくいう資格なンてありません。
   母さんーー。
   僕はあなたを許します。
   噂をするやつより、されても耐えているあなたを本気ですてきだと思います。
   母さんーー」(4)

竜一の口を借りていわしめた、まぎれもなく倉本聰のことばである。
 「恋は、さらには人は自己本位であるか否か?」
 「悲別の問題児」、春子の愛人であり、「大人物」の異名をもつ末吉は、いみじくも言い放った。

 末吉「それは君、しかしねーー答えが出ないンだ」
 竜一「ーー」
 末吉「古来さまざまな文豪偉人が、その問いにぶつかって敗退している」
 竜一「ーー」
 末吉「それは答えの出るもンじゃないンだ」
 竜一「ーー」
   間。(5)

 『北の国から ’87 初恋』、『北の国から ’89 帰郷』は、純と螢の恋の季節である。「トキメクゼ」、「ドキドキしていた」のことばに象徴される思春期の恋である。恋する若者たちの胸のときめき、鼓動の高鳴りは醇なるもので、上気した顔、高揚した気分は、どこまでもいちずである。
 
「ゴンドラの唄」
1915年(大正4年)吉井勇作詞。中山晋平作曲。

いのち短し 恋せよ乙女
あかき唇 あせぬ間に
熱き血潮の 冷えぬ間に
明日の月日は ないものを

いのち短し 恋せよ乙女
いざ手をとりて かの舟に
いざ燃ゆる頬を 君が頬に
ここには誰れも 来ぬものを

いのち短し 恋せよ乙女
波にただよう 舟のよに
君が柔わ手を 我が肩に
ここには人目も 無いものを

いのち短し 恋せよ乙女
黒髪の色 褪せぬ間に
心のほのお 消えぬ間に

今日はふたたび 来ぬものを

 哀しくも、思わず応援したくなるような恋である。
 青春の香気ただよう恋。倉本聰の描く恋の原点である。
 倉本聰は、恋する人々を描く。恋愛ではなく、愛でもなく、恋というひびきこそがふさわしい人たちの織りなす恋である。