『倉本聰私論』_「はじめに」(04/21)
「倉本聰私論 ー『北の国から』のささやきー」
「はじめに」(04/21)
ーー“伝え合い”における“ことば”と言語ーー
シナリオは台詞とト書で構成された言語を媒介とする作品であり、物語は登場人物間での“伝え合い”によって展開される。
作家は“伝え合い”の場面を記述し言語として定着させる。そして、読者はそれを読むという作業を通して“伝え合い”のイメージを創造する。さらに、倉本聰の作品に関していえば、それは映像化されるのである。ここには“伝え合い”と言語との重層的な関係がある。
シナリオ文学においては“伝え合い”と言語、また“ことば”との関係は無視できない問題であり、それ自体がシナリオ文学を大きく特徴づけてさえいるのである。
まず、論文をはじめるにあたって、「“伝え合い”における“ことば”と言語の位置」、「“ことば”と言語の関係」について、西江雅之『ことばを追って』(大修館書店、一九八九年)、西江雅之「“伝え合い”の人類学」(『言語』五巻一号~四号、六号~十一号、一九七六年)を要約することによって明らかにしておきたいと思う。
思えば、早稲田の杜では数々の怪物に出会った、なかでも怪物の極めつけ、“奇人”中の“貴人”は、西江雅之先生であった。いつも熱いものを感じていた。常に熱い視線をおくっていた。大きな影響をうけた。卒業論文の「はじめに」、西江雅之先生の論文の要約を記すことのできる幸せを思う。
それはそれとして。
とにかく、はじめたいと思う。
〈“伝え合い”における“ことば”と言語の位置〉
現場での直接的な個人間の“伝え合い”は、七種類の基本的な構成要素から成り立っている。(順序は重要度とは無関係である)
1. “ことば”ーー言語(文字により直接記述可能な部分)+パラ・ランゲージ(声の質、スピード、癖など“ことば”づかいにみられる個性)。その場でのテーマに関する知識背景、その場その時の脈絡、その例を判断する道徳や政治などのイデオロギー的背景。
2. 身体の動きーー身体部分のさまざまな動き(顔の表情なども含む)、ジェスチャー、姿勢(静止したポーズ)、視線。
3. 人物の特徴ーー性別、年齢、体型、性格、身体付加物(化粧、服装、飾りとしての付加物、装いなど)。
4. 人物の社会的背景ーー社会構造上の背景(そのなかで当人の占める位置)、社会組織上の背景(そのなかで当人の占める地位)。
5. 環境ーー与えられている固定した環境、演出された操作可能な環境。
6. 空間と時間ーースペース、方角、距離、刻(年齢、春夏秋冬、朝昼晩など)。“伝え合い”に要する時間。
7. 生理的反応ーー直接接触による反応、間接知覚的反応。(相手の五感の利用)
・“伝え合い”を行っている者達は、これらすべての要素を意識的、無意識的に使い分けている。
・“伝え合い”のなかで七種類の要素がそれぞれ占める割合は、“伝え合い”の進行状態、相手の態度などによって刻々と変化する。
・“伝え合い”のすべての要素は、現実には分離不可能なものとしてその領域が溶けあっているので、一部の要素のみを使い他の要素を除外した形で“伝え合い”を行うことはできない。
・“伝え合い”を行っている者達が交換し合っている情報は、七種類の要素の総体として成り立っているのみでなく、その一つ一つの要素はすべての要素をそのなかに組み込むことによって成り立っている。したがって、これらの要素のうちの一つを取り上げて話題とする場合は、その特定の要素のなかに七種類の要素を下位要素として再び含ませる必要がある。「要素1」に当たる「“ことば”」についてのみ示せば「図1」のようになる。(他のすべての要素に関しても同様である)
図1
要素1
要素2
要素1 → 要素3
要素2 要素4
伝 要素3 要素5
え ← 要素4 要素6
合 要素5 要素7
い 要素6 ect
要素7
ect
・現実の“伝え合い”では、情報の“与え手”は同時に“受け手”であり、“受け手”は同時に“与え手”である。
・“伝え合い”の一例をみた場合、それは常に一回限りの意味しかもたない。(常に安定した一定の意味をもつことはない)
・“伝え合い”では知識ばかりでなく“情動”も交換し合っている。日常の“伝え合い”のなかでは、人はいかなる表現を試みようとも、それを“情動”抜きで行うことは決してできない。それは受けとる側にとってもみても同様である。
〈“ことば”と言語の関係〉
コードという語は「意味単位」とその「組み立て規則」という二つの側面をもっている。このコードという語を使うと、それに則って具体的に手渡されることになる“一回限りの意味”の一例を、メッセージという語で示すことができ便利である。
ここでいうコードとメッセージとの関係を、“ことば”と言語との関係に即していえば次のようになる。
言語とはある具体的な個人が声を出して実際に話したことのみを対象として、さらにそれを(文字、発音記号等)記述という手段で平面(紙など)の上に記述したものであり、その場、その時の話者の声を消し去ったものである。言い換えれば、言語とはこうした記述という背景に支えられた上での、ある一定数の音声単位と多数の意味単位とその両者を支配している組み立て規則の集合であり、それは人間のコミュニケーションを支えるさまざまなコードの一例に他ならない。
他方“ことば”とはある言語に則って、誰かによって、どのようにか話されているもの、すなわち、具体的な誰かの話し声として、どこからか、何らかの話され方で、現実に聞こえてくるもののことである。言語としては同じ意味をもつ数例のセンテンスも、個々の人によって別々の環境で話された“ことば”の場合には、無限の意味のバリエーションをもつことになる。なぜならば、“ことば”は一回限りの出来事だからである。
このように言語と“ことば”との関係はコードとメッセージとの関係に相当するものである。
“ことば”のかなりの部分は、言語以外の要素で支えられている。“ことば”というものは最も基本的にみても、声なき言語に話者の声(音色、スピード、強弱、情動、性別等)が不可分なものとして溶けあっており、その話者の声の部分は“伝え合い”において非言語(ノン・バーバル)要素として働いている。非言語とは体の動きや装いなどのみでなく、実際に話されている“ことば”の大切な部分なのである。
「“ことば”」の要素を示せば、以下のようになる。
「“ことば”」
1. 言語
2. 音声表情、個性