『倉本聰私論』_「4. 主だった特徴あれこれ」(08/21)


「倉本聰私論 ー『北の国から』のささやきー」
「第一章 倉本聰のシナリオをさぐる」

「4. 主だった特徴あれこれ」(08/21)
 「マ」や沈黙は、倉本聰のシナリオの大きな特徴となっている。しかし、その特徴は「マ」や沈黙にあるばかりではない。この節では、ことばやことばづかいにみられる特色をさぐってみたいと思う。
 ことばやことばづかいに関する、倉本聰のこだわりにはすさまじいものがある。それは、山口瞳をして、
 「山本周五郎さんに、君は言葉とか文字に神経使いすぎるといわれたことがあるのですよ。そうすると君は書けなくなるよと言われたことがあるのです。それと同じことを、あなた(倉本聰)にもいいたいような気がするのです。そこまで神経使わないほうが、むしろ見る側は気持ちがいいんじゃないかという感じがしますね。」(64)
といわしめるほどです。
 その一端は、
「ふりむきドキンと凍結した雪子。」
「なにげなく顔あげ化石した五郎。」
「ふりかえりハッとしたみどりの顔。」(65)
ーー同じ場所に居合わせた三者三様の驚きである。ーー(なお、傍点は私が付したものである。以下も同様である)や、
「裏の森にャキタキツネもいるしな。リスも出てくるゾ。それからエゾシカもやってくるし」
「リスが見れるの?!」(66)
に、みられる対照の妙。
「そのことばが胸に焼きついています。」(67)
「さっきの正吉のいったそのひと言が、僕の心につき刺さっていた。」(68)
「火事そのものと同じくらいに、僕の心の大きな傷になった。」(69)
「正吉にいわれたさっきのひと言が、僕の心に悲しく残っていた。」(70)
「その言葉が胸に突き刺さった。」(71)
のような、微妙なニュアンスの使い分けからもじゅうぶんにうかがい知ることができる。
  倉本聰は、一回限りの“伝え合い”をより忠実に記すために、音便、長音、擬音語、擬態語、擬人法、句読点、各種の符合(!、!!、!!!、?、?!、!?、!!?、!!/?)、平仮名・片仮名・漢字の使い分け、助詞の省略等々の表現技法を自在に使いこなし、常に、“伝え合い”の七要素に鋭い眼を光らせている。わけても、しっとりした老人のひかえめな語り口や、何気なく相手を気づかう恋人たちの会話は感動的でさえある。

  清吉。
  ーー湯のみを台に置く。
  その手がかすかにふるえている。
 清吉「深い事情はーーわし、知らんですよ。けど、ーー。それはちがうんじゃ
   ないですか」
(中略)
 清吉「金がーーどうにもなかったンですよ」
 一同「ーー」
 清吉「あの晩あいつーーわしとこに借りに来て、ーーはずかしいがうちにも
   ぜんぜんくて
   ーー近所の親しい農家起こしてーー大人一人と子ども二人ーー
   航空券と千歳までの代ーーそれやっと工面してーー発たせたですよ」
   雪子。
 清吉「翌日の昼、中畑ちゅうあれの友だちが、それをきいてびっくりして銀行に走って
   ーーでもあいつそれを、受け取るのしぶって」
 一同「ーー」
 清吉「だからあのバカ、汽車で来たんですよ。一昼夜かかって汽車で来たんですよ」
 一同「ーー」
 清吉「飛行機と汽車の値段のちがいーーわかりますかあなた。一万ちょっとでしょう。
   でもね、ーーわしらその一万ちょっとーー稼ぐ苦しさ考えちゃうですよ。
   何日土にはいつくばるか。ハイ」
 一同「ーー」
 清吉「おかしいですか、私の話」(72)
 
 喫茶店
   エ? と顔あげる純。
   コーヒーをまぜているれい。
   ゆっくりよみがえる店内の音楽。
 純 「何かいった?」
 れい「コーヒー飲んだらすぐ行こ」
 純 「どこに」
 れい「だからお医者さん」
 純 「いいよ!」
 れい「電話帳で探したのよ。待っててくれるって」
 純 「いいてっば」
 れい「ダメ。ずっと見てたら相当痛そう。純君の右手に何かあったら私、困る」
 純 「ーー」(73)
 
 また、
「ヘッドライトが切りさく闇を、目をこらしてさがしていく五郎の不安。」(74)
「五郎をおそっている激しい屈辱」(75)
「令子。ーーその心につきあげる孤独。」(76)
「反撃しようという空しい気力。」(77)
「予備校から出てきた勇次を、後からソッと気がつかれぬように尾行(つけ)る螢の倖せ。」(78)
 これらにみられる体言止めでは、不安、屈辱、孤独、気力、倖せといった抽象的な語が、映像的に表現され、これらの感情にすっぽりおおわれた人物のイメージが喚起される。これらは映像的であるだけに、我々の生理に直接訴えかけてくるのである。
 ところが、これらの特徴も「言外のふくみ」の前にはたちまち色あせてしまう。倉本聰のシナリオの最も大きな特徴は「言外のふくみ」にある。(先にシナリオは「省略の芸術」でありことばはふくみをもつようになったと述べたが、ここでいう「ふくみをもったことば」、また「ことばづかい」とは、省略のために自ずから「ふくみ」もつようになったもののことではなく、それ自体に「ふくみ」をもった「ことば」や「ことばづかい」を倉本聰自身が心がけているという意味である)
 
 「令子。
  ーーうつむいたままじっと感情にたえている。」(79)
   「あの人には東京が重すぎたのよ」(80)
   「卑屈で、力なく、しぼんで見えた。
   そうなンだ。この一年。
   ことにあの丸太小屋が燃えてしまってから、父さんはどことなくしぼんで
   しまった。」(81)

  「ふくみ」をもったことば、「ふくみ」をもたせたことばのほんの一例である。
 子どもたちにどうしようもなく会いたくて突然来富した令子。『北の国から 前編』・第九話でのことである。令子ははじめての来富である。令子はいかにもすまなそうに、
「コンニチワ」
と片仮名で挨拶した後、
「来ちゃった」
とつぶやくのであった。
 
 家・一階
   令子。
   ーーめずらしげに中を見まわしている。
   五郎。
   ーーはいって立つ。
   令子。
   ーーかすかに笑って見せた。
 令子「来ちゃった」
   音楽ーー鈍い衝撃。(82)

 かすかな笑いに続く、令子のこの「来ちゃった」。この台詞は意味を伝えるためのものではなく、感情の横溢により、ふと令子の口をついて出てきたことばである。感情の表出としておかれたことばである。令子の切なさ、さびしさ、悲しさ、また哀しみ。いたしかたなさ。五郎への遠慮、照れ、甘え、申し訳なさ等々の感情の束である。
 これらのことばづかいは、また、
 「おこられちゃったよ」(83)
 「(ちょっと笑う)バチね」、「バチがあたったのね」(84)
 「そういう土地だここは。ーーみんな出てくンだ」(85)
などなど、作品のあちこちに散見される。 
 倉本聰は、これらに万感をこめたのである。諸々の感情をないまぜにし、いっしょくたにつめこんだのである。感情としてのことばづかいによって、人物の心のひだを鮮やかに照らし出したのである。
 以下に引いた場面は、令子の葬儀も一段落ついたその夜、今は亡き「令子の部屋」での一コマである。

 令子の部屋
   螢ー一人で絵を描いている。
   五郎、わきにしゃがむ。
   絵をのぞきこみ、煙草に火をつける。
   間。
 五郎「なんの絵だい」
 螢(首をふる)
 五郎「わかンない絵だな」
   螢。
   ーーやみくもに暗い色を使う。
   五郎、螢の頭をなでて立とうとする。ドキンととまる。
   螢の目に涙がゆれている。
   五郎。
 螢 「父さんおぼえてる?」
 五郎「ーー何」
 螢 「こわかった夜のこと」
 五郎「こわかった夜のこと?」
 螢 「父さんがーー急に早く帰ってきて、母さんおどかそうって美容院に行った日」
   五郎。

 イメージ(フラッシュ)
   情事の現場からふりむいた令子。
 
 令子の部屋
   五郎。
 五郎「螢はまだそんなことおぼえてたのか」
 螢 「思い出そうと思ってただけ」
 五郎「なぜ思い出す」
 螢 「ーーいやだったから」
   五郎。
 五郎「どうしていやなこと思い出す」
 螢 「いいことばかり思い出しちゃうから」
 五郎「ーー」
 螢 「いいこと思い出すとつらくなるから」
   五郎。(86)

 悲しい場面である。
 「思い出そうと思ってただけ」 
 「いいことばかり思い出しちゃうから」
 「いいこと思い出すとつらくなるから」
が効いている。

 一つ一つの台詞はなに気ないことばの積み重ねであり、直截の感情表出としては唯一、螢の「つらくなるから」があるのみである。螢の悲しさ、耐える螢のいじらしさ。向き合う五郎の悲しみ、つらさ。これらの感情は、「所作としての沈黙」、また「作家としての間」と抱きあわせにされた格好で、「言外のふくみ」として、すべてが行間に託されている。
 それだけにかえって、この場面は我々を「搏つ」ものとなったのである。託されたものの大きさに、ことばを失くす。
 行間にものをいわしめた例である。
 妙なるト書の例である。
 倉本聰の含蓄の勝利である。
 倉本聰は、このように巧みな構成とことばづかいによって、数々の場面に「ふくみ」をもたせている。これもまた、倉本聰のシナリオの大きな特徴である。
 ときに呼称は、対人関係における相互の位置を示す重要な指標となることがある。ことに、地の文がなく会話で物語が展開されていくシナリオにおいては、呼称が大きくものをいう場合がある。
 つぎに、呼称に託された「ふくみ」についてみることにする。
 北海道で新しい生活をはじめて数か月間、五郎と純との関係はぎくしゃくしており、冷ややかである。螢の名づけ親は五郎であるが、純は令子によって名づけられたことが、二人の関係に微妙な影を落としているかのようでさえある。
 五郎は螢を「螢」と呼び捨てにするのに対して、純を「純君」と「君づけ」で呼ぶ。螢との会話は「ふつうのしゃべり方」でなされるが、純とのやりとりは「ていねいな言葉」でかわされる。普通の父子関係としては、どことなくよそよそしく、他人行儀である。
 「父さんこれまでお前に対して、ていねいな言葉でいつもしゃべってきた」
 「そうするつもりはなかったがーーいつからかそういう習慣ができちまった。」(87)
とは、一九八0年の大晦日に、涼子先生にその不自然さを指摘された五郎の純にむかっての弁であるが、それは五郎の無意識の言動であっただけに根は深かったといえよう。

 五郎「でももうやめる」
 純 「ーー」
 五郎「いまからやめる」
 純 「ーー」
 五郎「だからお前もーー。いっしょにやめろ」
   間。
 純 「ハイ」
 五郎「ウン」
   間。(88)

 この日をもって「君づけ」、「ていねいな」ことばづかいは清算されたが、二人の溝が埋まるまでには、それ相応の時を待たなければならなかった。距離はことばをつくり、ことばは距離をつくる。倉本聰の意図するところである。
 草太の雪子への呼称「雪子さん」が、「ガバッとおさえて」「ブチュッとキスしてポン」と肩をたたいた直後、たちまちにして「雪子」に変化する場面はじつに愉快であり、純が恋する大里れいをはじめて「れいちゃん」と呼ぶシーンでは、純のかすかな鼓動までもが伝わってくるかのようで、なんともほほえましい。また、「あのバカ、痛みが治らないのに」(89) や「だからあのバカ、汽車で来たんですよ」「一昼夜かかって汽車で来たんですよ」(90) にみられる「あのバカ」は、ひどくあたたかく響き、つららの「トルコ」での呼び名「雪子」は、痛ましく、そら恐ろしく、悲しく、哀しい響きをもった呼称である。
 「令子」の呼称により、純は吉野が母親の愛人であることに気づき、令子の死後、前妻の二人の子どもたちに、「母さん(令子)にお別れいいなさい」と、焼香をすすめる吉野の「母さん」により、純と螢はその後の二人の関係を知らされる。この「母さん」は、純と螢にとって深刻なひと言であり、悲しみに新たな悲しみが追い討ちをかける。『北の国から』での呼称の使い方としては圧巻である。
 このほかにも、「あの人」、「おたく」、「お前」、「昨日の男」等々、適材を適所に配し、倉本聰は呼称に多くを託し、多くを語らせている。
 さらに、倉本聰は「声なきものの声」を巧みにすくいあげている。どれをとってみても、一応に哀しい響きのする声である。切なく響く声である。
 螢はパジャマのにおいにより、母の来訪に気づく。石鹸のかおりにより父親に「女の人」ができたことを察し、また令子の洋服ダンスの戸を開け、そのにおいに浸ることで亡き母をしのぶ。
 父を気づかうあまりに母とのつらい別れをした螢。ーー眠る螢の胸にしっかりと抱かれた「小さなラベンダーの束」。また、「目じりから頬をぬらしている涙のあと」ーー純の、また我々読者の胸の痛む場面である。
 純にとっての、煙草の灰、床の「焼けこげ」は、母の不倫をほのめかすものであり。泥のついたピン札は、五郎の純への思い、純の富良野への想いそのものである。そして、無造作に屑かごにうち捨てられた「旅費の封筒」は、純の心を、故郷の人々、また山へ川にとしきりに誘うのであった。

   急にギクンと表の地面を見る。
   純。
   ーーゆっくりとウォークマンをはずす。
   純の顔。
 語り「雪の上にれいちゃんの足跡があった!」
   足跡。
   間、
 語り「足跡はまっすぐ納屋の中へ入り、それから表へ出たところで、ーーもういちど
   立ち止まってふり返ったらしく」
   純。
 語り「れいちゃんーー!」
   音楽ーー雪崩(なだ)れこむ。B・G。
 語り「(泣き声で)それぁーーないじゃないか、れいちゃん!」

 足跡
   月光の下、転々とつづいている。
 語り「ひと言もいわないでーー。どこへ行くとも、ーー何もいわないで行っちゃう
   なンて」(91)

 雪の上に残されたれいの足跡は、れいの心の跡であり、想いのあらわれである。
 ほかにも、正吉によって半分だけ下ろされた屋根の雪、トラばさみにやられたキツネの痛ましい足跡等々ーー倉本聰は雪にものをいわしめている。
 開高健の本は、恋多きこごみを象徴し、「岩にひっかかったままの『YUKIKO』の残骸」は、草太と雪子との恋の終わりを告げる。丸太小屋の模型は、五郎の心のうちの、“雪子の占める位置”を示し、マッチのレッテルのスクップに哀しい女心がにじむ。
 ものは心との結びつきによって産声をあげ、自己を主張しはじめる。以後、それは語り部となり、時の忘れ形見となる。ものが物を言う由縁である。
 倉本聰の作品は、平易なことばにあふれている。普段何気なく口にする、また日頃何気なく耳にする平易なことばが、倉本聰の手にかかると、とたんに沸き立つ。にわかに匂い立つ。そして、それらが寄り添い、互いに手を取り合ったとき、そこに詩情が生まれ、余情が生まれる。一編の詩が生まれる。
 倉本聰は行間に多くのものを託した。倉本聰は私たちの日常にこそ、詩があることをそっと耳打ちしてくれるのである。