『倉本聰私論』_「はじめのはじめに」(02a/21)


「倉本聰私論 ー『北の国から』のささやきー」
「はじめのはじめに」(02a/21)

 「年の瀬の煤払(すすはら)い。
 ここ何年か年の瀬を迎えるときまって、倉本聰のシナリオ文学を読むという行事が私を待ちうけている。
 知らず識らずのうちにたまったものなのか、意識的にためこんだものなのか、それはいざ知らず、とにもかくにも一年経つと、私は相当煤ばむ。そして、よけいなものを背負(しょ)い込んだ自分に気がつく。
 そこで重い腰を上げて、煤払い。
 倉本聰の作品は、私を浄化してくれるのである。懐かしい昔の自分にひき合わせてくれるのである。煤払いのうってつけの道具となるのである。
 しかし、悲しいかな、年年歳歳私にこびりつき、肉とまで化した煤は如何ともし難く、しかも、それが年を追うごとに増殖しているのを感じるのも、また事実である。」
 以前こんな文章を書いた。
 四年前、昭和六二年度のことである。当時砂田弘先生が担当されていた、「日本文学研究 IVA」におけるレポートの冒頭部分でのことである。題名は、「倉本聰『昨日、悲別で』(理論社、一九八五年)を読んで」というものであった。
 私と倉本聰との出会いは、私とHさんとの出会いと重なる。
  日本文学専修に歩を進め間もなくのことであった。東伏見のサッカー場で出会った。加藤久先生ご指導の体育、水曜日の三限、サッカーの授業で出会った。そのときはじめて、同じ学部、同じ学年、同じ専修、同じクラスであることを知った。
 年齢(とし)は今もって不明である。他人(ひと)の皺の数、年輪の数を数えるのは悪趣味にすぎるが、私よりも六つか七つ、もしくは八つは年上かと思われる。
 ともに東伏見でボールを蹴った。履修後も参加させていただいた。三年間もの長きにわたって、加藤先生の視野の中でともに気を吐いた。とかく休みがちだった私とは対照的に、Hさんは晴れると毎週出かけた。前夜、「お天気ダイヤル」に耳を澄ませ、“晴れ”の保証をもらうと、Hさんの内なるサッカーボールは、勢いよくはずんだ。Hさんのサッカーに寄せる想い、加藤先生を敬う気持ちには、並々ならぬものがあった。
 Hさんからは実に多くのことを学んだ。いや、今にしてなお学ばせていだだいている。
 素直さ、優しさ、思いやり。情熱、頑張り。ものごとに対する構え、姿勢、取り組み。読むこと、書くこと、ことば等々ーー心のあり方、心のもち方全般。人の基本。そして、何よりもサッカー。
 Hさんとの出会いは、私の早稲田で過ごした意味を何倍にもふくれあがらせた。
 東伏見からの帰途、心地よい疲れを乗せた西武新宿線は、今しも高田馬場駅のプラットホームにすべりこもうとしていた。
 そのとき。
 「倉本聰さんを知っていますか。『北の国から』、ぜひ読んでみてください。本多君にぴったりだから」
 (Hさんはいつも、「倉本聰さん」という。私を“君づけ”で呼んでくださり、年端のゆかない私にさえ、きちんと敬語で対してくれる)
 耳にしたことのない作家だった。目にしたことのない題名だった。手にしたことのない分野であった。
 これが私と倉本聰との“馴れ初め”だった。
 後々よくお話をうかがうと、Hさんの倉本聰さんによせる思いは、尋常ではなかった。
 教育、臨床心理学、仏教、東洋思想、和歌、小説、随筆、シナリオ、童話、童謡、“ことば”(1)ーー卒業論文のテーマ選びには四苦八苦した。決め手がなかった。さまざまな分野の周辺をふわふわ漂いながらの広く浅い読書だった。積読、併読であり、濫読であった。自分の核をなすものは、臨床心理学、わけてもカウンセリングのような気がしている。が、枠外であった。同様にして、枠からはみ出したいくつかの分野が姿を消した。そして、いくつかが残った。しかし、それとて一人の作家に絞りこむことは、至難のわざであった。
 三年時の秋、「卒業論文計画書」を提出した。題目は、大正期の童謡詩人、「金子みすゞについて」というものであった。この辺りの分野をご専門にされる先生についておけば、間違いないだろう、といういたって軽い気持ちで出すだけ出した。のらりくらりとかわしながら、なんとか「卒業論文仮指導」をしのいだものの、心は一つではなかった。あるときは松尾芭蕉の顔がうかび、あるときは夏目漱石の顔がちらついた。あるときは宮沢賢治の顔が、種田山頭火の顔が頭をよぎった。そして、その合間を縫うようにして、灰谷健次郎の、向田邦子の、倉本聰の顔が脳裏を駆け抜けた。
 結局、山頭火に決めた。
 相当数の書籍を読んだ。それなりの資料も集めた。が、なにも出てこなかった。とても書けそうになかった。山頭火と向き合っているうちに出てきたものはといえば、私の内なる無頼、そして頽廃ばかりだった。山頭火の自虐にとりつかれた。山頭火の自罰が我が身に巣食い、我が身をむしばんだ。
 「どうしようもないわたしが歩いてゐる」(2)
 酒に逃げた。苦い酒に浸った。
 「何でこんなにさみしい風ふく」(3)
 いつまでたっても出口は見つからなかった。そして、さらなる自縄自縛へと陥っていった。
 そんな折も折、北海学園「北海道から」編集室『倉本聰研究』(理論社、一九九〇年三月)が、出版された。気分転換にと思い、読み進めるうちに、ときめきはじめた。鼓動の高鳴りを耳にした。心移りしはじめた。やがて虜となり、ついにからめとられた。
 倉本聰には救いがあった。明るさがあり、楽しさにはちきれていた。そして、なによりも日常のもろもろが、“ことば”のなかに溶け合っていることがよかった。
 Hさんからのご紹介で、はじめて『北の国から』を手にしたのは、その年(大学二年、一九八六年)の夏休みに帰省したときのことだった。はじめてのシナリオに戸惑いを覚えた。人間関係をつかむのに手間取った。が、読みはじめるとやめられなかった。感動した。それは「小説など『文学』を読んだ場合のそれと本質的に変わらなかった。」(4) 何度も熱いものがこみ上げてきた。鳥肌がたった。乾ききっていたはずなのに、ーーそのことにもまた感動した。すてきなことばの数々、心地よいスピード感、作品の底を穏やかに流れる確固たる思想への共感。そして、なによりも斜に構えた生き方をよしとしない人々が、まぶしかった。その後何度となく読んだ。その都度新たな発見があり、新鮮な感動があった。そして、今回、「卒業論文のため」と意を決し、心を鬼にして頭で読もうと何度も試みたが、だめだった。常に論理よりも生理に軍配があがってしまうのであった。