『倉本聰私論』_「はじめのはじめに」(02b/21)
「倉本聰私論 ー『北の国から』のささやきー」
「はじめのはじめに」(02b/21)
はたして、『北の国から』は文学たりうるのであろうか。
「はじめのはじめに」、私が問題にしたいことである。
「『北の国から』は文学たりうるか否かーー内容よりも形式をことさらのごとくに取りあげて問題にするこの種の議論に対して、私は虚しさを感じる。議論のための議論はさびしい。批評のための批評はあまりにも悲しい。卒業論文のテーマとして、『北の国から』を取りあげたこと、それが私のこの問題に対する自ずからなる答である」。
以上が、私の結論である。
私はこの手の議論になると口をつむぐ。この問題に関しては、これで勘弁していただきたいと思う。容赦していただきたいと思う。ようするに私はこの手の議論が厭なのである。
が、かりそめにも「論文」であり、そうはゆくまい。したがって、この問題に対する私なりの考えを、「文学がもつ毒性」というただ一点のみにしぼって以下に述べておきたいと思う。
「僕(倉本聰)自身テレビのドラマというものを必ずしも芸術だとは考えていない。だが、芸術であろうとなかろうと、悲劇であろうとドタバタであろうと、作品は少なくとも作る者たちにとって、一種狂気の産物でなければならないのではあるまいか。(中略)正しい狂気、正当な狂気は、それが作品である以上、こめられていなければならぬ気がする。(中略)自分の狂気が封じられた時、僕はテレビと別れようと思う。」(5)
多かれ少なかれ文学(芸術)は「創造的破壊」という一面を備えている。文化的なとらわれ(自己概念)から人を解き放ち、「本来なる自己」に立ち返らせることを一つの大きな目的としている。なんの疑いもなく、あたかも当然のことと考えられている「文化的な約束ごと」(常識、通念、道徳。因習、固定観念、伝統等々)からはみ出した、という意味において、それは“毒”に相当する。倉本聰はこの“毒”の部分をさして、「正しい狂気、正当な狂気」といっているのではないだろうか。
『北の国から』では、現代文明が、また現代を生きる人々が厳しく問いつめられている。 倉本聰は、現代が落とす影を白日のもとにさらけだし、五郎親子に古き良き日本人を追体験させることによって温故知新という名の「創造的破壊」をやってのけたのである。“毒”にあたった多くの若者たちが富良野塾(6)をめざし、北海道で新しい生活をはじめたこと一つをとってみても、それは明明白白な事実である。そして、何を隠そう、私自身もこの心地よい“毒”にしびれた一人なのである。
『北の国から』は、倉本聰の「正しい狂気、正当な狂気」のこめられた言語作品である。今なお多くの人々を魅了し続け、感動させ続けている言語作品であり、多くの人々を“変える”だけの力を秘めた言語作品である。ここに私は、『北の国から』のまぎれもない文学性を思うのである。
「私は、倉本さんと山田太一さんと向田邦子さんのテレビドラマをよく見るのです。それ以前は、少し疲れるとか、意気消沈しているときに、わざわざテレビドラマを見たんです。この人たちがお金をもらっているなら、ぼくももらってもいいわいなんてね、慰さめになったんですよ。それが、倉本さん以後はだめでね、ああいけねえ、まいったな、ぼくはお金もらえないなと思うことがあってね。ぼくにとってはマイナス面なんです。」(7)
「実に、ぼくはあなた(倉本聰)の作品、見事なものだというふうに思いますけど。とにかく、あんなキメのこまかいーー本を読むととくにそう思いますけどーー作家というのは、今まで知らなかったですね。」(8)
「ひとの悪口言うわけじゃないけど、『このあたり、うまい役者さんのアドリブにのっかって適当にやってくれ』という指定のシナリオがあるって聞いて、そういう点では非常に軽蔑して。そこが大事なんじゃないかという気がしていたんだけど、あなたの読むと、実によく書き込んであって。それから、本を読んであとで作者のいいところがわかったりするところもありますけど、実に感心しましたね。」(9)
倉本聰との対談における山口瞳の談話である。
なお、この対談の行われた時点で出版されていた倉本聰の作品は、『倉本聰テレビドラマ集1 うちのホンカン』(ぶっくまん、一九七六年)、ただ一冊のみである。
そして、それは山口瞳が、『週刊新潮』への原稿執筆中のことであった。
「ここまで書いたら、倉本さんから電話が掛った。
『山本有三文学賞というのを受賞しました』
『何で? ドラマで?』
『『北の国から』の脚本です。山本有三文学賞というのが嬉しい。文学です。』
もう、そんなにこだわりなさんな、倉本さん!」(10)
倉本聰の「文学」へのこだわりを示すエピソードである。
一九八二年、倉本聰は、『北の国から 前編』(理論社、一九八一年)、『北の国から 後編』(理論社、一九八一年)によって、第四回「路傍の石文学賞」(11)を受賞した。さらに、一九八七年、『北の国から ’87 初恋』(理論社、一九八七年)によって、第三十六回「小学館文学賞」(12)を受賞した。
シナリオが「文学」としてはじめて日の目を見たのである。『北の国から』が「良質な文学」として認められたのである。
「テレビドラマのシナリオは、一般に文学のカテゴリーには入っていないようで文学事典類にも倉本氏、倉本氏の業績が取りあげられることはあまりない。
たしかにテレビドラマは、新しい形態の表現である。そのシナリオは、今までの表現にはなかった特徴を持つものであり、またさまざまの制約もあって、たしかに旧来の文学観念では律しきれない諸点を含むであろう。(中略)私たちもはじめて読んだ倉本氏のテレビシナリオに強烈な印象を受けた。そして、その感銘の質は小説など『文学』を読んだ場合のそれと本質的に変らなかった。私たちは倉本氏のシナリオは良質の文学として評価されるべきものであり、むしろ固着的な文学観は修正しなければならないのではないかと考えている。」(13)
これはなにも『北の国から』にかぎったことではない。倉本聰の作品の数々はまぎれもなく「文学」であり、「シナリオ文学」の呼び名こそがふさわしいものである、と私は確信している。
以前より“伝え合い”には興味があった。特に“ことば”と「沈黙の言葉」(14)には強い関心があった。しかし、テレビ、映画、映像。演劇、演出、演技。戯曲、シナリオ等々の理論に接したのは今回がはじめてであった。
「テレビ論は存在したのである!」
まことにかわいらしい驚きからの出発だった。目にするもの、手にするものすべてに新鮮な驚きがあった。
けっして、質、量ともに、十分な本にあたったわけではない。それとて私は食傷ぎみである。まだまだ熟(こ)なれていない分野である。そんなこんなで、第一章はみごとなまでに引用文で埋められることになった。それは、どの著者の、どの著作の、どの部分を、どのように引用し、いかに並べたかだけに、私が顔をのぞかせているにすぎないといった惨憺たるありさまである。自分の頭のなかにあったことどものすべては、人口に膾炙された、おきまりの、おざなりの言い古された陳腐なことばかりだった。かくいう私は、「はじめのはじめ」から、弱腰、及腰、逃げ腰なのである。
倉本聰と取り組むことによって、テレビとのつき合い方が変わった。映画にしても然りである。俳優さんの“ことば”、表情、所作、立ち居に目が向くようになった。話者ではなく、聴き手の姿勢に注意が向くようになった。そして、それは日常へと敷衍していった。
見えているものと観ているもの、見えること。聞こえているものと聴いているもの、聞こえること。これらの差異に今さらながらに感じ入っている。
本来ならば、二年次で履修するはずの「日本文学研究 IB」が、なぜか最後の最後まで残った。竹本幹夫先生の“能”の講義であった。はからずも卒業論文と並行して進められた講義。余情にあふれ、幽玄であると形容される世阿弥の謡曲。また、能楽論。いずれも楽しく、興味深いものであった。この時期に聴いたからこそである。
瓢箪から駒が出た。
温存しておいた(?)私の先見を思う。六年次のこの時期に聴けた幸せをつくづく思う。
すこし世界が広がった気がする。
すこし目の前が開けた気がする。
ありがたいことである。