『倉本聰私論』_「3. 故郷(ふるさと)」(12/21)


「倉本聰私論 ー『北の国から』のささやきー」
「第二章 倉本聰『北の国から』をさぐる」

「3. 故郷(ふるさと)」(12/21)
 「血につながるふるさと / 心につながるふるさと / 言葉につながるふるさと」(19)
 「幼な馴染ってありがたいね」、「故郷って結局ーー。それなンだろうね」、「中島みゆきの“異国”って歌知ってる?」、「何ともたまンない歌なンだよね」、「忘れたふりをよそおいながらも、靴をぬぐ場所があけてあるふるさとーーってさ」(20)
 悲喜こもごものつまった年月のあるふるさと。風景を前にたたずみそれが絵になるふるさと。
 “北の国”とは、思い出のもち方のすばらしい人々が住むくにである。他人(ひと)をなつかしむがゆえに、他人(ひと)からなつかしがられる人々の息づくくにである。古きよき時代の情感にくるまれたふるさとの代表。郷愁をかきたてられずにはおかない日本人の心の故郷(ふるさと)。
 かつて五郎は、こっそりくにを抜け出した。故郷を捨て一人東京へと急いだ。東京には何かあるにちがいない。東京に行けばなんとかなるにちがいない。東京に行けば…。東京には…。そんな五郎が「異国」でみた夢は、捨てたはずの「麓郷」のことばかりであった。「麓郷に帰ってみんなと暮らすこと」、それだけが五郎の心の「ハリ」だった。五郎にとっては重すぎた東京。妻の情事。虚ろな心をかかえての帰郷。しかし、五郎を迎えた人々のまなざしはあたたかかった。五郎は昔とかわらぬ視線に感じ入った。
 外からくにを感じた五郎の故郷によせる思いは熱い。自らの傷のもち方が他人(ひと)に対する優しさとなる。
 連帯保証人になったばかりにばかをみせられた、みどりに対してさえそうであった。
 「(笑う)何いってンだバカ。くにじゃあないか」、「みどりちゃん」、「冗談いうなよ」、「おたがいこんな小っちゃいころからずっと一緒にやってきたンじゃないか」、「土地がなくなろうと何しようと、大事なもンは消えるもンじゃないぜ」、「中ちゃんがみどりちゃんを怒鳴ったンだってーー活(かつ)入れるつもりでやったンだと思うぜ」、「当り前じゃないかそのくらいわかれよ」、「だいいちオレが怒ってないンだ」、「帰れないなンて、そんなこというなよ」、「くにはもうないなンてーー淋しいこというなよ」、「くにはここだよ。ーーいつだってあるよ」。(21)
 「いつだかみどりちゃんいったことある。中島みゆきの歌のこと覚えてるか」、「オレ東京で偶然聴いてさ」、「“忘れたふりをよそおいながらも、靴を脱ぐ場所があけてあるふるさと”」「ーー泣いちゃったよオレ」、「忘れちまったか」、「え?そうなンだぜ」、「金のことなンてもう忘れろよ」、「帰れないなンてそんな、バカなこというなよ」。(22)
 また、高校進学のために上京する純に向かって、
 「純」、「疲れたらいつでも帰ってこい」、「息がつまったらいつでも帰ってこい」、「くにへ帰ることは恥ずかしいことじゃない」、「お前が帰る部屋はずっとあけとく」、「布団もいつも使えるようにしとく」、「風力発電もーー。 / ちゃんとしておく」、「おれたちのことは、心配しないでいい」、「中富の定期便が東京まで行くから、それに乗れるようにたのんどいてやる」、「卒業式が終ったらすぐ行け」、「(笑う)雪子おばさん、愉しみに待ってる」。(23)
 ある視座に立ってみたとき、『北の国から』は、純と螢のふるさとさがしの物語であり、くに創生の物語であるといえる。
 原風景を有する五郎の目に映った東京は、あまりにも荒れた地だった。子どもたちのふるさとと呼ぶにはあまりにも乾き、底冷えのする地だった。五郎は、子どもたちにくにをもたせてやりたかったのである。できることならば、自分と同じ地をふるさととしてあたためてもらいたかった。
 「いずれ、あいつらがおとなになったらーーイヤーー二年でもいい、一年でもいいーー時期がきたらあいつらにーー自分の道は自分でえらばせたい。ただーー」、「その前にオレは、あいつらにきちんとーーこういう暮らし方も体験させたい」、「東京とちがうここの暮らしをだ」、「それはーー」、「ためになるとオレは思ってる」。(24)
 くには創ってやれないにしても、せめて自分を育んでくれた空気に浸らせてやりたかったのである。優しく吹く風にあたらせてやりたかったのである。
 ここが私のふるさと、父を思うあまり、螢は移住当初から自分に無理強いしたが、純は違った。いつまでも東京を引きずっていた。純が東京と縁を切るためには、相応な時間をまつ必要があった。純が富良野へとなびいたのは、母を見舞いにいった際の東京での体験であった。そして、母を野辺に送ったとき、純は(螢も同様に)きっぱりと東京と訣別したのであった。以降、純にとって東京は、「異国」になりさがったのである。
 純の高校進学のための上京は、旅装を整えての出立にすぎなかった。東京で生まれ、幼少期を過ごした東京。頭に描いたとおりの血沸き、胸おどる東京ではあったものの、決して旅装を解くところではなかったのである。うそら寒い風の吹く、荒涼とした地でしかなかった。
 時がひとり歩きする東京。
 時が暮らしをせかす東京。
 時がいたずらにかたわらを駈けぬけてゆく東京。
 時が自然な感情の発露を断つ東京。
 時間ばかりが気になる東京。
 時に振りまわされ、時にひきずりまわされる「異国」の時の流れの中で、純は右往左往するばかりだった。絶えず緊張を強いられる生活のなかで、純が消耗していくのは当然のことであった。
 「父さんーー!ぼく今富良野に帰りたい!こっち(東京)に来て初めてそう思っています。父さん逢いたい。螢に逢いたい。草太兄ちゃんや、中畑のおじさんや、ーーそれから山とか、雪とかをみたい!あの雪の中で、ーーゆっくり眠りたい」。(25)
 帰郷した純は、「死んだように」眠った。母親の抱きとられた子どものように、一抹の不安もなく、眠りほうけた。
 「信じられない眠さだった。こんな深い眠りって何年ぶりだ」。(26)
 やはり東京には空はなかったのである。なんの気がねもなく暮らせ、自分が自分でいられる地は、富良野をおいて他にはなかったのである。
 五郎の何気ない心配り、何気ない仕草のうちに温かさをみる純。この図式は、帰省した子どもと親との関係にみられる典型である。にも関わらず、我々の心は動く。当たり前のことが当たり前のようになされることがうれしい。それは我々の心の渇きに由来するものなのかもしれない。癒されたいという欲求のあらわれなのかもしれない。
 故郷に想いをはせたとき、一人の老人のことが気になる。少々呆けてくにに帰ってきた松吉のことである。
 「(ちょっと笑う)知らないかみどりちゃん、沢田の松吉さん」、「帰ってきてるンだ。その話きいてない?」、「だいぶ呆けちゃってトンチンカンなンだけどさ、でもーー本当にうれしそうなンだ」、「悪いことは全部忘れちゃってね」、「自分が女房子捨てて逃げたことも。土地も財産も何もないことも。それでーー何ちゅうかーーいい顔してンだ、ああ」、「そうなンだ。何ともーー、いい顔になってンだ」、「あれはなンかな。あのいい顔は」、「くにに帰ってーーしあわせなンだな」、「いつか帰ろうとずっと思ってたンだな」。(27)
 『北の国から ’83 冬』において笠智衆演ずる松吉は、実に「いい顔」をしている。すっきりした顔をしている。
 「人は死に臨み、それまで身につけた余分なものを捨てさるがゆえに、老いて呆ける。呆けは死への準備である。生きるなかで余計なものをためこんだ人ほど呆けやすい」との話を聴いたことがある。
 人が捨てきれない大切なものとはなんなのであろうか。余計なものを捨てさった後に、なお残る確かなものといったいなんなのであろうか。
 捨て去り、捨て去りした挙げ句、少々呆けてくにへ帰ってきた松吉。稚魚の時代を過ごすうちに染まった懐かしい匂いを求めて、川を遡るサケのように、帰巣本能のままに帰郷した松吉。ふるさとは当人にとって彼岸に近いものなのかもしれない。故郷への郷愁は、彼岸への郷愁、松吉の帰郷は、死地を求めての帰郷なのかもしれない。
 倉本聰は、アイヌ民族の思想に少なからぬ関心をよせている。
 「父親が老化して、その言葉がわかりにくくなったとき、知能検査の言語能力のスケールに照らし合わせて測定する科学の知に対して、父親もそろそろ神の国の世界に行くことになって、われわれの理解し難い神の言葉で話すようになったという神話の知に頼る方が、はるかに自分と父親とのかかわりを濃くしてくれるのではないだろうか。事実、アイヌではまだまだ老人が尊重されているのだが、そこでは老人のわけの解らぬもの言いを『神用語』という。『あの世への旅立ちの準備で、神に近くなってきたからそうなると考えるのである。』(28)」。(29)
 「科学の知は、自分以外のものを対象化してみることによって成立しているので、それによって他を見るとき、自と他とのつながりは失われ勝ちとなる。自分を世界のなかに位置づけ、世界と自分とのかかわりのなかで、ものを見るためには、われわれは神話の知を必要とする。ギリシャ人たちは太陽がまるい、高熱の物体であることを知っていた。にもかかわらず、太陽を四輪馬車に乗った英雄像として語るのは、人と太陽とのかかわり、それを基とする宇宙観を語るときに、そのようなイメージに頼ることがもっとも適切であるから、そうするのである。」(30)
 以上は、臨床心理学者の河合隼雄の言である。
 倉本聰がこのアイヌ神話を知っていたかどうかは定かではないが、このアイヌ神話と、「私の思う倉本聰の考え方」の間には似かよった点が認められる。松吉の言葉を「神用語」としてとらえたとき、松吉の「ほとけ様みたいな顔」、「人間のでかさ」、慈悲にも似た他人への思いやり等々が、私の中で落ち着きをみせる。
 『北の国から ’83 冬』の最後の場面において、倉本聰は松吉を幻想の世界に遊ばせる。幻想については次章で詳述するつもりであるが、倉本聰における“幻想の世界”とは、“聖なる地”なのである。つまり、倉本聰は神にも似た松吉を作品の最後で、彼此の渾然とした聖なる地に導くことによって、松吉を救ったのである。それが倉本聰の松吉に対するせめてもの優しさであって、思いやりだったのである。こんなところにも、「悪人が書けない」という倉本聰の、人を粗末にあつかえないという倉本聰の、本領が顔をのぞかせている。
 その後の松吉の消息は明らかではないが、松吉は亡くなったと私は考えている。
 杵次もまた郷愁とともに死んでいった老人である。
 杵次は、くにに背を向けて住んでいる老人である。杵次はヘナマズルク生きることによって自己を防衛し、自らの内なる古きよき時代にしがみついて生きている。杵次のヘナマズルさは、故郷を想うがゆえのヘナマズルさである。杵次は時折、五郎親子に対してだけは、昔ながらの「仏の杵さん」の素顔をみせた。それは、五郎親子に、またその暮らしぶりに、古きよき時代をみたからである。杵次とって、五郎親子は今と昔とをつなぐ媒介者だったのである。
 馬を手離したその晩。不慮の死をとげた杵次。杵次は馬にまつわる思い出、またそれと重なるふるさとへの思いを抱きつつ黄泉の世界へと旅立ったのである。
 松吉の死といい、また杵次の死といい、ふるさとに殉じたといえばいいすぎであろうか。
 “北の国”とは開拓者によって拓かれた地であり、農産、林産によって生計を立てている地である。過疎の喘ぐくにであり、廃屋が点在するくにである。現代が暗く影をおとすくにである。
 夢を追い、希望をひっさげて、なにかにとり憑かれたかのように、こぞって都会をめざす若者たちの群れ。草太との恋に破れくにを後にしたつらら。大里父子の夜逃げ。廃校に追いやられた分校。ダムの底に沈む村。深刻な嫁不足。生産調整。出稼ぎ問題。
 倉本聰の描くふるさとは、けっしてユートピアではない。現代を内包したくになのである。
 「わしらは都会の娘さんを見ると疑ってかかる習慣がしみついとる」、「これァ習慣だ。長い間の」。(31)
 「見送りにはなれてるよ」、「なんどもここでーー見送ったからな」(32)
 重くこたえる清吉のひと言である。
 「(叫ぶ)ガタガタいうなよ、何したっていいべさ!!」、「いてやってんだ!!オラはこの土地に!!」(33)
 我々の耳にも痛く響く草太のひと言である。
 「血につながるふるさと / 心につながるふるさと / 言葉につながるふるさと」
 しかし、ふるさとは不動の位置から微動だにしない。ふるさとはいまだに孤高の位置を保つ。
 日本的情緒あふれるふるさとの原型に、時をこえてかわらないふるさとに原型に、“北の国”でみた実情をふまえ、倉本聰は今様のふるさとを創生したのである。