『倉本聰私論』_「第一章 倉本聰のシナリオをさぐる」(05a/21)


「倉本聰私論 ー『北の国から』のささやきー」
「第一章 倉本聰のシナリオをさぐる」(05a/21)

 「今あたらしい一ページがひらかれようとしている。」(1)
  静かなことばである。が、強さを秘めたことばでもある。
 「遂に、新しき詩歌の時は來りぬ。」
 藤村の一文にも似た響きのすることばである。
 そして、それは以下に続く。
 「たんに出版が新しいメディアから輸血を受けようというのではない。テレビ・シナリオが出版の世界に存在性を確立し得たというのでもない。テレビという魅惑にみちたメディア自体が、今ようやく独自の文学芸術的な表現を探り当てようとしているのだ。まぎれもなく倉本聰こそは、その試行の、その冒険の、先駆者であった。」(2)
 「創作児童文学の漠然とした停滞状況」のなか、「より広く、より新しい創造力を求めて、」倉本さんに、児童文学作品を「小説で」、という願いが、小宮山量平(現 理論社会長)にはあった。あえて「小説で」といったのは、小宮山量平には、『日本シナリオ文学全集』全一二巻(理論社、一九五五ー一九五六年)を企画、編集、出版し、社を窮地に陥れた苦い経験があったからである。
 ところが、なんという巡り合わせか、高校時代を過ごす倉本聰は、小宮山量平の「愛憎きわまる」『日本シナリオ文学全集』を、朱線でまっ赤になるまで読みこみ、それが倉本聰のその後の人生を決定づけたのである。
 「お約束でしたが、ぼくはやっぱり、このテーマを、シナリオで書くことにしました。もともと、ぼくはシナリオ作家なのです。シナリオというものの可能性を、改めて試してみたいのです!」(3)
 小宮山量平の依頼に対して、倉本聰は、「シナリオでならば」という条件で引き受けたのである。
 「テレビ・シナリオを、あえてそのまま児童文学として出版するということは、出版史上の一つの冒険」(4) であった。
 当時にあって倉本聰は、「シナリオでならば」という条件を提出し、小宮山量平はそれを受けて立ったのである。しかも、昔の手酷い失敗にも懲りずに、である。倉本聰のシナリオライターとしての矜持、意気地。小宮山量平の出版人としての度量、大度、心意気には、ただ脱帽、ただただ敬服するばかりである。
 『北の国から』の出版には、こんな経緯(いきさつ)があったのである。
 そして、ついに一九八一年九月、「さあ、あなた達の時代の、あなた達に贈る物語ですよ」(5) 『 北の国から 前編』は、「まず日本のジュニア世代の前に」、 理論社の「大長編シリーズ」の一冊として届けられたのである。そして、その一か月後、「文芸書版」『北の国から 前編』が、一般文学として上梓されたのであった。
 『北の国から』は、倉本聰の「テレビ語」による文学への挑戦であり、またシナリオの出版界への快進撃の嚆矢ともなった記念すべき作品である。