『倉本聰私論』_「3. 間・沈黙の文学として」(07/21)
「倉本聰私論 ー『北の国から』のささやきー」
「第一章 倉本聰のシナリオをさぐる」
「3. 間・沈黙の文学として」(07/21)
倉本聰のシナリオの特徴は「ーー」、「間(ま)」にある。倉本文学は「間(ま)の文学」である、とよくいわれる。確かにこの特徴は、他のシナリオライターの作品と並べればひと目でわかるほど際立ったものである。多くのシナリオライターは、倉本聰の書く「ーー」や「間」に相当する大部分を読者にあずけ、直接シナリオに書きこむことをしない。倉本聰ほど、「ーー」や「間」を、いや、シナリオそれ自体を丹念に書きこむシナリオライターを私は知らない。倉本聰は、この辺りのことについて、以下のごとく述べている。一九七七年のことである。
「僕の場合ホン自体で演出を規制しちゃうような書き方をするというのは、撮入三日前にホン渡して、照明美術その他のスタッフから端役の末端まで、百人近い人数にバァーッと一どきにみんなの意志統一を計るのがテレビのホンの役割だと思っているから、流れ出てくる最後の完成型が全員の人に伝わるように、できるだけホンの中にでき上ったかたちをみせたいと思っているからです。だから音楽指定が入ったり、〈誰々の顔〉みたいな表現が出たりするんだけれども、それはやっぱり完成の絵を想像できる書き方をできるだけしようと思うからなんです。」(38)
『北の国から 前編』が出版されたのは一九八一年のことであった。これが契機となり、シナリオが多くの読者を獲得した。それ以前は、たとえ出版されたとしても、シナリオライター志願者だけにしか読まれないという状況であった。倉本聰の眼が、専らテレビ関係者のみに注がれていた時期の作品と、一般の読者を、そして多分に「文学」を意識して書かれた時期の作品とを比較したとき、そこにすこしの遜色も認められないことは、驚くべき事実である。倉本聰の芸術家としての矜持である。
倉本聰は、「ーー」と「間」とをはっきり区別して書き分けている。
以下は、『北の国から 前編』の冒頭の場面である。
黒板令子の顔
手にしたストローの袋を見ている。①
静かに流れているクラシック曲。
雪子の声「お義兄さんたち、昨夜発ったわ」
令子「ーー」
喫茶店
向い合ってすわっている雪子と令子。
間(ま)。
雪子「姉さんどうして送りに来なかったの」
令子「ーー」②
間。③
クラシック曲。
雪子「純も螢もーー。さびしそうだったわ」④
令子「ーー」
間。
雪子「かわいそうでーー」⑤
令子「ーー」
雪子「まともに見てられなかったわ」
令子「ーー」
令子。
ーーうつむいたままじっと感情にたえている。⑥
クラシック曲。
間。
雪子「子どもたちにどういう罪があるの? それに」⑦
令子「(低く)あんたもずいぶん残酷なこというわね」
雪子「ーー」
令子。⑧
令子「行きたかったわよ」
雪子「ーー」
令子。⑨
令子「行って、駅から純と螢をーー力づくでも取返したかったわよ」
雪子「ーー」
間。(39)
これをみると、倉本聰は、「ーー」と「間」とを、その「空白」をはさんだ前後の台詞が連続しているか否かによって明確に区別していることがわかる。つまり、倉本聰は、「ーー」において「連続性の中の空白」を示し、「間」によって「ある断続性がある」ことを示しているのである。
これは表記の際の書き分けであり、形式的な区別である。では、倉本聰は、「ーー」や「間」にどのような意味を託し、また書き分けているのであろうか。佐々木健一『せりふの構造』(筑摩書房、一九八二年)、「第五章 沈黙とパロール」にしたがってみていきたいと思う。
以下は、佐々木健一によって明らかにされた“沈黙と間(ま)の構造”の要約である。
(1) 沈黙は内容的概念であり、一つの事実を指している。それに対して間(ま)は、表現形式の問題である。沈黙は内世界的事実でありごく自然な行為もしくは反応であるが、間(ま)には表現に対する配慮や工夫が感じられる。
(2) 沈黙はその主体もしくは所在によって「人の沈黙」、「劇場の沈黙」、「世界の沈黙」に分類される。
(3) 間(ま)はその効果を生み出す主体によって「劇中人物の間」、「俳優の間」、「作家の間」に分類される。
(4) 注意しなければならないのは、沈黙と間(ま)とが登場人物において重複している場合である。問いかけて返答を待っているときの沈黙は単に表現形式の問題であるから間(ま)と呼ぶのがふさわしく、問われて答えない場合の間(ま)はむしろ沈黙と呼ぶのがふさわしい。
(今後、倉本聰の使う「間」に対して、佐々木健一がいう意味での間(ま)を「マ」と表記することにする)
では、佐々木健一の“沈黙と間(ま)の構造”にしたがって、『北の国から 前編』の冒頭部分での、「ーー」と「間」についてみていくことにする。
倉本聰における「ーー」は、聴き手が無言の状態で話者の話に耳を傾けている状態を示す「マ」(「劇中人物の間」に相当する)であると同時に、倉本聰が聴き手の存在を読者に明示するために意図的に書き加えた表現形式としての「マ」ーー表現の主体は作者にあり、読者に行間を感じてとってほしいという役割を担った「作家の間」に属するものーーである。ただし、唯一の例外は、話者の問いかけに対して聴き手がなにも答えない(「ーー」で答える)場合の、「ーー」であり、これは聴き手の沈黙(「人の沈黙」に属する)を示すものである。②の令子の「ーー」は、これに該当する。令子の「ーー」は、「姉さんどうして送りに来なかったの」という雪子の問いかけに対する答えであり、令子の沈黙(「返答の拒否」)を示している。
「ーー」が、「人の沈黙」をす場合を除けば、「ーー」はすべて「劇中人物の間」であり、かつ「作家の間」である。
「劇中人物の間」は、「作家の間」からの派生したものであると私は考えている。つまり、倉本聰の力点は、常に「劇中人物の間」ではなく、「作家の間」におかれている。シナリオにおいて聴き手の存在を明示することの意味は大きい。読者は聴き手の存在を忘れ、話し手の独白を聴いているかのようなイメージで作品を読みがちだからである。“伝え合い”では、“与え手”は常に“受け手”であり、“受け手”は常に“与え手”である。聴き手のとる態度如何は、敏感に話者に反映され、ときには聴き手の仕草や感情の流れが、話し手のことば以上に重要な意味をもつことさえある。
つまり、「ーー」は、読者に聴き手のあることを絶えず喚起し、どのようにか聴いている聴き手の「どのようにか」に相当する部分(「沈黙のことば」)をイメージさせる役割を担っている。
「ーー」によって、作品は深まりをみせる。倉本聰は、「ーー」によって、創造をうながす“間(ま)”を提供したのである。
「ーー!」、「ーー!!」、「ーー?」等は、「ーー」の変種であり、「ーー」に表情をもたせたものである。その意味するところは、「ーー」と同様である。一例を引けば、
純 「おじさん」
クマ「?」
純 「ここらは熊出ませんか」
クマ「なンもだ。平気だ。ここらの熊は、気立てがいいから」
クマ、去る。
純 「ーー!!」(40)
なお、「ーー!!」は、「ーー!」の強調された形である。
「間」は“伝え合い”に参加しているすべての者の沈黙(「人の沈黙」に属する)である。さらには、「間」=「人の沈黙」は、
1. 自分の“ことば”に対する話し手自身の感情表現としての沈黙。
2. 聴き手の話者に対する感情表現としての沈黙
3. 聴き手の示した感情表現に対する話者の感情表現としての沈黙
4.言葉を紡ぎ出すための時間
1. 自分の“ことば”に対する話し手自身の感情表現としての沈黙。
2. 聴き手の話者に対する感情表現としての沈黙
3. 聴き手の示した感情表現に対する話者の感情表現としての沈黙
4.言葉を紡ぎ出すための時間
と、表記可能な性質のものである。
(上記は、「間」が四つの要素から成り立っていることを示しているものではなく、これらの要素は“伝え合い”の七要素の場合と同様に考えるべき性格のものである)
佐々木健一は、マクス・ピカート、マーテルリンク、両氏の文章を引用し、沈黙の核心に触れている。
沈黙を時間的位相の差異により、「言葉に先立つ沈黙」と「言葉に続く沈黙」とに大別し、両者を比較対照している。
「言葉は沈黙から、沈黙の充溢から生じた。(中略)言葉に先だつ沈黙は、精神がそこで創造的にはたらいていることの徴証(しるし)だ。…つまり、精神は産出力を孕んだ沈黙から言葉をとり出してくるのである。」(41)
「思索の創造性は、言葉ではなく沈黙にあり、言葉はその沈黙の影の如きもの、『委託』を受けたものにすぎない。『はじめに沈黙ありき…』というわけである。」(42)
「これとは逆の観察がマーテルリンクにある。『もしも私がほんとうにその人を愛しているなら、私が言った言葉の後の沈黙が、私の言葉にどれだけ深い根があるかをその人に解らせるだろう。そしてその人の心に、それもまた無言である確信を生むだろう。』(43) 沈黙が心の真実を映し出す。言葉はだませても、沈黙をだますことはできない。」(44)
「マーテルリンクの例で言えば、沈黙がもたらすのは、パロールの語った愛が真実であるという保証である。この保証は、常に嘘の可能性をはらんでいるパロールには与える力のないものであり、沈黙がそれをなしうるのは、沈黙の表現が言わば自然現象だからである。言葉を発するのは口であるが、沈黙の中で語っているのはその人の全人格である。このようにして、沈黙は言語以上の表現力を獲得する。
マーテルリンクの示した表現の論理は、先聞後見であると言ってよい。」(45)
「言葉に先立つ沈黙は創造する沈黙であり、言葉に続く沈黙は検証する沈黙である。(中略)ここにある対立は、創造の論理と表現の論理との対立である。言い換えれば、何かを創り出すメカニズムと、創り出されてたものが何かを表わし、伝えるメカニズムとの対立である。(中略)創造の論理においては沈黙が主役であり、パロールはその従者である。これに対して表現の論理においては、言葉が主であり、沈黙はこの言葉の補助である。」(46)
「表現の論理が創造の論理から分かれてくる根本は、創造している沈黙それ自体には表現力がない、という事実にある。」(47)
「言われるあらゆる言葉はどれも結局たがいに似たようなものであり、沈黙はそれぞれ皆違う。」(48)
つまり、沈黙は「心の真実を映し出す」ものであり、「全面的に個性的」なものである。沈黙は「無」ではなく「空」であり、「偉大なる暗闇」なのである。
最後に倉本聡の数々の作品の演出を手がけた日本テレビのディレクター石橋冠の「ーー」、「間」についての考え、そして倉本聡自身の思いを掲げておきたいと思う。
「“間”とか『ーー』は、倉本さんの脚本にはじめて出くわした時、ある種のカルチャーショックみたいな、ああこういうのもあったのかという鮮烈な記憶ってありますね。ぼくは最初、これは、俳優や演出者に対する不信感なのかなと思ったりもしたんです。つまり従来の脚本にはない、ひとつの作品である、あの作法というのはあくまで演ずる者、演出する者に対する、作家側の多分におしつけがましい要求に思えて、それは結局不信感なのかなと思っていました。けれども、最近になって、『昨日、悲別で』をやったとき、やっと、『ああ、あれ(「ーー」や「間」)は、ひとつの倉本さんのぬきさしならない文体なのだ』と思った。つまり、パーフェクトを求めているのね。かつて、倉本さん、ニッポン放送にいて、ラジオドラマのディレクターやってましたから音に対してとぎすまされた感性を身につけておられる。。音にたいする感性が、あのような“間”とか「ーー」に現われた。つまり、僕はあの“間”を一種の音ととらえるのだけれど、(後略)」(49)
「山田太一さんは、すてきな散文詩の作家だと思うけれど、その対極に、倉本さんがいる。倉本さんのシナリオは韻文詩の文体で書かれていて、あの“間”は、なにものをもってしても埋めきれない詩集の余白のように思ってしまうことがあります。そう思うと一種納得のいく瞬間がある。」(50)
「さっき、詩の余白の部分が“間”といったけれど、音楽でいうと、ブレイクというか、リズムを整えたり、転調したりする瞬間みたいなところがあり、ふたつ重ねて考えてみると、“間”というのは、ものすごくパワフルなもので、あながち、物理的に“間”と解釈し得ないものがありますね。要するに、詩集をもらったようなもので、(後略)」(51)
「“間”とか『ーー』の中に、いかにイメージとしての力が内包されているか、次に押し出すリズムが要求されているかを考えると、(演出が)とめどなく難しくなってきます。もともとドラマに正解は無いようなものだけれど、気が狂いそうになることがありますね。」(52)
そして、倉本聰は、
「たとえば、ひとつの例というと、ぼく(倉本聰)は非常に間(ま)というものを書きますね。そうすると、間というのは、次のせりふを考えている間(ま)であるわけ。ぼくはわりと、言葉を考える人間を書いちゃうもんだから、次に何といおうか、あるいはその前のせりふを、いまの反応はどうだったかとか、自分の中で思っていることがいっぱいあるわけ。で、次に何といおうか、と。たとえば、おれは愛情を相手に対して持っていてそれを知って欲しいわけだけれども、こういっちゃ露骨すぎる、こういっちゃわかんないだろう、いろんなことを考えているというのが間(ま)になっているわけね。そうすると、ほんとうは、ぼくは演出というのは、その間(ま)のあいだに彼女は何を考えているかということを、役者さんと演出家が話合うのが、演出家の非常に大きなモメントだと思うわけ。」(53)
「ーー」、「間」は「マ」や沈黙の代表例であり、これらによって「マ」、沈黙のすべてが表現されているわけではない。先に例示した「喫茶店」の場面をみただけでも、そこにはいくつもの「マ」や沈黙がみうけられる。
④ 「純も螢もーー。さびしそうだったわ」
⑤ 「かわいそうでーー」
⑩ 「行って、駅から純と螢をーー力づくでも取返したかったわよ」
にみられる「ーー」によって示された「マ」(「劇中人物の間」に属する)。
① 「手にしたストローの袋を見ている。」
⑥ 「令子。
ーーうつむいたままじっと感情にたえている。」
のようにト書に描かれた所作により、表現された登場人物の「所作としての沈黙」(「人の沈黙」に属する)。(佐々木健一のいう「所作」とは、西江雅之が“伝え合い”の七要素の二番目にあげた「身体の動き」に相当するものであり、身体部分のさまざまな動き((顔の表情なども含む))、ジェスチャー、姿勢((静止したポーズ))、視線などをも含めた総称である、と私は考えている)。「所作としての沈黙」とは、「強いパトスが言葉を奪い、おのずと或る種の所作に表現を見出」(54)したものであり、「言葉では表わすことのできない心の真実を伝えるものである」(55)。「所作=沈黙とともに、言語行為の再現は全体的なものとなり、真実なものとなる。その写実性のゆえに、この所作=沈黙はディアローグと等質のものである。しかし、それの写し出す真実はパトスである」(56)。
⑧ 「令子」。
⑨ 「令子」。
これらは「作家の間」であると同時に、それから派生した形での「人間の沈黙」である。他のシナリオライターの作品にはみられない倉本聰に特有のものである。読者の注意を特に人物の表情に喚起するために、「誰々の顔」と表記されることもしばしばある。
⑦ 「子どもたちにどういう罪があるの? それに」
という台詞を口にする俳優が、「子どもたちにどういう罪があるの?」と「それに」との間(あいだ)に、(直接シナリオには書きこまれていないものの)当然とるであろうと考えられる、「俳優の思い入れ」としての「マ」(「俳優の間」に属する)。
そして、他の場面に目を転じたとき、
「一瞬真っ白に変色した画面」(57)
「画面いきなりまっ黒になる」(58)
「スッとぼける」(59)
これらは佐々木健一によって「劇場の間」と名づけられたものである。「劇場の間」とは、作品の展開を追う読者の不安、緊張、期待を高める効果を担ったものである。
さらに、倉本聰は「世界の沈黙」と対峙する。
ワイパー
動く。
五郎の顔
ワイパー
動く。
吹きつけてくる雪の中の、ヘッドライトが照らす白い世界。
音楽ーー遠く去って。中断。(60)
猛吹雪のなか、行方不明になった雪子と純の乗る車を、血眼になって捜す五郎。ヘッドライトの光に浮かびあがった光景は、雪片の舞いしきる、ただ、ただまっ白な音のない世界である。五郎の心中を暗示するかのように、また五郎の不安をかきたてるかのように、「せわしなく動くワイパー」。動揺する五郎。それに対して自然はかたくなに口を閉ざす。沈黙を守る。自然現象を巧みに折りこみ、「世界の沈黙」を描ききる倉本聰の手腕は見事である。
以下は、正月の「華やかな」人の動きとの対照によって、「世界の沈黙」が描かれている場面である。この場面では、純とれいとの沈黙の重さに気圧されたかのように、世界は口をつむぐ。
純とその初恋の相手(ひと)であるれいとは、ほぼ一年ぶりの再会である。
ファミリーレストラン
奥の席の片づけをしているれい。
「いらっしゃいませ!」の声にちょっと一緒に顔あげて、
れい「 いらしゃいませ」
また方ずける。
その手が止まる。
ギクッとふりむく。
入口にれいを見て立っている純。
純の視線のれい。
一切の音がなくなっている。
華やかに動いている店内に、そこだけ凍結した純の場所、れいの場所。(61)
『北の国から』における、倉本聰の描く「沈黙」の例として、最後に、「人の沈黙」を見事に取りこむことによって、巧みに構成された場面を引いておくことにする。五郎が純と螢に令子との離婚を正式に告げる場面である。なお、「洗い物をしている」雪子(叔母)は、五郎と令子との正式な離婚話を前もって知っている。
同〈廃屋〉・居間
すわる二人。
蛍「どうしたの」
洗い物をしている雪子の背中。
五郎。
ーー煙草に火をつける。
五郎「じつは今母さんが富良野に来ている」
純。
螢。
五郎「今夜と明日の晩ホテルに泊まっている」
二人「ーー」
五郎「今度父さんと母さんは、正式に離婚することになった」
二人「ーー」
五郎「父さんも母さんも君たちに対してはーー本当にすまなく思っている」
雪子の背中のインサート。
五郎「許してほしい」
音楽ーー低くつづいている。「愛のテーマ」。(62)
終始雪子は沈黙している。この場面に立ち会う雪子が、その後の展開に影響をおよぼすことはない。雪子がこの場面に居合わせることの必然性はない。が、雪子の背中は、実に多くのことを我々に語る。「ただ居る」雪子の存在は大きい。「ただ居る」雪子の存在によって、この場面は深みをました。
倉本聰は、「ただ居る」存在である第三者を、しばしば重要な場面に立ち合わせている。「ただ居る」第三者の「人の沈黙」を巧みに取り入れた場面構成は、倉本聰のテレビ・シナリオを特徴づけるものである。
倉本聰の作品では、ここかしこに「マ」や沈黙が散見される。そして、それらは我々にことばにならぬことばを発している。
いつもの歩調をすこしゆるめ、静かにそっと耳をすませる時間を心がけたいものである。
そこここに散り敷かれた“感じる喜び”を堪能したいものである。
シナリオは、決して私たちに読むことを急かすものではない。
思いのままに立ち止まればいいのである。
それが特典なのであるから。
「(倉本作品は)情景、人物の会話や仕草の一つ一つに至るまで、みるものに語りかけ、みるもの自身が画面を前にして反芻し、じっくり考えることが出来るような仕組みになっている。だから、どんなにモノトーンで進行していても、否、モノトーンで満ちている場合にはなおのこと、画面と観客の間に対話めいたものが成立するのである。みるものの思い込みが激しくなるような作りをしているのである。」(63)
「マ」や沈黙は、倉本聰の大きな特徴をなすものである。倉本聰の「ぬきさしならない文体」であり、生命線なのである。