『倉本聰私論』_「1. シナリオ一般の特徴」(05b/21)


「倉本聰私論 ー『北の国から』のささやきー」
「第一章 倉本聰のシナリオをさぐる」

「1. シナリオ一般の特徴」(05b/21)
 『北の国から』は、テレビ・シナリオ(テレビドラマのために執筆されたシナリオ)の形式にのっとって書かれた文学であり、それはシナリオ(厳密にいえば、テレビ・シナリオ)としての特徴を備えている。シナリオは言語による映像である。 これはラジオドラマのシナリオについてもいえることである。なぜならば、ラジオドラマは音声を媒体として、聴取者の脳裏に映像を結ばせる、聴衆に観せる芸術だからである。
 そして、その特徴のすべてはここに起因し、ここに収束する、といっても過言ではない。 
 当節ではシナリオと小説(散文)、また戯曲とを対比することによって、その特徴を明らかにしてみたいと思う。
 「小説における作者の主観的な批判や解釈や抽象的な分析とかいったような内的言語を絶対にもたないという一線で、小説とシナリオははっきり区別されます。小説は文字それ自身が目的ですが、シナリオは文字を手段として映像を表現するものです。シナリオというものが、それによって映画をつくる台本である以上、あらゆる場合に視覚的表現ということを度外視しては成り立たないのです。」(6) 
 「(シナリオにおいて)『重要なものは、ライターが書く言葉ではなく、彼が言葉によて描く造形的な形象である』と、いうことである。つまり、文学に於ては言葉が占める場所を、シナリオでは、造形的な形象が占めると、いうことである。」(7) 
 次にシナリオと戯曲との対照である。
 舞台化される戯曲と映像化されるシナリオという目的の相違は、それぞれを特徴づける。それは主に時間、空間的な相違であり、映像の技術面(クローズ・アップ、モンタージュ、カットバック等)からくる相違でもある。
 「戯曲のト書が本来説明的であるのに対して、シナリオのト書はより描写的です。戯曲では、場が安定しているために場そのものの情景や、雰囲気や、人物配置が重要な表現要素になります。劇作家はそこに自分の意図を明示するために、いきおい説明的で詳細なト書を施こします。(中略)戯曲は文学の一形式といわれますが、すくなくともト書それ自体は文学的な性格はうすいといえます。戯曲が文学として成立するのは、台詞の面でしょう。(中略)シナリオのト書が説明を避けることによって、いきおい描写的になり、それによってシナリオに視覚的な構想をゆたかに盛ることに、本来の道を見出すことができたのです。従って、シナリオのト書ーー描写文が、読者のイメージを刺激する重要な足場として、作者の意図を表現するために用いられそこに文学的な性格が約束されるわけです。その点では、シナリオの文章形式は戯曲より小説に近いと考えられます。ところがシナリオが小説とも異るのは、シーン割りの形式を踏み外さないことと同時に、描写によって刺激されるイメージもまた映画的な性格を踏み外さない点です。」(8)
 そして、最後に、小説(散文)また戯曲、シナリオを系統発生的にみたとき、結論として、
 「ガブリロヰチが『シナリオとは、小説と戯曲との独特な統一である』と云っているのは、一寸面白い。
 この意味は、シナリオ・ライターは、戯曲からはドラマテックな構成と、計算されたセリフを学び、小説(散文)からは、時間と空間に於ける自由な行為を学べということだと考えていいであろう。戯曲が舞台という条件のために奪われているものを、散文(小説)は自由に持っているわけである。」(9)
 ようするに、「シナリオというものは、元来、伝統的な文学作品(小説、詩、戯曲など)から、脱出するための、ある形式であった。」(10) のである。
 以下は、『北の国から 前編』の「添え書き」、「読者へ 倉本聰」(10) の全文である。
 「シナリオというものをお読みになったことがありますか?
 この本は、テレビドラマのシナリオです。
 これまでシナリオは俳優や監督やテレビ・映画の関係者だけが読む、出版されない文学でした。だから普通の小説を読むのとはちょっと違って最初とまどうかもしれません。でもそのとまどいは最初のうちだけです。
 シナリオは読みながらその情景や主人公の表情や悲しみや喜びを、みなさんの頭のスクリーンに描きやすいように書かれています。単に「間(ま)」と書かれている時間の中で主人公が何を考えているのか。「誰々の顔」と書かれているところで登場人物がどんな顔をするのか。そういうことを読みながら空想し、頭に映像を創っていくことで、みなさんは自分の創造力の中の監督や俳優になることができるのです。そしてもしかしたらみなさんの創造力は、じっさいにこのシナリオを元にしてできたドラマより、より深いより高い一つのドラマを頭の中に創ってしまうかもしれません。
 シナリオを読むことに馴れてみて下さい。
 そこにみなさんはただ読むだけではない、創るよろこびをも同時に持てるでしょう。」(11)
  倉本聰のこの文章は、言語による映像であるシナリオの特徴をよく表わすものである。
 「シナリオは省略の芸術である」といわれる。省かれたために、ことばは含みをもつようになった。文章に綾ができ、より暗示的となった。シナリオは“読むもの”であると同時に“感じるもの”となった。捨てたがためにかえって多くのものを内包する結果を招じたのである。
 印刷された活字は氷山の一角であり、水面下では広大な広がりが相応の深みをもって、それを支えている。その深みをともなった広がりは、読者に豊かなイメージを喚起する。豊かなイメージは多くの意味を孕(はら)む。シナリオは固定された映像を読者に強いることなく、また一義的な意味づけを強要することもない。省略の芸術の芸術たる由縁がここにある。
 「創るよろこび」とは、「コード」(“伝え合い”の七つの要素)を「メッセージ」にするよろこびであって、シナリオを体験するよろこびである。
 台詞は“ことば”として表情をもち、音は声を発する。音楽はリズムを刻み、映像はことばの世界を広げ、ことばにならないことばを彷彿させる。生き生きとした“伝え合い”の場面が繰り広げられ、新しい可能性が生まれる。シナリオのためのシナリオの意味はここに存し、自立した作品として、また文学として、花開くのである。
 「テレビの場合、具体的な絵にされますでしょう。絵がはっきり見せつけられるわけですね、視聴者に。ところが、本とかラジオなんかの場合には、読んだ人間が絵を勝手に想像しますでしょう。想像力というのは、かなりレベルの高いものだという気がするのです。実際に絵を出しちゃうと、その絵というのは読者の想像をなかなか超えられないという場合があるわけですね。それがときどき、非常に欲求不満を起すもとなのですがね。」(12)
  「映像化のためのシナリオというよりも、シナリオのためのシナリオへと関心が傾斜してしまったんです。映像なんてものは、自分の心象として思い浮かぶものが絶対のもので、それ以上のイメージが再現できるはずはない。それより大切なものは、ストーリーとキャラクターとスピーチ(台詞)の三つだ。その三つで構成されるドラマだ。ドラマがすべてだ。自分の納得のいくドラマが出来上がれば、それが紙上のものでもそれですべての作業は終わり、シナリオは映像にならなくてもいい、シナリオは活字になればそれでよし、と思っていた節があるんです、初めから。つまり、シナリオは読まれればいいんだと。(中略)(シナリオの出版により)やっと自分の思いどおりのものが一つの作品になる。つまり読者に、演出家や役者を通りこしてストレートに問いかけができるし、読者のイマジネーションのほうがはるかに豊かに自分のシナリオを脹らませてくれるかもしれないでしょう。」(13)
 シナリオを読む場合と映像化された作品をを観る場合の相違は、「開かれている」か「閉じられている」かの相違である。「解放されている」か「向けられている」かの差異である。
 「やっぱり、台本というのは、ある意味で寝たものなんだよね。それを立たしてくれるのが、俳優さんであり演出家なんだよね。(中略)ある種の予想はしているけれど、予想が裏切られるということも、またものすごく楽しいことだし、超えてくれることも楽しいし、そこに面白さがあるんだけどね。書いている、ぼくは、『間(ま)』っていう字を書くとき、ほんとうに生甲斐を感じているような気がするね。へんな話だけど。」(14)
 これもまた事実なのである。