「痛痒」
痛し、痒し。神々はなぜ痛みと痒みという二つの異なった感覚を私たちにあたえられたのでしょうか。痛みにつけ、痒みにつけ、身体(からだ)の非常事態宣言であることに間違いはなく、行く先々での治療法を示唆されたのでしょうか。
痛みはつらくじっと耐えるしかなく、痒みはやりきれず七転八倒、転げ回るしかありません。
一週間ほど前に背中にかゆみをおぼえ、季節外れの乾燥肌かと思い、「孫の手」がわりに30cm の竹製の定規でそのつど背中をかいていましたが、それもたびかさなると面倒で、定規を背中に入れたままにして生活していました。それは姿勢矯正ギプスのようでもありました。しかし、いつもと様相が異なり、かゆみは、脇腹へ胸元へ、首回りへ、また肩口から上腕部、そしてあろうことか左右の耳朶へと飛び火し、それにともなって集中力は欠如し、なにも手につかず、三日前に、父の受診している佐井皮ふ科クリニックさんで診ていただきました。乾燥肌が原因とのことでした。三種類の塗布薬と錠剤を処方していただきましたが、効能あらたかとはいかず、相も変わらず、転げ回っています。寝起きにはかゆみから解放されるのですが、いざ起きて動くだんになると、肌着やら衣服やらが患部を擦過し、また動きに追随し皮膚が伸縮、捻転するものですから、とたんにむずがゆくなってきます。すこし熱めのシャワーを患部にあてると、一時しのぎとはいえ快楽、忘我に浸ることができ、唯一の救いとなっています。痛みの場合にはこうはいきません。かゆみに悩まされるようになってから、明らかに睡眠時間が増えました。睡眠中に癒されているのだと思っています。ありがたいことです。
懸念の「倉本聰私論ーー『北の国から』のささやきーー」の活字化が滞ってしまっています。想定外のことに、いろいろな方面にわたって痛痒を感じています。痛し、痒しです。踏んだり、蹴ったりです。