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會津八一「学規」

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昨夜、P教授から、 ◇ 會津八一「学規」 を読んでください、との SMSが届いた。 「Aizu Museum 早稲田大学 會津八一記念博物館蔵」 学規 一ふかくこの生を愛すへし 一かへりみて己を知るへし 一学芸を以て性を養うへし 一日々新面目あるへし 秋艸道人 流麗な筆の運びである。 法隆寺では、 「いかるが の さと の をとめ は よもすがら                      きぬはた おれり あき ちかみ かも」 また、中宮寺では、 「みほとけ の あご と ひぢ とに あまでら の                       あさ の ひかり の ともしきろ かも」 そして、唐招提寺では、 「おほてら の まろき はしら の つきかげ を                       つち に ふみ つつ もの を こそ おもへ」 の歌碑との出会いがあった。       P教授から贈っていただいた、 ◇ 植田重雄『秋艸道人 會津八一の生涯』恒文社 が、読みかけになっている。そろそろ通読する時期か、と思っている。

白川静「また、明日。 また、あした」

2021/02/11、P教授から、 ◇『別冊太陽 白川静の世界 漢字のものがたり』平凡社 の画像が添付されたメールが届いた。 表紙には、 「文字があった。 文字は 神とともにあり、 文字は 神であった」 と書かれている。 見栄えのする表紙だった。 早速、Amazon に注文した。 そして、昨日(2021/02/15)、到着した。 また、裏表紙には、 「白川静の日常。 時間は静かに流れ、 淡々と一日を終える。ただそれだけ。ただそれだけ。 それだけを繰り返し、生み出される仕事の確かさ。 また、明日。 また、あした」 と書かれている。 息の長い仕事を成し遂げる秘訣がここにある。

「早坂暁,杉本苑子,栗田勇,村上三島『わがこころの良寛』春秋社」

昨夜(2022/02/25)深更に目を覚まし、未明には、 ◆ 早坂暁,杉本苑子,栗田勇,村上三島『わがこころの良寛』春秋社 を読み終えた。 「本書は、NHKテレビ人間大学特別シリーズ「わたしの良寛」として放映された番組を基に」「何の打合せもなく」、執筆されたものであり、重複した内容も各所にみられる。 学生時代、「シナリオ文学」ばかり読んでいた時期がある。 早坂暁については、 ◆ 早坂暁『山頭火 ― 何でこんなに淋しい風ふく』日本放送出版協会 ◆ 早坂暁『円空への旅』日本放送出版協会 ◆ 早坂暁『乳の虎・良寛ひとり遊び』 の三冊を読んだ記憶があるが、『乳の虎・良寛ひとり遊び』に関しては、シナリオが見つからず、1993年放送の「 NHKテレビドラマ」を視聴したにすぎなかったのだろうか。  その検索中に本書と出会った。古書である。 『倉本聰コレクション』はいうにおよばず、 ◆ 山田太一『早春スケッチブック』新潮文庫 が、強く印象に残っている。倉本聰と山田太一は当代の双璧だった。 「文学は『言語』作品、落語は『ことば』作品」(西江雅之『「ことば」の課外授業 ― “ハダシの学者”の言語学1週間』洋泉社)「言語」では「ありがとう」と一通りにしか表記することはできないが、「ありがとう」の「ことば」は無数にある。  当時もいまも、「言語」と「ことば」の関係には興味がある。  井筒俊彦は、「存在はコトバである」と措定した。近年では「コトバ」への関心が加わった。  言葉づくしである。 栗田勇「騰々、天真に任す」 早坂暁,杉本苑子,栗田勇,村上三島『わがこころの良寛』春秋社 ◆ 荒井魏『良寛の四季』岩波現代文庫 「本書には、仏道修行に励む良寛の姿がみられないが」と書いたが、その間隙を栗田勇が埋めてくれた。秀作である。  栗田は若き日の良寛を、「非常に繊細な、感受性の強い青年」(70頁)だった、「良寛の孤独感と苦悩はただごとではな」(69頁)かったといい、良寛を「ひとりの鋭い精神的な思想家」(69頁)だった、と総評している。  栗田は、「大愚(たいぐ)」,「天真(てんしん)」,「任運(にんうん)」の三語の「良寛さんの言葉を手がかりに」して、良寛の境地の深まりを論述している。(69頁) 「任運」とは「任運自在」のことで、「天真」とは、「天真にして妙なり、迷悟に属さず」の意である。「思慮分別を

「『空こそ色なれ』,そして『空外』」

 龍飛水編『いのちの讃歌 山本空外講義録』無二会(150-152頁)には、『空外漢訳心経』と『空外梵本心経和訳』が載っている。いずれも、山本空外による、サンスクリット原典からの漢訳であり、邦訳である。  日本では、玄奘三蔵漢訳の『般若波羅蜜多心経』が、「古来最もよく知られ、読まれている」が、訳本に異同が認められるのは、いわずもがなのことである。なお、 「八世紀後半」に 「法隆寺に伝わった『般若心経』サンスクリット写本」が、現存する世界最古のものである。 「あの小さい ( 玄奘三蔵漢訳 )の お経に「無」が二十一遍も出ている。サンスクリット原典の『般若心経』にあって 漢訳本で略している「無」が、もう七つある。また「空」は、漢訳本に七通りありますけど、さらにサンスクリット原本では五遍たさないといけない。」(587頁) 玄奘三蔵の漢訳は読誦することを目的としていて、声調を念頭においたものに違いないが、それにしても意外だった。  玄奘訳の「舎利子。色不異空。空不異色。色即是空。空即是色。 受想行識亦復如是。」の、「 舎利子」の後に、空外訳には、「於此世界 色空空色」の文句がある。そしてそれは、「この世界においては 色は空にして 空こそ色なれ」と邦訳さ れている。 「漢文では「空こそ」の「こそ」が表わせない。それで「空色」と書いてある。漢文では無理ですけれども、日本語なら「空こそ色」と訳せるでしょう。それでわたくしが『般若心経』を訳しかえた。」(578-579頁) 「『空・おかげでないと、色ではない』というのが『般若心経』の考え方です。」(305頁) 「おかげでないものはひとつもない。それを『空こそ色なれ』というのです。 だから、『 空こそ色なれ』という『般若心経』の一句は、世界を照らすような光です。」(342頁)  また、空外訳ではその後、「空不異色色不異空」と続くが、玄奘訳の「色不異空。空不異色。」とは、順序が逆になっている。そして空外先生は、「空は色に異らず 色は空に異らず」と邦訳している。原典では、いずれの場合も、「空」が重視され、強調されている。 「空外とは、『般若心経』にいう「空(くう)こそ色(しき)」という意味」(578頁)であることをはじめて知った。「空こそ色なれ」とは、空外先生の思いの丈の表れである。 「空」とは、「 簡要にいえば、生きられていることへのおか

「玄侑宗久『現代語訳 般若心経』ちくま新書_新春に『四国遍路』を渉猟する_2/2」

今日(2022/01/14) の午前中、 ◆ 玄侑宗久『現代語訳 般若心経』ちくま新書 を読み終えた。三度(みたび)目の読書だった。 「本書はあくまでも解説ではなく、『般若心経』の訳のつもりである」(214頁) 「今回も原稿段階で臨済宗妙心寺派教学研究委員の皆さんに厳正な校閲を頂戴した」(219頁)そして、その後には八名の方の芳名が連なっている。  宗久さんの真摯な執筆態度は、明らかに自覚されるが、雲、「空(くう)」をつかむような話が散見され、行きつ戻りつしたものの、ついには覚束ないままに通読した。 「わからなくていいんです。意味は気にしないよう、何度も申し上げたでしょう」(174頁) 「それでは最後に、以上の意味を忘れて『般若心経』を音読してください」(194頁) 「自分の声の響きになりきれば、自然に『私』は消えてくれるはずです」(198頁) 「声の響きと一体になっているのは、『私』というより『からだ』、いや、『いのち』、と云ってもいいでしょう。むろんそれは宇宙という全体と繋がっています」(199頁)  後になり、先になり、意味が執拗に追いかけてくる。いまそれを云々しようとは思わない。よく「持(たも)」つことだけを心がけている。 追伸:今日の夕方、山本空外先生関連の図書、 ◆ 山本空外著,龍飛水編集『いのちの讃歌』無二会 ◆ 龍飛水『二十世紀の法然房源空 山本空外上人聖跡素描』無二会 ◆『墨美 山本空外 ー 書と書道観 1971年9月号 No.214』墨美社 ◆『墨美 山本空外 ー 書と書道観(二)1973年6月号 No.231』墨美社 ◆『墨美 山本空外 ー 書論・各観 1979年7月号 No.292』墨美社 ◆ 森田子竜『書:生き方の形』日本放送出版協会 全6冊がそろいました。 ◆ 森田子竜『書:生き方の形』日本放送出版協会 は、はじめて 「日本の古本屋」 で購入しました。またはじめて、ハードカバーの「日本放送出版協会」の書籍を手にしました。初めてづくしの「本書」から読むことにします。勝手知ったる「浮気」しながらの読書です。

「玄侑宗久『現代語訳 般若心経』ちくま新書_師走に『四国遍路』を渉猟する_1/2」

昨夜(2021/12/19)、 ◆ 玄侑宗久『現代語訳 般若心経』ちくま新書 を再読し終えた。  本書は「般若心経のすゝめ」であり、またその実践法である。  一切が無化されていくなかで、ひとり「私」が、とり残された格好である。依然障りある身の「私」が、いつまでも残る。「仕立て上げた『私』」は、執拗でありその根は深い。  意味を問うことなく、誦んじて読む「般若波羅蜜多(心経)」は、「呪文」であり「真言」であり、その声の響きは、「からだ」や「いのち」、はては「宇宙という全体」と直接つながっていると、玄侑宗久さんは説く。そしてまた、「呪文」を「実践」し、よく「持(たも)」つことによって、「仕立て上げた『私』」という殻は「溶融」し、次第に薄くなる、「その薄くなった殻を透かして、私たちは『空』という」「実在」「に気づいてゆく」、という。  師走も半ばを過ぎ、一条の光明が射した。「命なりけり」である。ひと続きの命の不思議さを思う。  座右の書となった。座右の書ばかりが増え、身辺が雑然としてきた。うれしい悲鳴である。 ◇ 中村元,紀野一義『般若心経・金剛般若経』岩波文庫 ◇ 柳澤桂子(著)堀文子(イラスト)『生きて死ぬ智慧』小学館 を味読し、次に進みます。 2022/02/03 追伸: 山本空外先生は、  「空」とは難かしくいえば「縁起」のことで(竜樹『中論』四)、これを説明して、「無自性の故に空なり、空亦復(またまた)空なり」といわれる(青目、長行釈)。自性がないということを詳論すれば際限もないほどになるが、簡要にいえば、生きられていることへのおかげのことで、何一つ自分のてがらといえるものがないという意味になる。そのことを心に決めて、その覚悟で(書を)書けば「空」を書くことになろう。それでわたくしも南無阿弥陀仏と称名中に揮毫している。(『墨美 山本空外 ー 書論・各観 1979年7月号 No.292』墨美社 49頁) と書かれている。 『空』とは、「簡要にいえば、生きられていることへのおかげのことで、何一つ自分のてがらといえるものがないという意味になる」と、空外先生は書かれているが、格の違いを感じている。

永井荷風「日記作法」

永井永光,水野恵美子,坂本真典『永井荷風 ひとり暮らしの贅沢』(とんぼの本)新潮社 「日記というものはつまらない記事のあいだにときどき面白い箇所がある。そういう風にしなくては味がありません」と荷風は語る(中村光夫『《評論》永井荷風』)。」  四十二年の長きにわたって書き続けられた『断腸亭日乗』。「日乗」は「日記」のことだ。連綿とした日々の記録でありながら、読む者を決して飽きさせない。本人が言うところの「面白い箇所」を巧妙に仕立てながら、さらりと書いてのけた荷風一流の「味」が魅力なのだ。(97頁)  詩人の田村隆一は、日記を長く続けるコツは感想を書かないことだと言っている。後で読み返すと自己嫌悪に駆られることが多い。だから日記というものは大抵あとで焼却されたり、どこかに放り込まれて行方不明になってしまうのだ。そうならないためには、その日の天気や、会った人、読んだ本など、事実だけを淡々と書くべきだ、という。なるほど荷風が『断腸亭日乗』を書き出したのは、満三十八歳。以来七十九歳の生涯を閉じるまで、延々と書き続けられたのは、素っ気ないほどの記述の仕方にあったのかもしれない。(88-89頁)  荷風が目指したのは、成島柳北の日記。荷風によれば、「学者でもあり、政治家でもあり、それに粋人ですから着物のことでも、食べ物のことでも実にくわしく書いてあります。柳営の虫干しのことや、そのあとで食事をいただく献立までくわしく書きとめてある。明治になつてから向島へ家を建てる普請の入費、大工の手間から材木の値段まで明細につけてありますよ」(『荷風思出草』)(97頁)  柳北同様、荷風も日々の大事から雑事までのあれこれを、執拗に書き記した。読者は私生活をのぞき見るように荷風の行動を追い、暮らしぶりに思いを馳せることができる。(97頁) 「荷風」とは、「蓮池を吹く風」であることを知った。

「幸田露伴『断腸亭日乗』を称する」

永井永光,水野恵美子,坂本真典『永井荷風 ひとり暮らしの贅沢』(とんぼの本)新潮社  荷風の転居と前後して、幸田露伴も病身ながら、伊東から市川の菅野に移り住んでいた。露伴は荷風の『濹東綺譚』を読み、「涼しい文章だよ」とある編集者相手に褒めたという。そして娘の幸田文に、これは読むようにとすすめた唯一の小説だった。(72頁)

「永井荷風_破蓮」

永井永光,水野恵美子,坂本真典『永井荷風 ひとり暮らしの贅沢』新潮社 「破れた蓮の葉はひからびた茎の上にゆらゆらと動く。長い茎は動く葉の重さに堪へず已に真中から折れてしまつたのも沢山ある。揺れては触合ふ破蓮(やれはす)の間からは、殆んど聞き取れぬ程低く弱い、然し云はれぬ情趣を含んだ響が伝へられる。」 (92頁) 荷風が見て取った、蕭条たる景色の美である。 以下、孫引きです。 「余韻が縹渺と存するから含蓄の趣を百世の後に伝ふるのであらう」(漱石『草枕』)

「荷風散人」

   『濹東綺譚』が手元にある。あるというのは、あたためてきたということであり、読んだということではない。荷風との交友はいまだ緒に就いたばかりである。  荷風は、江戸の情緒を求め、下町を歩いた散人であり、けっして高踏的ではない。 ◇  永井永光 , 水野恵美子 , 坂本真典『永井荷風   ひとり暮らしの贅沢』 (とんぼの本) 新潮社  のとびらには、浅草ロック座の楽屋でのことであろうか、四人の裸体の踊り子に取り巻かれ、ご満悦な荷風の写真が載っている。彼女たちは皆若くもなく、美しい姿態の持ち主たちでもない。  「三島由紀夫は『一番下品なことを、一番優雅な文章、一番野蛮なことを一番都会的な文章で書く』と『永井荷風[文芸読本]』の座談会で語っている」(31頁) (昭和二十年八月六日 広島市へ原子爆弾投下) 「昭和二十年八月初六、陰、S氏広嶋より帰り其地の古本屋にて購ひたる仏蘭西本を示す、その中にゾラのベートイユメーン、ユイスマンの著寺院などあり、借りて読む、」(36頁) (昭和二十年八月十五日 終戦) 「出発の際谷崎(潤一郎)君夫人の贈られし弁当を食す、白米のむすびに昆布佃煮及牛肉を添へたり、欣喜措く能はず、食後うとうとと居眠する中山間の小駅幾箇所を過ぎ、早くも西総社また倉敷の停車場をも後にしたり、農家の庭に夾竹桃の花さき稲田の間に蓮花の開くを見る、〈以下略〉」(47頁) 「昭和二十二年 一月初八。雪もよひの空くもりて寒し。小西氏の家水道なく炊爨盥漱(すいさんかんそう)共に吹きさらしの井戸端にて之をなす困苦いふべからず。〈以下略〉」 「一月廿一日。晴。北風寒し。井戸端の炊事困苦甚し。」 「二月廿五日。晴れ。今日も暖なり。井戸端の炊事も樹下の食事も楽しくなれり。〈以下略〉」(49頁) 「昭和二十四年六月十五日。晴。〈中略〉帰途地下鉄入口にて柳島行電車を待つ。マツチにて煙草に火をつけむとすれども川風吹き来りて容易につかず。傍に佇立みゐたる街娼の一人わたしがつけて上げませう。あなた。永井先生でせうといふ。どうして知ってゐるのだと問返すに新聞や何かに写真が出てゐるぢやないの。鳩の町も昨夜よんだわ。〈以下略〉」(61頁) 「年は廿一二なるべし。その悪ずれせざる様子の可憐なることそゞろに惻隠の情を催さしむ。」(62頁)  『断腸亭日乗』は「死の前日まで、四十二年間に亘って綴られた」(

永井荷風「余も其時始て真の文豪たるべし」

永井永光,水野恵美子,坂本真典『永井荷風 ひとり暮らしの贅沢』(とんぼの本)新潮社(35-36頁)  司会者から「この頃露伴全集を読んでいるようですね」と話を向けられると荷風は「文章がうまいですね。とてもわれわれじやあれだけ書けませんよ」と答え、谷崎も「どこを開けてみても、たいがい退屈しないな、『露伴全集』だったら。鷗外さんもだけれども、露伴、鷗外だね、退屈しないのは。どいうわけかな」と続ける。特に、荷風は鷗外の熱心な読者というだけに留まらなかった。信奉者ともいえるほど心酔し、鷗外の居住まいや精神、すべてにおいて崇拝していた。自分の一生を終えるなら鷗外の命日、七月九日に死にたいとまで口にした。 大正十一年七月十九日。 帝国劇場にて偶然上田敏先生未亡人令嬢に逢ふ。上田先生の急病にて世を去られしは七月九日の暁にて、森先生の逝去と其日を同じくする由。〈中略〉余両先生の恩顧を受くること一方ならず、今より七年の後七月の初にこの世を去ることを得んか、余も其時始て真の文豪たるべしとて笑ひ興じたり。  荷風の亡骸の傍らには、鷗外作品の中でも最も熟読した『澀江抽斎』のページが開かれたままになっていたという。 文学者にならうと思つたら 大学などに入る必要はない。 鷗外全集と辞書の言海とを毎 日時間をきめて三四年繰返し て読めばいゝと思つて居ります。    『鷗外全集を読む』より

「山本空外『書と生命 一如の世界(対談)』_2/2」

  今日(2022/02/07)昼すこし過ぎたころ、 ◆『墨美「書と生命 一如の世界」<対談> 山本空外 / 森田子龍 1976年12月号 No.266』墨美社 の再読を終えた。 本誌は、 「昭和五一年九月一二日放映 NHK教育テレビ ー 宗教の時間」 の筆記録である。時間的制約のなかでは、意をつくせず、時間的枠内のなかでこそ、最優先に伝えたい内容があり、私たち読者にとっても悲喜こもごもの対談となっている。  なお、森田子龍氏は 墨美社長である。 「そのまま          ー 煩悩即菩提 ー」 山 本  ここまで来て、人間というものについて考えをまとめてみたいのですが、先ず聖徳太子の   世間虚仮、唯仏是真 ということばが思い浮かんでまいります。  相対的・日常的な世界「世間」は、すべて虚仮であり迷妄である、とされ、そこを超えた一如の世界を「仏」としてとらえ、そこだけが真実だとされています。  相対次元と一如の世界とを明確に位置づけ、断固たる自信をもって評価を下されているわけです。(12頁) 「僧侶がいい書を残した」 山 本  でも空海にしても慈雲にしても良寛にしても日本の書道史では僧侶が手 本を示しておられるということはありがたいことだと思いますね。 森 田  書がいいということは、一如の人間に、先生のお言葉でいえば、主客を離れた無二的人間になっているから、つまり無礙自在に自分まるまるを生きているから、その人の書がいいということでしょう。それ以外に書がいいといえる理由はありえないと思うんです。 山 本  そうですね。(34頁) 「形を通し形を超えてその奥で          光るもの ー いのちの根源」 山 本  そうですよ。だから形式も大事だけれども、形式にとどまらずにもう一つ奥で光るというか動くというか、いのちの根源に取り組んで自分でなければ実らせないような人生を、書なら書のなかで、茶道なら茶道として、生かしてゆくことが本当の芸術とか文化といえるのではないでしょうかね。 森 田  そうだと思います。もう一歩を進めて今の形式的な問題、外側の問題をただ無視するのではなくて本当に外にとらわれない一如の自分が、そういう形式の意味を内から生かして出てゆく、それがないといかんわけですね。 山 本  そうですよ。わが国の書論の本に『鳳朗集』というのがありまして、「筆法は

「山本空外『書と生命 一如の世界(対談)』_1/2」

  今朝(2022/02/06)明けやらぬころ、 ◆『墨美「書と生命 一如の世界」<対談> 山本空外 / 森田子龍 1976年12月号 No.266』墨美社 を読み終えた。  以下、2018/11/06 のブログに引用した文章である。以来、「道具茶」について不審を抱いていた。 白洲正子『いまなぜ青山二郎なのか』新潮文庫 「『道具茶』といふ言葉は偶像崇拝の意味だらうが、茶の根源的な観点は空虚にある様に思はれる。真の意味で、道具の無い所に茶はあり得ないのである。一個の道具はその道具の表現する茶を語つてゐる。数個の道具が寄つて、それらの語る茶が連歌の様に響き合つて、我々の眼に茶道が見えるのである。何一つ教はらないのに、陶器に依(よ)つて自得するのが茶道である。」(青山二郎『日本の陶器』) 「何一つ教はらないのに」といっているように、青山さんは茶道のことなんか、何一つ知らなかった。ひたすら陶器に集中することによって、お茶の宗匠の及びもつかぬ茶道の奥儀を極めたのだ」(83頁) 「書 論(書道哲学)」 『墨美「書と生命 一如の世界」<対談> 山本空外 / 森田子龍 1976年12月号 No.266』墨美社 山 本 (前略)書道哲学のことを書論といいます。厳密には論書といいますが、中国のも日本のもあらまし取り組みまして、そうすると本当に、書をかくなかに自己を見出すといいますか、自己が自己になっていくといいますか、自己が自然の大きないのちのなかに接する、そういう重点に気がつき出して、そうしてまた茶道といっても、茶席に入って一番に床にかけられた、大体は書です。絵というのは例外みたいなもので、書に頭を下げる。形式的に下げて結構ですといったらそれですむかもわからんけれども、それでは茶道でもなんでもないですね。取り組むからには結構ですといえる自分にはっきりしていなければならん。書道と茶道というものはそこで離すことのできないものです。そのほかにも、あるいは釜、あるいは水差、茶盌、棗(なつめ)、茶杓など、複合的な取り合わせの美ですね。ちょうど書道もそうです。書をかくのには筆、また硯、墨ですね、紙などに書くのですが、それぞれ何十通り、何百通り、何千通りとあるんです。その取り合わせでございまして、茶道でも掛けものと花生とが取り合わないと自然ではない、不自然になる。またそれらと釜も水差も茶盌も棗も茶

「山本空外『書論・各観_2/2」

一昨夜(2022/02/12)、 ◆『墨美 山本空外 ー 書論・各観 1979年7月号 No.292』墨美社  ◇ 山本空外「書論・各観」(28〜39節) の再読を終えた。「書論序観」,「書道通観」,「書論・各観 」、「三観」の最後をなすものである。 「屋漏痕の如し」(董内直「書訣」、『漢渓書法通解』巻第六、十三丁)。「屋根から雨が漏った「水滴の一点」を書いてこそ「点」にもなる書道」(42頁)とは、いかにも他意なく無作為である。 「点のことを「側」と」いうが、 30,31 節では、 「いわゆる『永字八法』」の「はじめの「側」点について」、「点之祖」(『書法正伝』巻二、五丁)」から「二十三に限定」し、「側法異勢」( 『漢渓書法通解』巻四 )「と比較補足し」つつ解説している。が、もとより「細説していけば際限」のないものであり、私の手には負えず走り読みした。  32 節以降では、「書法」がとり あげられているが、これとて際限のないものであり、山本空外は、もっぱら  六朝(梁)の蕭子雲(486-548)書の「十二法」 について述べている。 「点之祖」と同様に「十二法」も走り読みか、と危惧していたが、それは「人間形成に対する十二法」といった内容のもので、興味深く、今回は、立ち止まりつつ、あるいは行きつもどりつしながら、味読した。巷間にあふれている「人生論」とは、品・格、広・深ともに比較の対象にならないものである。 「十二法」とは、「潔・空」,「整・放」,「因・改」,「省・補」,「縦・収」,「平・側」である。かぎ括弧で括った二法は、それぞれ相対・相補の関係を成し、アウフヘーベン(止揚)し、相照らし合って優位にたつものである。  一例をあげれば、 「『潔・空』二法のうえにはじめて「整・放」の弁証法が生きてくる。「整」と「放」とは対概念ともいえる。また相関概念とまで解してよいであろうか。両者相まって書の生命も躍如たるものがあるようであり、書にかぎらず、われわれの生活一般にしても同様であろう。「放」なき「整」も、「整」なき「放」も生命に乏しく、屍に類する。 (中略) こうした書体の各画にいたるまでの整合の書風に偏するのを他方に不可として、その解放を説くのが「放」の本意なのである。どこまでも正常に書かんとする「整」の書法ももとより当然ではあるが、といってその形式にとらわれたのでは書の生

「山本空外『書論・各観_1/2」

昨夜 (2022/02/09) 、 ◆『墨美 山本空外 ー 書論・各観 1979年7月号 No.292』墨美社 ◇ 山本空外「書論・各観」(28〜39節) の、「28,29 節」の再読を終えた。手間どった。「書論序観」,「書道通観」,「書論・各観 」、「三観」の最後をなすものである。 「各観こそは各各性の行(ぎょう)観ともいうべきもので、まったく際限もないほど、書道を行ずるところにいかようにも取りくまれるし、掘りおこされもする。」「序・通二観を教門とすれば、各観は行門といえる。」(39 頁) 「色紙」や「桐箱」,「 肥松の盆」, 「つまり何に書くかによっても、その書の雅致を異にしてくるが、いかなる筆で書くかによっても、また古墨か新墨か、その新・古の各各のよさ、さらに濃・淡のすり方、したがって硯をも吟味せざるをえなくなる等々、それでわたくしはその各各の取りあわせを生かしきっていくところを重層立体的各各円成とも称して学術用語にもしている。」(39頁) 「中国・日本の仏教を通じて、八宗の祖と仰がれもするほどの印度仏教の代表的思想家、竜樹(150-250)が、仏教の根幹といえる『大品般若』を釈した『大智度論』の巻第四十三の一文を左に挙げて、そこにいわゆる「中道を行ずる」ことをくりかえし力説するのが、まさに筆跡に行ずる各観にあたるわけなのである。後述するが、その「中」とは価値のうえでは「極」、すなわち最高という意味になり、したがってこれ以上のないところを各人なりに生きる心証が筆致に生動する。各観に相応する人生をいかに論じてみたところで、けっきょく「般若波羅蜜」(「多」を付しても原語は同じで、この梵語は、「悟りの智慧で彼岸に到った」という意 )に帰するのほかない」 「40-41項)  竜樹の解釈 する「般若波羅蜜」の意味が理解できずに、繰り返し読んだ。私が読んだ「般若心経」の解釈とは、意を異にするものだった。ないがしろにするわけにはいかなかった。  たとえば、 「今は般若波羅蜜の体を明かす。何等かこれ般若波羅蜜なる。般若波羅蜜とは、これ一切諸法の実相にして、破すべからず、壊すべからず。(中略)  またつぎに常もこれ一辺、断滅もこれ一辺なり。この二辺を離れて、中道( 「極」,最高の意) を行ずる、これを般若波羅蜜となす。  またまた常と無常、苦と楽、空と実、我と無我等も、またかく

「山本空外『書道通観』_2/2」

昨日(2022/01/31)、 ◆『墨美 山本空外 ー 書と書道観(二)1973年6月号 No.231』墨美社 ◇ 山本空外「書道通観」(17〜27節) を再読した。  初読に比すれば、ずいぶん明らかになったとはいえ、いまだに保留にしたままの箇所がある。  なお、「23〜26節」の「筆法・各論」では、「執・使・転・用・結」について論じられているが、 書道と無縁な私にとっては、とりわけ不分明な内容となっている。が、 「しかし書道は思想というよりも、行(ギョウ)じていくうちにかかる書のかける人間になるところに重点があり、したがっていかに分けて述べていても、畢竟するに筆端に帰一せしめられて、その筆者の心の深さに支えられなければならない。(14頁) 「自然の妙有に同じ、力運の能く成すところに非ず」(15頁) 「意前筆後」(「意は筆前に在り、字は心後に居る」(李華))」 (15頁) と、空外は結論づけている。 「こうした書論ないし書道史をいくら詳述したところで、それだけでは噂のくり返しに終るまでである。ここでの重点はかかる形式論でなく、 鍾繇(しょうよう)『宣示表』などの古 榻(星鳳楼帖)や王羲之『天朗 帖』 の初拓 ( 『群玉堂』中零本、祝枝山旧蔵)などのごときを親しく前にしてはじめて、前掲書論の生動するところに感応する深まりにほかならない。いずれもわたくしの秘蔵で、こうした類の古拓に親しむだけで、臨書はしないのである」(20節 6-7頁) 本誌には、「鍾繇書」,「王羲之書」の古拓の図版が掲載されている。楷書で書かれた「 鍾繇」 の、整然と文字が並んだ書は気高く優美であるが、「 王羲之 」の、書体は不明であるが、書は殺気立ち真剣勝負になり、長時間の鑑賞には耐えられないものとなっている。 「血法」, 「いわば書から血の出るような生きた筆致」とは反対に、殺伐の気を感じる。 「わたくしが臨書をしないのは、「形似」の弊を思うからでもある。唐宋八家の一にえられる蘇軾(そしょく)(1036-1103)も、「画を論ずるに形の似るを以てするは、見、児童と隣りす。詩を賦するに此の詩を必ずとするは、定めて詩を知る人に非ず」と論じて、「詩・画本一律」の観点のもとに、「形の似るを以てする」のを童見に準ぜしめながら、「形似」を越えた心境を重視しており、これはもとより書論にも相通ずるが、その根ざすとこ

「山本空外『書道通観』_1/2」

今日(2022/01/30)の午後、 ◆『墨美 山本空外 ー 書と書道観(二)1973年6月号 No.231』墨美社 ◇ 山本空外「書道通観」(17〜27節) を読み終えた。 ◆『墨美 山本空外 ー 書と書道観 1971年9月号 No.214』墨美社 ◇ 山本空外「書論序観」 (1〜16節) に続く論考であり、 「23〜26節」の「筆法・各論」、「執・使・転・用・結」について論じられているが、 書道と無縁な私にとっては、とりわけ不分明な内容となっている。 「 書論序観( 『墨美  』第214号 )に続いて書論通観の一角を論じていくうえに、古来東洋の書画の手本に、自然に乾いたあら壁の割れ目が力説されるゆえんが想起される。これ西洋文化には類を見ないところである。また古拓の絶品を目前にすると、そうしたあら壁の割れ目に窺える自然のいのちに通う心の開けるのを覚える。おそらくこれ以上の手本もなかろうから、中国書道でも「折(タク)壁の如し」と論断し、(董内直、書訣、『漢渓書法通解』巻第六、十三丁)、わが『本阿弥行上記』にも、「あら壁に山水鳥獣あらゆる物あり(中略)。 あら壁の模様をよき手本」云々と強調するのであろうか。簡言すれば自然のいのちともいえるものが筆端に動かなければ、東洋の芸術とはいい難いので、西洋美学に見るような概念化の、その奥に生動するいのちに迫るのが、東洋芸術のいわゆる「自然」なのである。それで全画面を塗りつぶす西洋画と相違して、空白が重視され、いな、時にはそれが画面以上にものをいう東洋画の面目もあるのであろう。書道文化にいたっては西洋芸術史上皆無のゆえんでもある」(2頁) 「空即是色」を思えば、「 あら壁の割れ目」は、自然のいのちの発現であり、これに伍することはあり得ても、これに優ることはないだろう。「 折(タク)壁の如し」。 このような文章に出会うとうれしくなる。 「すでに書祖、後漢の蔡邕が、「書は自然に肇(ハジ)まる」というのにも( 蔡邕石室神授筆勢、『書法正伝』巻五、二丁 )、そうした裏づけが予想されないであろうか。その肇筆を生かすゆえんの「自然」とは、われわれ一人ひとりが生きられるそのいのちの根源につながるもので、これが筆勢に生動して、はじめて書道が成立することになる。一筆ごとにそのいのちの根源に直通するのでなければならない。また手の動くのも全生命にもとづ

「山本空外『書論序観』_2/2」

山本空外「書論序観」 『墨美 山本空外 ー 書と書道観 1971年9月号 No.214』墨美社 「 僅か竹の一片ではあっても、その一本一本の竹質のさくさ、ねばさ、その他の加減等々を、そう削らなければ削りようもないほど、千変万化する竹質のそれぞれなりに生かしきっていく刀の冴えを拝見するわけである。それも名作は一応光ってはいるものの、その光に照らされるだけでなしに、自ら茶杓を削るなかに体験する悟入にもとづくのが本当のようである。また自ら行じなければ、何事でも半解に終るのではなかろうか。東洋の精神文化が行の文化として深まるゆえんを沈思しなければならない。  小刀と竹一本あっても茶杓は自ら作れるが、そのときただ自分勝手に削ったのでは、どうにもならないので、竹一本一本のもつ各各の性質を生かしきっていけるような刀の冴えかたのできるところに快心の作といえる。刀と竹の自他一如がそうした悟入の心の深さで支えられるわけで、前述の「無二性」にほかならない。あたかも筆と紙があれば書道は行ぜられるが、紙一枚一枚の新古各各の漉きかたにいたるまで生かしきっていく使筆でこそ無二的書道につながるので、その一点一畫の運筆のなかに無二的人間の形成が行ぜられること、茶杓を作る刀ごとにやはり無二的人間の形成が行ぜられるのと同様である。そこを拝見するわけで、席に入って始めに書幅を拝見しても、終りに茶杓の拝見しても、一貫してその作者の無二的人間の形成行に直参するところに本義があるとすれば、拝見する客自身もその拝見を通して無二的人間の形成を行ずるのでなければならない。そこに人生にも取りくめる本義が通ずるので、この本義から外れたのでは「道」でもなく、精神文化でもない。念仏にしても、木魚一つでもあれば、称名の声と木魚を撃つ音と主客一如になるところ、大自然のいのちを呼吸する心境は深まりうるわけで、いわばそうした心境において揮毫する場合にはこの筆、この紙の各各のいのちを生かすことになり、茶杓を作るときには、その竹のいのちを生かす刀の冴えかたが深まるわけである。ところが西洋人には竹の理解乏しく、古来筆紙も南無阿弥陀仏も木魚も考え出せなかった。  一人ひとりが一人ひとりなりに行じて、大自然を一人ひとりなりに生ていく文化、こうした精神文化の粋が書道なので、そこを白紙の上に墨一点にでも決めていくような精神文化は他に類がなかろう。

「山本空外『書論序観』_1/2」

昨夜( 2022/01/26) 日付が変わるころ、 ◆『墨美 山本空外 ー 書と書道観 1971年9月号 No.214』墨美社 ◇ 山本空外「書論序観」 の初読・再読を終えた。  書 道とは、「『自然の妙有に同じ』ところに直参しようとする心がけ」であり、「力運の能く成すところに非ず」。「『自然』との主体的一如(不二)の心境」は、「永遠の今ともいえる『現実』」を「照ら」す、ここに「直入」することが書道といえるが、書論は書道哲学に終わるものではなく、各々が行ずるところに「書論の面目がある」、と空外は注意を換気している。  空外は書道を語りつつ仏教(主に「念仏」「禅」「般若心経」)におよび、仏教にふれつつ書道を語っている。書道と仏教とが渾然一体となっている。私の空外への関心は、空外の境地が書に表れているという証にある。それは西行の心中と歌との相関と同質のものである。とはいえ、私にそれらが判るはずもないが…。 「書論序観」は、紙数にしてわずか十五頁の作品であり、難解であるが、かといって手放すわけにはいかない。いまだに理解が浅く、概論風な作文も書けずに時を過ごしている。 「書道に達するには、自然のいのちが毫端に脈打つのほかになかろう」(8頁) 「無二的人間の形成が一点一畫に生動していかなければ、書道でもなく、書論も成立するわけがなかろう」(9頁) 「わたくしはこの無二的人間の形成を書論の根底に予想するものの、じつは東洋文化の基本とも考えるので、したがってその線で精神文化の粋としての書道が確立でき」よう。(9頁) 「坐禅や念仏のような三昧方法に出会いえているわれわれの幸せに想到せざるをえない」(5頁) 「定家卿のいはく、我筆道は一也。二聖三賢の跡をもしたはず、両公四輩の風をもねがはず、唯法而任運にして、柳はみどり花はくれなゐ、風雲流水のすがたおのづから不可説の道なれば、我師にあらずといふことなし。我手習にもれたる物なし。」(定家卿筆諫口訣、『続群書類従』第三十一輯下、巻第九一四、雑部六四 )(9頁) 「ここで「 二聖」とは 嵯峨天皇、弘法大師、「三賢」とは 道風、佐理、行成、 「 両公」とは 法性寺殿、後京極殿、「四輩」とは 文昌、保時、時文、文時、(生没年略)いずれも名だたる名筆なのに、そうした「 跡をもしたはず、風をもねがはず、 唯法而任運」の「自然に肇まる」ところに直入せ

「『徒然草』_究竟は理即に等し」

吉田兼好「日、暮れ、道、遠し。我が生、既に蹉陀たり」 2021/07/09 「第百十二段 明日は遠き国へ赴くべし」 兼好,島内裕子校訂訳『徒然草』ちくま学芸文庫 「人間の儀式、いづれの事か、去り難からぬ。世俗の黙(もだ)し難きに従ひて、これを必ずとせば、願ひも多く、身も苦しく、心の暇(いとま)も無く、一生は雑事(ざふじ)の小節に障(さ)へられて、空しく暮れなん。日、暮れ、道、遠し。我が生(しやふ)、既に蹉陀(さだ)たり。諸縁を放下(ほうげ)すべき時なり。信をも、守らじ、礼儀をも、思はじ。この心をも得ざらん人は、物狂(ものぐる)ひとも言へ、現無(うつつな)し、情け無しとも思へ。譏(そし)るとも、苦しまじ。誉(ほ)むとも、聞き入じれ。」 ◇ 以下、「現代語訳」です。 「人間が生きている限りしなくてはならない社交儀礼は、どれもしないわけにはいかない。だからといって、世間のしがらみを捨てきれずに、これらのことを必ずしていると、願望も多く、体も辛く、精神的な余裕もなくなって、肝心の一生が、次から次に押し寄せてくる雑事にさえぎられてしまい、空しく暮れてしまう。もう人生が暮れるような晩年になっても、まだ究めようとする道は遠い。自分の人生は、すでに不遇のうちに終わろうとしている。まさに、白楽天の「日、暮れ、道、遠し。我が生(しやふ)、既に蹉陀(さだ)たり」という状況だ。もうこうなったら、すべての縁を打ち捨てるべき時である。私は、約束も、もう守るまい。礼儀も、気にしまい。このような決心が出来ない人は、私のことをもの狂いとも言え。しっかりとした現実感がなく、人情がないと思ってもよい。他人がどんなに私のことを非難しても、少しも苦しくはない。逆に、私のことを褒めてくれても、そんな言葉を聞く耳は持たない。」 (註)「蹉陀」は躓く。転じて好機を失う。挫折する。(兼好法師,小川剛生訳注『新版 徒然草 現代語訳付き』 角川ソフィア文庫) 島内裕子は「徒然草の中でも、最も激烈な段である」と書いている。  2016/10/15 に「小林秀雄『末期の眼』」と題するブログを書きましたが、その思いはいまも変わりません。 「日、暮れ、道、遠し。我が生、既に蹉陀たり。諸縁を放下すべき時なり」  P教授の教えにしたがい、身支度を整えます。 TWEET「『徒然草』_信頼に足る確かな「たしなみ」の書」 2021/06

『徒然草』_「第二二0段 何事も、辺土は賤しく」

TWEET「『徒然草』_原文の姿を知らず」 2021/06/05 ◇ 兼好法師,小川剛生訳注『新版 徒然草 現代語訳付き』 角川ソフィア文庫 を現代語訳で読んだ。原文の味わいを知らず、素っ気ない読書に終始した。 「第二一九段 四条の黄門」,「第二二0段 何事も辺土は」の二編は特に面白かった。いずれも楽器の音についての話題である。 「第二二0段 何事も、辺土は賤しく」 島内裕子校訂訳『兼好 徒然草』ちくま学芸文庫 「何事も、辺土は賤(いや)しく、頑な(かたく)ななれども、天王寺の舞楽のみ、都に恥ぢず」と言へば、天王寺の伶人の申し侍りしは、「当寺の楽(がく)は、良く図を調べ合はせて、物の音のめでたく調(ととの)ほり侍る事、外よりも勝(すぐ)れたり。故は、太子の御時(おんとき)の図、今に侍るを博士とす。所謂(いはゆる)、六時堂(ろくじどう)の前の鐘なり。その声、黄鐘調(わうしきでう)の最中(もなか)なり。寒・暑に従ひて、上がり下がり有るべき故に、二月、涅槃会より聖霊会(しょうりょうえ)までの中間を、指南とす。秘蔵の事なり。この一調子を以(もち)て、いづれの声をも、調(ととの)へ侍るなり」と申しき。  凡(およ)そ、鐘の声は、黄鐘調なるべし。これ、無常の調子、祇園精舎の無常院の声なり。西園寺の鐘、黄鐘調に鋳らるべしとて、数多度(あまたたび)鋳替へられけれども、叶はざりけるを、遠国(をんごく)より尋ね出だされけり。浄金剛院(じやうこんがうゐん)の鐘の声、また黄鐘調なり。 ◇ 伶人:楽人。 ◇ 図:図竹。調子笛のこと。 ◇ 黄鐘調:おうしきじょう。 「寒・暑に従ひて、上がり下がり有るべき故に」「お釈迦様の入滅された二月十五日の涅槃会から、聖徳太子の命日である二月二十二日の聖霊会までの期間の鐘の音を、基準としているのです」。  鋭敏な耳の持ち主を以って “伶人” というのか、この兼好法師との分り合いの世界は、すてきである。 「祇園精舎の鐘の声」は黄鐘調の音(ね)であり、黄鐘調の音であってこそ、「諸行無常」と響くことを知った。 土門拳『古寺を訪ねて 斑鳩から奈良へ』小学館文庫 「法隆寺と斑鳩」 金堂にせよ、五重塔にせよ、 振り仰いだときの厳粛な感銘は格別である。 古寺はいくらあっても、 その厳粛さは法隆寺以外には求められない。 それは見栄えの美しさというよりも、 もっと精神的な何か

白洲正子「お能はお能にも執着してはならないのだ」

井筒俊彦『イスラーム哲学の原像』岩波新書 「 しかし考えてみれば、自我が無化したといっても、その無化された自我の意識そのものが残存している限り、無もまた一種の「他者」であるわけですから」( 井筒俊彦『イスラーム哲学の原像』岩波新書  166頁)、「無もまた無化され」なければならず、また、「仏教でもよく「空」が現成したところで、その「空もまた空され」なければならないなどと申しますが、(166頁) 「無の無化」,「空の空化」が達成されたとき、はじめて自我の意識が完全に消失するのである。 「現成(げんじょう)公案」 道元『正法 眼蔵 (しょうぼうげんそう)』 「仏道をならふといふは、自己をならふなり。自己をならふというは、自己をわするるなり。自己をわするるといふは、萬法に証せらるるなり萬法に証せらるるといふは、自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり。」  上記の一節を読み、「お能はお能にも執着してはならないのだ」といった、白洲正子の言葉を思い出した。 白洲正子「吉越立雄_梅若実『東岸居士』2/4」 「吉越立雄(たつお)能の写真」 白洲正子『夢幻抄』世界文化社  あるとき、吉越さんは、ふとこんなことを口走った。  ー 舞台と見物席の間で、カメラを構えていることはたしかに辛い。またさまざまの(お能以外の)制約にしばられることも、忍耐が要(い)る。が、それとは別にシャッターを「押してりゃ写っちゃう」ときもある。  そして、その一例として、梅若実の『東岸居士(とうがんこじ)』をあげた。これは実の晩年、老人だから面をつけないでも構わないだろうといって、直面(ひためん)で演じた、そのときの写真である。  『東岸居士』というのは、十五、六歳の少年の能で、それを八十になんなんとする老人が、面なしで舞うというのだから、ずいぶん思い切った演出である。が、『東岸居士』という曲が、そもそも皮肉な着想なので、年端(としは)も行かぬ少年が、老僧のような悟りを得ており、世の中はすべてこれ「柳は緑、花は紅」、本来空(くう)なれば家もなく、父母もなく、出家してわざわざ坊さんになるまでもない。されば髪もそらず、衣も着ず、飄々として自然のままに生き、興にのったときは羯鼓(かつこ)を打ち、笛を吹いて舞い遊べば、それが即ち極楽ではないか。 「何とたゞ雪や氷とへだつらん、万法みな一如なる、実相(じつそう)

洲之内徹「絵が絵であるとき」

  「男が階段を下るとき」 洲之内徹『人魚を見た人 気まぐれ美術館』新潮社 「批評や鑑賞のために絵があるのではない。絵があって、言う言葉もなく見入っているときに絵は絵なのだ。何か気の利いたひと言も言わなければならないものと考えて絵を見る、そういう現代の習性は不幸だ」(166頁) 「今年の秋」 洲之内徹『人魚を見た人 気まぐれ美術館』新潮社 「汗をかきながら興奮して撮影を続けていたMさんは、終ると、その間傍でただ呆んやり煙草をのんで眺めていた私に、 『取材はもういいんですか』 と、けげんそうに言った。そのとおりで、取材なんて面倒なことは、私は全然する気にならないのであった。美しいものがそこにあるという、ただそれだけでよかった」(90頁) 「秋田義一ともう一人」 洲之内徹『人魚を見た人 気まぐれ美術館』新潮社 「最近では、九月に、旅行の帰途ふとその気になって倉敷へ寄ったとき、時間がなくて大原美術館だけ、それも本館と新館とを三十分ずつ駈足で見て廻ったが、こういう見方にも思い掛けぬ面白さがあって、特に日本人の画家のものを並べた新館では、その一人一人の画家について従来いろいろと語られている美術史家や批評家の言葉を超えたその向こうに、その画家の存在はあるのだということを、なぜかしらないが、私は強く感じた。 (中略)  私は更に、日本人の油絵は、岸田劉生だろうと萬鉄五郎だろうと小出楢重だろうと安井曾太郎だろうと川口軌外だろうと鳥海青児だろうと松本竣介だろうとその他誰であろうと、みんな共通して、われわれ日本人のある切なさのようなもの、悲しみのようなものを底に持っている、と思った」(296頁) 「いまなぜ洲之内徹なのか」 下記の白洲正子の文章が発端となった。 「さらば『気まぐれ美術館』洲之内徹」 白洲正子『遊鬼』新潮文庫 「小林(秀雄)さんが洲之内さんを評して、「今一番の評論家だ」といったことは、週刊誌にまで書かれて有名になったが、 (中略)  だが、小林さんの言葉は私がこの耳で聞いたから確かなことなので、一度ならず何度もいい、その度に「会ったことないの?」と問われた。  変な言いかただが、小林さんは「批評」というものにあきあきしており、作者の人生と直結したものでなくては文学と認めてはいなかったのである。小林さんだけでなく、青山二郎さんも、「芸術新潮では洲之内しか読まない」と公言して

「山本空外,青山二郎_『道具茶』再び」

龍飛水編『いのちの讃歌 山本空外講義録』無二会 「わたくしの地平を越えて」 「わたくしの地平を越えて」は、三日間にわたって行われた「授戒会(じゅかいえ)」での「75分 × 9回」の「講義録」である。しかし、ここにいたっては、「空外先生」,「空外上人」とよぼうが、「講義」,「講話」といおうが、差しつかえのないものである。 白洲正子『いまなぜ青山二郎なのか』新潮文庫 「『道具茶』といふ言葉は偶像崇拝の意味だらうが、茶の根源的な観点は空虚にある様に思はれる。真の意味で、道具の無い所に茶はあり得ないのである。一個の道具はその道具の表現する茶を語つてゐる。数個の道具が寄つて、それらの語る茶が連歌の様に響き合つて、我々の眼に茶道が見えるのである。何一つ教はらないのに、陶器に依(よ)つて自得するのが茶道である。」(青山二郎『日本の陶器』) 「何一つ教はらないのに」といっているように、青山さんは茶道のことなんか、何一つ知らなかった。ひたすら陶器に集中することによって、お茶の宗匠の及びもつかぬ茶道の奥儀を極めたのだ」(83頁) 「わたくしの地平を越えて」 「茶席へ行った場合はその器が大事です。」「半分は器を見せて頂くことが茶席の仕事です。第一は、茶席に入ったら床の間の掛けものを拝見することです。わたくしは掛けものに書いてある「南無阿弥陀仏」を随分多く見ていますが、その殆(ほとん)どは、字になっていない。それは人間がなっていない証拠です。書は、心画だといいましたが、その方の心をずばり形に出すのです。人間はさとっているが字だけは迷っている、というような芸当はできない。字を書かせてみたら本物かどうか一発です。 (中略) 器だけではない、床の間に掛けてある字がわからなければいけません。主人の心づくしが掛けものにうかがえるからです。それから、釜でも水差でも茶碗(ちゃわん)でもです。茶杓(ちゃしゃく)はなおさら、茶入や棗(なつめ)でも、しかも、釜を掛けてある五徳がありますが、あれがまた大事です。だから、炭手前を拝見するときには、五徳を見るのが大切です。五徳の芸術がある。すばらしいです。ただ上に釜をのせればいいというものじゃない。 (中略)  お茶は中国あるいは中央アジアからきているけれども、それを茶道といえるところまで精励してまとめあげていく力は日本人ならではの力です。  ちょうど、いろは歌をう

TWEET「相続税申告_覚書き」

  2024/02/16 税理士さんに「相続税申告書」を「豊橋税務署」に提出していただいた。  その翌日「写し」をいただきにうかがった。それは、A4の用紙 84枚がファイリングされた分厚いものだった。その際には、1時間ほど先生とお話しする時間がもてた。一月の「年末調整」と「確定申告」のこの時期に、税理士の仕事の半数が集中します、とのことだった。知らぬこととはいえ、ご多忙中に割り込み、急かせる格好になってしまい、恐縮している。  先生のお仕事ぶりは懇切丁寧で、細やかな目配り気配りをしていただき、心地よかった。  今日の午前中には、「相続税」,「贈与税」を納め、「税理士報酬」を振込んだ。  次には「相続登記」があり、その後には、私用の大仕事が待ち構えている。が、まずは一息ついている。  相続税申告とは一大事だった。今回「小川会計事務所」さんと「下地郵便局」の皆さんには、殊更お世話になった。感謝している。  多忙極まる 「小川会計事務所」さんの皆様の、ご健康をお祈りするばかりである。  また、税務調査が入らないことを祈っている。

「山本空外_では書は信用であるか」

  「書論各観の光はその心の深さにしか照応しない。したがって外観のよさと内面の心光とは、どこまでも混合してはならないし、あくまで別のものである。そのことを書ほどきびしく示すものが他にあるであろうか。書をかけば、そのことはまったく一目瞭然なのである。自己とは何かをいかに論議しても、またそれに関する研究書をどれほど読破しても、決まるものではない。わたくし自身その問題を東大の哲学科卒業論文(『カント及び現代のドイツ哲学における認識主観の意義』大正十五年三月)でも取りくんだし、以後今日まで約六十年も専攻し来ったが、それよりも書を見るほうが、よほどはっきりと書いたひとの心もわかり、自分の書を前にすれば自己の心を鏡に写したようなものと感ずる。生きた心の芸術として書以上のものはなかろう。終生自己の問題に哲学上取りくみ来ったわたくしは、心の宗教として念仏で一生をとおし、また自己の心を原点にする書芸術を久しく行ずるゆえんである」( 『墨美 山本空外 ー 書論・各観 1979年7月号 No.292』墨美社  39-40頁) 「良寛和尚のごとき、外見はいかにも平凡のようでも、心は深く永遠の光に照らされている証拠をその墨蹟が物語っている」(『墨美 山本空外 ー 書論・各観 1979年7月号 No.292』墨美社 55頁) 「良寛の道詠に   草の庵ねてもさめても申すこと   南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏 とあるが、良寛の筆致に見入るほどわたくしは「無縁の慈」の深みに感応する」 (『墨美 山本空外 ー 書と書道観(二)1973年6月号 No.231』墨美社 10頁) 「良寛の書のごときは、そうした「大慈悲」の書でもあり、この前に立つものをして、「無縁の慈をもって、もろもろの衆生を摂するなり」といえないであろうか。「仏心とは大慈悲なり」という、その仏心こそ主・客の無二を呼吸する、いのちのつながりの原点であるからである。その原点に立つ書論各観でなければ、生ける書とはいえない」 ( 『墨美 山本空外 ー 書論・各観 1979年7月号 No.292』墨美社 41頁) 「かの『淳化閣帖』中の蕭子雲の書(「歴代名臣法帖第四」)を見ていても、時のたつのも忘れて自然の心に迫って際限ないものに感応する」 『墨美 山本空外 ー 書論・各観 1979年7月号 No.292』墨美社 50頁) 「では美は信用であるか。そ

「山本空外_良寛の書を語る」

「良寛の道詠に   草の庵ねてもさめても申すこと   南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏 とあるが、良寛の筆致に見入るほどわたくしは「無縁の慈」の深みに感応する」 (『墨美 山本空外 ー 書と書道観(二)1973年6月号 No.231』墨美社 10頁) 「江戸期に相次いだ二大書家、いな二大仏者というべきであろうが、慈雲尊者(1718-1804)と良寛和尚(1758-1831)のごとき、いずれもそうであって、(各各一人ひとりのいのちの根源に迫って、その内面化において自己も悟入し、周囲をも照らす自・他平等の自由が深まる)そうした根源に帰入しなければ、いかに臨書しても、外形に終り、したがって書道でなく、書き方でしかない。  したがって極言すれば、良寛の書を終日臨書するよりも、和尚の晩年を追想できる越後、長岡国上山の五合庵を訪ねたほうがむしろましではなかろうか。当時ほど不便ではないが、それでも和尚の生活を深めた自然の趣を追跡できるからである。書は人なりといっても、その人間も心も形成されるのは生活と自然によるのであり、その生活も自然のなかでしかない。五合庵にいたる奥まった上下する細道を托鉢のために往来すること十四年(1804-1818)、途上の大木に問いかけて、去にし模様を聞かして欲しい気持をおさええないような環境でもある。そこで暫く乞食生活でもすれば、少しは良寛の書を理解できる道も開けるかもしれないが、現代人には至難のことであろう」 (『墨美 山本空外 ー 書と書道観(二)1973年6月号 No.231』墨美社 5頁) 現地におもむき、当地でふれ合えば「感応」することもあるだろう。「五合庵」、また一つ行き先がふえた。 「たとえば良寛和尚(1757-1831)のごとき、その書は禅僧として随一のこと周知のとおりであるが、さすがにいのちの根源ともいうべき阿弥陀仏と一如の生活に徹していたのであろう。道詠にも、   草の庵ねてもさめても申すこと  南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏  不可思議の弥陀の誓ひのなかりせば 何をこの世の思ひ出にせむ  我ながら嬉しくもあるか弥陀仏の いますみ国に行くと思へば などがある。これは曹洞宗の禅僧としては、むしろ当然でもあるというのがわたくしの見解でもある。 (中略) やはり心の芸術の奥にはいのちの原点に一如の光が照らさなければ、真実の深みはあらわれようがなかろう。書

「良寛の書」

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荒井魏『良寛の四季』岩波現代文庫 「古筆学の権威として知られる小松茂美さんは」「良寛書の魅力」を、 「独自のものだ、と思います。枯れた、寂(さび)た、わびた風情。言いがたい一つの線の美しさ…。いきなり真似て書いても、こんな字にならない。禅の修行による人間錬成の結果、無欲恬淡(てんたん)に至り得た境地からの自然な流露のままの字です」(126頁) と述べている。 『墨美 山本空外 ー 書論・各観 1979年7月号 No.292』墨美社  〈山本空外〉 「良寛和尚のごとき、外見はいかにも平凡のようでも、心は深く永遠の光に照らされている証拠をその墨蹟が物語っている」(55頁) (「唐の懐素上人といい、わが弘法大師といい」)「良寛の書にしてもそのよさを一語にしていえば、そう(「空」を書くと)いえるようである。いな、極言すれば「空」を書かなければ、未だ書道の門前に立つにすぎないともいえないことはなかろう」(49頁) 〈森田子龍〉 「良寛のあの細い細い線は、中にきりっと厳しい骨というか芯があって、そこから外に無限にはたらき出しています。無限の振幅があってそれが空間を奥行のある生きた世界にしています」( 33-34頁) クリック、またはタップして、拡大してご覧ください。 「われありと」 「われありと たのむひとこそ はかなけれ ゆめのうきよに まぼろしのみを」(6-7頁) 「易 曰」 「易に曰く、錯然は則ち吉なり」(8-9頁) 「われありと」は、変体仮名で書かれています。学生時代 雲英末雄( きらすえお)先生にずいぶん鍛えられたはずなのですが、いまとなっては…。 「易 曰」では、「錯然は則ち吉なり」と保証された、それぞれの文字の、無邪気にくつろいだ姿が愉快である。絵を見ているかのようで楽しい。良寛の筆の運びに迷いはなく、濃淡もそのままで、なんの衒いもない。興にのって書き、後はふり返らず、といった風情の書である。  見ていると体が明るくなり、時を忘れ、迷子になる。  それはたとえば、「渡岸寺(どうがんじ)十一面観音像」,「法華堂 不空羂索観音立像」, また「興福寺 阿修羅像」 の前に立ったときと同種の体験である。  空外先生は、弁栄上人に帰依した、浄土門の人である。書を拝見すれば境地がわかる、悟りの境地にあるか否かは書に表れる、と、こともな気にいっている。日本人では、空海、良寛、慈雲

木田元「小林秀雄の言語観」

木田元「小林秀雄の言語観」 第十二章 言葉について 木田元『なにもかも小林秀雄に教わった』文藝新書 ランボオの「千里眼」  ランボオの言語観がそのまま小林秀雄のそれだということにはならないであろうが、その傾倒ぶりからすれば、いちおうそう考えておいてもよいのではなかろうか。(183頁)  然(しか)し、彼(ランボオ)自身が否定しようがしまいが、彼の「言葉の錬金術」からは、正銘の金が得られた。その昔、未だ海や山や草や木に、めいめいの精霊が棲んでいた時、恐らく彼等の動きに則(のっと)って、古代人達は、美しい強い呪文を製作したであろうが、ランボオの言葉は、彼等の言葉の色彩や重量にまで到達し、若(も)し見ようと努めさえするならば、僕らの世界の至る処に、原始性が持続している様を示す。僕等は、僕等の社会組織という文明の建築が、原始性という大海に浸っている様を見る。「古代の戯れの厳密な観察者」ーー厳密という言葉のマラルメ的意味を思いみるがよい。(同前(「全作品」15『モオツァルト』所収)、一三九ページ)(184-185頁) 『本居宣長』の「言霊」  小林秀雄は、最後の大仕事『本居宣長』においては、この「古代の戯れ」を「言霊(ことだま)」と呼んでいる。 (中略) ここでも、宣長の言語感と小林のそれとを区別する必要はあるまい。(187頁)  言語は、本質的に或る生きた一定の組織であり、この組織を信じ、組織の網の目と合体して生きる者にとっては、自由と制約との対立などないであろう。この事実を、彼(宣長)は、「いともあやしき言霊のさだまり」と言ったのだ……。(同前(「全作品」28『本居宣長(下)』所収「本居宣長補記 Ⅱ」、三0一ページ)  ランボオが「千里眼」によって透視しようとしていたものも、つまり「原始性」であり、「古代の戯れ」であり、言葉そのものの自己分節であり、自己組織化であるものがそのまま存在の自己分節になり自己組織化になるような、そうした「言葉の錬金術」と、宣長のいう「言霊の営み」とを、小林秀雄が重ね合わせて考えようとしていることは明らかであろう。  私にはこの小林の言語観と、先ほど見たハイデガーのそれとに深く通い合うものがあるように思えてならないのだ。(188-189頁)  木田元の手腕はみごとである。核心に分け入るものだった。  そして、井筒俊彦が、「存在はコトバである」と措

小林秀雄「国語伝統の底流」

小林秀雄『本居宣長 (上)』新潮文庫 「宣長が注目したのは、国語伝統の流れであった。才学の程が、勅撰漢詩集で知られるという事になっては、和歌は、公認の教養資格の埒外(らちがい)に出ざるを得ない。極端な唐風模倣という、平安遷都とともに始まった朝廷の積極的な政策が、和歌を、才学と呼ばれる秩序の外に、はじき出した。しかし、意識的な文化の企画には、言わば文化地図の塗り替えは出来ても、文化の内面深く侵入し、これをどうこうする力はない。生きて行く文化自身の深部には、外部から強いられる、不都合な環境にも、敏感に反応して、これを処する道を開いて行く自発性が備っている。そういう、知的な意識には映じにくい、人々のおのずからな知慧が、人々の共有する国語伝統の強い底流を形成している。宣長はそう見ていた」(321-322頁) 「言語伝統は、 其処に、音を立てて流れているのだが、これを身体で感じ取っていながら、意識の上に、はっきり描き出す事が出来ずにいる。言語は言霊という自らの衝動を持ち、環境に出会い、自発的にこれに処している。事物に当って、己れを験し、事物に鍛えられて、己れの姿を形成しているものだ。」( 322頁) 「言霊」という言葉は万葉歌人によって、初めて使い出されたものだが、「言霊のさきはふ 国」とか、「言霊のたすくる国」とかいう風に使われているので明らかなように、母国の 言葉という意識、これに寄せる歌人の鋭敏な愛着、深い信頼の情から、先ずほころび出た言葉である事に、間違いない。」 ( 322頁) 「言語は、本質的に或る生きた一定の組織であり、この組織を信じ、組織の網の目と合体して生きる者にとっては、自由と制約との対立などないであろう。この事を、彼(宣長)は、「いともあやしき言霊のさだまり」と言ったのだが、この言語組織の構造に感嘆した同じ言葉は、その発展を云々する場合にも、言えた筈である。」 ( 323頁)  宣長の見識を、小林秀雄が 達意の文で綴った 。それは以下の、 レオ・ヴァイスゲルバーが命名した、 「言語共同体の法則」と同等の内容のものである。 若松英輔『井筒俊彦―叡知の哲学 』慶應義塾大学出版会 「レオ・ヴァイスゲルバーは井筒俊彦が深い関心を寄せた二十世紀ドイツの言語学者である」(222頁) 「ヴァイスゲルバーは、人間と母語の関係に着目する。母語が世界観の基盤を形成し、誰もこ

「小林秀雄『本居宣長 (下)』_生死の問題」

  「小林秀雄『本居宣長 (下)』_生死の問題」 「私達は、史実という言葉を、史実であって伝説ではないという風に使うが、宣長は、「正実(マコ ト)」という言葉を、伝説の「正実(マコト)」という意味で使っていた(彼は、古伝説(イニシヘノツタヘゴト)とも古伝説(コデンセツ)とも書いている)。「紀」よりも、「記」の方が、何故、優れているかというと、「古事記伝」に書かれているように、ーー「此間(ココ)の古ヘノ伝へは然らず、誰云出(タガイヒイデ)し言ともなく、だゞいと上ツ代より、語り伝へ来つるまゝ」なるところにあるとしている。文字も書物もない、遠い昔から、長い年月、極めて多数の、尋常な生活人が、共同生活を営みつつ、誰言うとなく語り出し、語り合ううちに、誰もが美しいと感ずる神の歌や、誰もが真実と信ずる神の物語が生まれて来て、それが伝えられて来た。この、彼のいう「神代の古伝説」には、選録者は居たが、特定の作者はいなかったのである。宣長には、「世の識者(モノシリビト)」と言われるような、特殊な人々の意識的な工夫や考案を遥かに超えた、その民族的発想を疑うわけには参らなかったし、その「正実(マコト)」とは、其処に表現され、直かに感受出来る国民の心、更に言えば、これを領していた思想、信念の「正実(マコト)」に他ならなかったのである」(145頁)  最終章「五十」は、生死(しょうじ)の問題についての話題である。 「既記の如く、道の問題は、詰まるところ、生きて行く上で、「生死の安心」が、おのずから決定(けつじょう)して動かぬ、という事にならなければ、これをいかに上手に説いてみせたところで、みな空言に過ぎない、と宣長は考えていたが、これに就いての、はっきりした啓示を、「神世七代」が終るに当って、彼は得たと言う。ーー「人は人事(ヒトノウへ)を以て神代を議(はか)るを、(中略)我は神代を以て人事(ヒトノウへ)を知れり」、ーーこの、宣長の古学の、非常に大事な考えは、此処の注釈のうちに語られている。そして、彼は、「奇(アヤ)しきかも、霊(クス)しきかも、妙(タヘ)なるかも、妙(タヘ)なるかも」と感嘆している。註解の上で、このように、心の動揺を露わにした強い言い方は、外には見られない。  宣長が、古学の上で扱ったのは、上古の人々の、一と口で言えば、宗教的経験だったわけだが、宗教を言えば、直ぐその内容を成

小林秀雄「本居宣長の源氏物語論」

小林秀雄「本居宣長の源氏物語論」 小林秀雄『本居宣長 (上)』新潮文庫 「宣長が、思い切ってやってのけた事は、作者(紫式部)の「心中」に飛込み、作者の「心ばへ」を一たん内から摑んだら離さぬという、まことに端的な事だった。宣長は、「源氏」を精しく読もうとする自分の努力を、「源氏」を作り出そうとする作者の努力に重ね合わせて、作者と同じ向きに歩いた」(184頁)  また、小林秀雄の本居宣長に対する態度は、宣長の声に無心に耳を傾けることであった。そしてそれはそのまま、小林秀雄が、読者である私たちに付託した姿勢でもある。 「彼(本居宣長)の課題は、「物のあはれとは何か」ではなく、「物のあはれを知るとは何か」であった。「此物語は、紫式部がしる所の物のあはれよりいできて、(中略)よむ人に物の哀をしらしむるより外の儀なく、よむ人も、物のあはれをしるより外の意なかるべし」(紫文要領、巻下)(153頁) 「生きた情(ココロ)の働きに、不具も欠陥もある筈がない。それはそのまま分裂を知らず、観点を設けぬ、全的な認識力である筈だ。問題は、ただこの無私で自足した基本的な経験を、損なわず保持して行く事が難しいというところにある。難しいが、出来ることだ。これを高次な経験に豊かに育成する道はある。それが、宣長が考えていた、「物のあはれを知る」という「道」なのである。彼が、式部という妙手に見たのは、「物のあはれ」という王朝趣味の描写ではなく、「物のあはれを知る道」を語った思想家であった」(154頁) 「彼(本居宣長)の言う「あはれ」とは広義の感情だが、なるほど、先ず現実の事や物に触れなければ感情は動かない、とは言えるが、説明や記述を受附けぬ機微のもの、根源的なものを孕んで生きているからこそ、不安定で曖昧なこの現実の感情経験は、作家の表現力を通さなければ、決して安定しない。その意味を問う事の出来るような明瞭な姿とはならない。宣長が、事物に触れて動く「あはれ」と、「事の心を知り、物の心を知る」事、即ち「物のあはれを知る」事とを区別したのも、「あはれ」の不完全な感情経験が、詞花言葉の世界で完成するという考えに基く。これに基いて、彼は光源氏を、「物のあはれを知る」という意味を宿した、完成された人間像と見たわけであり、この、言語による表現の在るがままの姿が、想像力の眼に直視されている以上、この像の裏側に、何か別

洲之内徹「夫婦喧嘩ですか」

「秋田義一ともう一人」 洲之内徹『人魚を見た人 気まぐれ美術館』新潮社 「これが年を取ったということかもしれないが、この頃、私は、物を考えるということをあまりしない。何か感じても感じっぱなしで、それを考えて行くということをしないのだ。 (中略)  そのゴッホの二枚目の絵の前に立ったとき、突然、私は、 「ただ絵を売るためだけなら、何も、こんないい絵を描くことはないんだよなあ」  と、思わず口の裡で呟いてしまった。そして、この、全く以ってお粗末至極な感想に呆れて笑ってしまったが、しかし、すぐに、待てよ、これはだいじなテーマかもしれないぞ、よく考えてみなきゃあ、と思った。  思ったが、それから半年以上たっても、私はそのことで何も考えていない」(295頁) 「これが靉光か!」 洲之内徹,関川夏央,丹尾安典.大倉宏 ほか『洲之内徹 絵のある一生』(とんぼの本)新潮社   「靉光(あいみつ)はかつてルオーの絵を見て、「やっちょるのお、手を抜いちょらんわい」と感心していたという。洲之内は、そんな靉光のひたむさが好きだったのだ」(88頁) 「靉光の死を見届けた人」  洲之内徹『気まぐれ美術館』新潮社  「とりとめもない話をする。靉光のことになると、きえさんはいつものように、自分は靉光の女房にはちがいないが、結婚生活といっても十年ほどだし、それに自分は毎日勤めに出、靉光は靉光で、二階の画室には人を寄せつけず、ときにはひと月もふた月もそこへ籠りきりで、だから、そんなときは顔を合わせることもあまりない、そういう具合ですからねと言い、たまに二階から降りてきたと思うと、何も言わずにあたしの頭をはたいておいて、また上って行ってしまったりするんですよ、と笑っている。  「夫婦喧嘩ですか」  「そうじゃないんですよ、仕事の緊張が続いて自分で耐えられなくなると、そうやって気を晴らすんでしょう」  黙って殴られている靉光夫人の姿に、私は感動した。なんという素敵な夫婦だろう」(150頁)

白洲正子「北京の空は裂けたか 梅原龍三郎」

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 初診の日から10日経ち、一昨日の午前中「冨安眼科」さんへ行った。  視神経からの出血はみ られなくなりました、とのお話で、胸をなで下ろした。「 飛蚊症(ひぶんしょう)」による影が、 小さく薄くなった。止血用の錠剤は飲み切りで、炎症を抑える点眼薬だけ が処方された。次回の受診は、2週間後の 2024/02/27 である。  影といえば、梅原龍三郎の「雲中天壇」を思い出す。影がないのである。 ◇ 白洲正子『遊鬼 ー わが師 わが友 ー』新潮社 「北京の空は裂けたか 梅原龍三郎」 で知った。三十年あまりも前のことである。   梅原龍三郎「雲中天壇」 (1939年 京都国立近代美術館蔵)   たとえば 光と影のような、対照を成す二者が補償し合い、もの・ことは 調和する。均衡を欠く「天壇」と飛翔しているかのようなひと群れの雲雲と相俟って、影を伴うことなく鮮やかな色彩だけが一人歩きする。そこに「僕等」は不安を覚える。 「僕等の不安とは、すなわち梅原さんが感じていた不安に他ならない」(165頁)と白洲正子はいう。「梅原さんは、一代で油絵を日本の風土に同化させなくてはならない。そういう宿命を天から授かった人だ。(中略)その孤独で性急な仕事ぶりは、ゆっくり不安など味わう余裕もなかったであろう。変な言い方だが、正しくそういう所に梅原さんの不安がひそんでいた。(中略)憧憬や悦楽は、陶酔を生むかも知れないが、幸福には到達しない。幸福とは、強引につかみとるものではなく、どこからともなく静かにおとずれる神の恩寵ではあるまいか 」(165-166頁)    ここには、小林秀雄の文が引用されている。明示されてはいないが、「北京秋天」について書かれた文章であろう。     梅原龍三郎「北京秋天」 (東京国立博物館蔵) 「もし、あの紺碧の空に穴を穿ち、向う側にあるものが見られるなら、どんな視覚の酷使も厭ふまい」 「かういふ飽くまでも明るい色彩は、僕等を不安にする何物かを含んでゐる。僕等は、言つてみれば、熱線を伴はぬ短波の光を浴びて、恍惚境にゐるのだが、どうも幸福境にはゐない様である。その辺りがルノアールとは異なるところだ。天は果して裂けるであらうか」(165頁)  こうした文は全体、どうして成るのだろうか。  気の遠くなるような時間を絵の前で過ごし、言葉が生まれるのを待つ。また、小林 秀雄の感性と言