洲之内徹「夫婦喧嘩ですか」

「秋田義一ともう一人」
洲之内徹『人魚を見た人 気まぐれ美術館』新潮社
「これが年を取ったということかもしれないが、この頃、私は、物を考えるということをあまりしない。何か感じても感じっぱなしで、それを考えて行くということをしないのだ。
(中略)
 そのゴッホの二枚目の絵の前に立ったとき、突然、私は、
「ただ絵を売るためだけなら、何も、こんないい絵を描くことはないんだよなあ」
 と、思わず口の裡で呟いてしまった。そして、この、全く以ってお粗末至極な感想に呆れて笑ってしまったが、しかし、すぐに、待てよ、これはだいじなテーマかもしれないぞ、よく考えてみなきゃあ、と思った。
 思ったが、それから半年以上たっても、私はそのことで何も考えていない」(295頁)

「これが靉光か!」
洲之内徹,関川夏央,丹尾安典.大倉宏 ほか『洲之内徹 絵のある一生』(とんぼの本)新潮社  
「靉光(あいみつ)はかつてルオーの絵を見て、「やっちょるのお、手を抜いちょらんわい」と感心していたという。洲之内は、そんな靉光のひたむさが好きだったのだ」(88頁)

「靉光の死を見届けた人」 
洲之内徹『気まぐれ美術館』新潮社 
「とりとめもない話をする。靉光のことになると、きえさんはいつものように、自分は靉光の女房にはちがいないが、結婚生活といっても十年ほどだし、それに自分は毎日勤めに出、靉光は靉光で、二階の画室には人を寄せつけず、ときにはひと月もふた月もそこへ籠りきりで、だから、そんなときは顔を合わせることもあまりない、そういう具合ですからねと言い、たまに二階から降りてきたと思うと、何も言わずにあたしの頭をはたいておいて、また上って行ってしまったりするんですよ、と笑っている。 
「夫婦喧嘩ですか」 
「そうじゃないんですよ、仕事の緊張が続いて自分で耐えられなくなると、そうやって気を晴らすんでしょう」
 黙って殴られている靉光夫人の姿に、私は感動した。なんという素敵な夫婦だろう」(150頁)