「山本空外,青山二郎_『道具茶』再び」

龍飛水編『いのちの讃歌 山本空外講義録』無二会
「わたくしの地平を越えて」「わたくしの地平を越えて」は、三日間にわたって行われた「授戒会(じゅかいえ)」での「75分 × 9回」の「講義録」である。しかし、ここにいたっては、「空外先生」,「空外上人」とよぼうが、「講義」,「講話」といおうが、差しつかえのないものである。

白洲正子『いまなぜ青山二郎なのか』新潮文庫
「『道具茶』といふ言葉は偶像崇拝の意味だらうが、茶の根源的な観点は空虚にある様に思はれる。真の意味で、道具の無い所に茶はあり得ないのである。一個の道具はその道具の表現する茶を語つてゐる。数個の道具が寄つて、それらの語る茶が連歌の様に響き合つて、我々の眼に茶道が見えるのである。何一つ教はらないのに、陶器に依(よ)つて自得するのが茶道である。」(青山二郎『日本の陶器』)
「何一つ教はらないのに」といっているように、青山さんは茶道のことなんか、何一つ知らなかった。ひたすら陶器に集中することによって、お茶の宗匠の及びもつかぬ茶道の奥儀を極めたのだ」(83頁)

「わたくしの地平を越えて」
「茶席へ行った場合はその器が大事です。」「半分は器を見せて頂くことが茶席の仕事です。第一は、茶席に入ったら床の間の掛けものを拝見することです。わたくしは掛けものに書いてある「南無阿弥陀仏」を随分多く見ていますが、その殆(ほとん)どは、字になっていない。それは人間がなっていない証拠です。書は、心画だといいましたが、その方の心をずばり形に出すのです。人間はさとっているが字だけは迷っている、というような芸当はできない。字を書かせてみたら本物かどうか一発です。
(中略)
器だけではない、床の間に掛けてある字がわからなければいけません。主人の心づくしが掛けものにうかがえるからです。それから、釜でも水差でも茶碗(ちゃわん)でもです。茶杓(ちゃしゃく)はなおさら、茶入や棗(なつめ)でも、しかも、釜を掛けてある五徳がありますが、あれがまた大事です。だから、炭手前を拝見するときには、五徳を見るのが大切です。五徳の芸術がある。すばらしいです。ただ上に釜をのせればいいというものじゃない。
(中略)
 お茶は中国あるいは中央アジアからきているけれども、それを茶道といえるところまで精励してまとめあげていく力は日本人ならではの力です。
 ちょうど、いろは歌をうたえるのは日本人しかないのと同じです。アイウエオという五十音を「いろはにほへとちりぬるを、わかよたれそつねならむ、うゐのおくやまけふこえて、あさきゆめみしゑひもせす、ん」とまとめあげた。これで人間になれる。授戒とはそういうことをいう。
 「うゐ(有為)のおくやま(奥山)けふ(今日)こ(越)え」るのです。「有為の奥山」とは迷いのことです」(105-107頁)

「山本空外『書と生命 一如の世界(対談)』_1/2」
 再び「道具茶」についての話題である。
 美とは、空外先生の言葉でいえば、「自然のいのちに照らされているもの」ということだろう。そして、空外先生は、「その各各の(美の)取りあわせを生かしきっていくところを重層立体的各各円成」(「山本空外『書論・各観_1/2」39頁)と称している。青山二郎のいう「数個の道具が寄つて、それらの語る茶が連歌の様に響き合つて」と同様の意である。
 前述したように、形あるものの「いのち」に人が摂取される。思いもよらぬ場面の展がりを感じている。

司馬遼太郎『この国のかたち 一』文春文庫 
 仏教は、飛鳥・奈良朝においては、国家統一のための原理だった。『華厳経(けごんぎょう)』は宗教的というより哲学的な経典で、その経典を好んだ聖武(しょうむ)天皇が、この経典に説かれている宇宙の象徴としての毘盧舎那仏(びるしゃなぶつ)(大仏)を尊び、「国の銅(あかがね)を尽くし」て鋳造した。天平(てんぴょう)感宝元年(七四九年)、この天皇が東大寺大仏の前で「三宝(みほとけ)の奴(やっこ)」とみずからを規定して拝跪(はいき)したことほど、奈良朝における仏教と国家の関係を感動的に表現した光景はない。(245頁)

「わたくしの地平を越えて」
「聖武天皇は鑑真和上(がんじんわじょう)(688〜763)から戒を受けられました。
(中略)
世界で聖武天皇のような日常生活をなさった方はおられない。その証拠が正倉院です。今、正倉院に残っているものは、世界一の宝です。
(中略)
これ以上の天皇はおられません。なぜかというと日常使っておられた道具でわかる。」
「聖武天皇の皇后の光明皇后は(701〜760)は、書でも日本一です。女子ではむろん、男子でも光明皇后ほどの字が書ける方は、弘法大師(774〜835)や良寛禅師(1758〜1838)などという方がたは別として他にはおられません。「書は心画」といいます。人間になるというのは心の上でなれるのです」(104-105頁)

 ここでの話題も「道具」である。聖武天皇・光明皇后は、常に、「道具」の放つ光に照らされて生活されていた。青山二郎にしろ、小林秀雄、白洲正子にしろ、骨董は決して観賞用陶器ではなかった。日用品だった。
「道具」が「人」を照らし、「人」が「道具」を照らす。光が交錯し、光が遍満する世界、光の相互に浸透する世界、とでもいえば、いくらか華厳的か。
 それにつけ思うのは、人の図らいの浅ましさである。