『徒然草』_「第二二0段 何事も、辺土は賤しく」

TWEET「『徒然草』_原文の姿を知らず」
2021/06/05
◇ 兼好法師,小川剛生訳注『新版 徒然草 現代語訳付き』 角川ソフィア文庫
を現代語訳で読んだ。原文の味わいを知らず、素っ気ない読書に終始した。
「第二一九段 四条の黄門」,「第二二0段 何事も辺土は」の二編は特に面白かった。いずれも楽器の音についての話題である。

「第二二0段 何事も、辺土は賤しく」
島内裕子校訂訳『兼好 徒然草』ちくま学芸文庫
「何事も、辺土は賤(いや)しく、頑な(かたく)ななれども、天王寺の舞楽のみ、都に恥ぢず」と言へば、天王寺の伶人の申し侍りしは、「当寺の楽(がく)は、良く図を調べ合はせて、物の音のめでたく調(ととの)ほり侍る事、外よりも勝(すぐ)れたり。故は、太子の御時(おんとき)の図、今に侍るを博士とす。所謂(いはゆる)、六時堂(ろくじどう)の前の鐘なり。その声、黄鐘調(わうしきでう)の最中(もなか)なり。寒・暑に従ひて、上がり下がり有るべき故に、二月、涅槃会より聖霊会(しょうりょうえ)までの中間を、指南とす。秘蔵の事なり。この一調子を以(もち)て、いづれの声をも、調(ととの)へ侍るなり」と申しき。
 凡(およ)そ、鐘の声は、黄鐘調なるべし。これ、無常の調子、祇園精舎の無常院の声なり。西園寺の鐘、黄鐘調に鋳らるべしとて、数多度(あまたたび)鋳替へられけれども、叶はざりけるを、遠国(をんごく)より尋ね出だされけり。浄金剛院(じやうこんがうゐん)の鐘の声、また黄鐘調なり。

◇ 伶人:楽人。
◇ 図:図竹。調子笛のこと。
◇ 黄鐘調:おうしきじょう。
「寒・暑に従ひて、上がり下がり有るべき故に」「お釈迦様の入滅された二月十五日の涅槃会から、聖徳太子の命日である二月二十二日の聖霊会までの期間の鐘の音を、基準としているのです」。

 鋭敏な耳の持ち主を以って “伶人” というのか、この兼好法師との分り合いの世界は、すてきである。
「祇園精舎の鐘の声」は黄鐘調の音(ね)であり、黄鐘調の音であってこそ、「諸行無常」と響くことを知った。

土門拳『古寺を訪ねて 斑鳩から奈良へ』小学館文庫
「法隆寺と斑鳩」
金堂にせよ、五重塔にせよ、
振り仰いだときの厳粛な感銘は格別である。
古寺はいくらあっても、
その厳粛さは法隆寺以外には求められない。
それは見栄えの美しさというよりも、
もっと精神的な何かである。
そこに飛鳥を感じ、聖徳太子を想い見る。
いわば日本仏教のあけぼのを
遠く振り仰ぐ想いである。

 法隆寺参拝が決定した。できれば、「涅槃会より聖霊会までの中間」がいい。
 それにしても、「ひとへに風の前の塵に同じ」とは、随分な話である。