「『徒然草』_究竟は理即に等し」

吉田兼好「日、暮れ、道、遠し。我が生、既に蹉陀たり」
2021/07/09

「第百十二段 明日は遠き国へ赴くべし」
兼好,島内裕子校訂訳『徒然草』ちくま学芸文庫
「人間の儀式、いづれの事か、去り難からぬ。世俗の黙(もだ)し難きに従ひて、これを必ずとせば、願ひも多く、身も苦しく、心の暇(いとま)も無く、一生は雑事(ざふじ)の小節に障(さ)へられて、空しく暮れなん。日、暮れ、道、遠し。我が生(しやふ)、既に蹉陀(さだ)たり。諸縁を放下(ほうげ)すべき時なり。信をも、守らじ、礼儀をも、思はじ。この心をも得ざらん人は、物狂(ものぐる)ひとも言へ、現無(うつつな)し、情け無しとも思へ。譏(そし)るとも、苦しまじ。誉(ほ)むとも、聞き入じれ。」

◇ 以下、「現代語訳」です。
「人間が生きている限りしなくてはならない社交儀礼は、どれもしないわけにはいかない。だからといって、世間のしがらみを捨てきれずに、これらのことを必ずしていると、願望も多く、体も辛く、精神的な余裕もなくなって、肝心の一生が、次から次に押し寄せてくる雑事にさえぎられてしまい、空しく暮れてしまう。もう人生が暮れるような晩年になっても、まだ究めようとする道は遠い。自分の人生は、すでに不遇のうちに終わろうとしている。まさに、白楽天の「日、暮れ、道、遠し。我が生(しやふ)、既に蹉陀(さだ)たり」という状況だ。もうこうなったら、すべての縁を打ち捨てるべき時である。私は、約束も、もう守るまい。礼儀も、気にしまい。このような決心が出来ない人は、私のことをもの狂いとも言え。しっかりとした現実感がなく、人情がないと思ってもよい。他人がどんなに私のことを非難しても、少しも苦しくはない。逆に、私のことを褒めてくれても、そんな言葉を聞く耳は持たない。」

(註)「蹉陀」は躓く。転じて好機を失う。挫折する。(兼好法師,小川剛生訳注『新版 徒然草 現代語訳付き』 角川ソフィア文庫)
島内裕子は「徒然草の中でも、最も激烈な段である」と書いている。

 2016/10/15 に「小林秀雄『末期の眼』」と題するブログを書きましたが、その思いはいまも変わりません。
「日、暮れ、道、遠し。我が生、既に蹉陀たり。諸縁を放下すべき時なり」
 P教授の教えにしたがい、身支度を整えます。

TWEET「『徒然草』_信頼に足る確かな「たしなみ」の書」
2021/06/13
 学術的なことは詳らかではないが、私は『徒然草』を「たしなみ」の書である、と一括りに括っている。立居振る舞い然り、美意識然り、教訓また無常感然り、話題は広範におよぶが、それらは皆、信頼に足る確かな「たしなみ」の範疇での出来事である。
全段再読したが、やはり、
◇「第二一九段 四条黄門命せられて云はく」
◇「第二二0段 何事も辺土は」
は面白く、また、
◇「第二一七段 或る大福長者の云はく」
の掉尾は、
「ここに到りては、貧富分(わ)く所なし。究竟(くきやう)は理即(りそく)に等し。大欲は無欲に似たり。」
◆「究竟は理即に等し。」
(「悟りの境地である究竟は、迷いの境地である理即に等しい。」)
との文で結ばれていて、禅語を聞くかのようである。

一昨日の夕方、
◇ 兼好,島内裕子校訂訳『徒然草』ちくま学芸文庫
を注文した。一八0段までを、
◇ 兼好法師,小川剛生訳注『新版 徒然草 現代語訳付き』 角川ソフィア文庫
で読み、そして届き次第、以降を、
◇ 兼好,島内裕子校訂訳『徒然草』ちくま学芸文庫
で読んだ。
 対照すれば、やはり差異はあり、面白く読んだ。そして、西江先生のことを思った。
              
「† 翻訳とは「演奏」である」
西江雅之『「ことば」の課外授業』洋泉社
「言語は互いに「置き換えられる」という話と「翻訳」の話とは大いに違うんです。
 翻訳というのは、ある言語で表現されたことを、意味の上でも形の上でも原文に近い形を保ちながら、ほかの言語に置き換えることです。その置き換えは、制約の中での一種の「演奏」なんです。つまり、本来の文章をいかに訳すかは、翻訳者の腕によるわけです。」(106-108頁)

「翻訳」は「演奏」である。創造的な行為によって、楽譜は音に昇華される。楽譜から逸脱することは許されないが、あとは自由である。自分の裁量で動くことができる。
「翻訳」を「現代語訳」に置き換えて読んでみれば、とそんなことを思いつつ読み継いでいった。

◇ 島内裕子「徒然草の達成と現代」
(兼好,島内裕子校訂訳『徒然草』ちくま学芸文庫 489頁)
は名文です。遠く、私のおよぶところではありません。ぜひ書店で立ち読みしてください、とはいえ、田舎の書店でのこと、書棚には並んでいませんでしたが。
 次は和歌です。