「良寛の書」

荒井魏『良寛の四季』岩波現代文庫
「古筆学の権威として知られる小松茂美さんは」「良寛書の魅力」を、
「独自のものだ、と思います。枯れた、寂(さび)た、わびた風情。言いがたい一つの線の美しさ…。いきなり真似て書いても、こんな字にならない。禅の修行による人間錬成の結果、無欲恬淡(てんたん)に至り得た境地からの自然な流露のままの字です」(126頁)
と述べている。

『墨美 山本空外 ー 書論・各観 1979年7月号 No.292』墨美社 
〈山本空外〉
「良寛和尚のごとき、外見はいかにも平凡のようでも、心は深く永遠の光に照らされている証拠をその墨蹟が物語っている」(55頁)
(「唐の懐素上人といい、わが弘法大師といい」)「良寛の書にしてもそのよさを一語にしていえば、そう(「空」を書くと)いえるようである。いな、極言すれば「空」を書かなければ、未だ書道の門前に立つにすぎないともいえないことはなかろう」(49頁)

〈森田子龍〉
「良寛のあの細い細い線は、中にきりっと厳しい骨というか芯があって、そこから外に無限にはたらき出しています。無限の振幅があってそれが空間を奥行のある生きた世界にしています」(33-34頁)

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「われありと」
「われありと たのむひとこそ はかなけれ ゆめのうきよに まぼろしのみを」(6-7頁)

「易 曰」
「易に曰く、錯然は則ち吉なり」(8-9頁)

「われありと」は、変体仮名で書かれています。学生時代 雲英末雄(きらすえお)先生にずいぶん鍛えられたはずなのですが、いまとなっては…。

「易 曰」では、「錯然は則ち吉なり」と保証された、それぞれの文字の、無邪気にくつろいだ姿が愉快である。絵を見ているかのようで楽しい。良寛の筆の運びに迷いはなく、濃淡もそのままで、なんの衒いもない。興にのって書き、後はふり返らず、といった風情の書である。
 見ていると体が明るくなり、時を忘れ、迷子になる。
 それはたとえば、「渡岸寺(どうがんじ)十一面観音像」,「法華堂 不空羂索観音立像」,また「興福寺 阿修羅像」の前に立ったときと同種の体験である。
 空外先生は、弁栄上人に帰依した、浄土門の人である。書を拝見すれば境地がわかる、悟りの境地にあるか否かは書に表れる、と、こともな気にいっている。日本人では、空海、良寛、慈雲尊者の書を評価している。奇特な人である。
 空外先生については、今年になって知った。出会いは突然やってきた。わしづかみにされ、離れられなくなった。ご縁ということを思う。
 書物のなかには、いまだたくさんの天才たちが潜んでいる。神田神保町界隈が最もあやしい。ご縁が結ばれることを願っている。
 私が良寛の書について書けることは、他愛もないことであり、早速 敗走することにする。
 逃げ足だけは、昔から速かった。