「山本空外『書論・各観_2/2」

一昨夜(2022/02/12)、
◆『墨美 山本空外 ー 書論・各観 1979年7月号 No.292』墨美社 
◇ 山本空外「書論・各観」(28〜39節)
の再読を終えた。「書論序観」,「書道通観」,「書論・各観 」、「三観」の最後をなすものである。

「屋漏痕の如し」(董内直「書訣」、『漢渓書法通解』巻第六、十三丁)。「屋根から雨が漏った「水滴の一点」を書いてこそ「点」にもなる書道」(42頁)とは、いかにも他意なく無作為である。
「点のことを「側」と」いうが、30,31 節では、「いわゆる『永字八法』」の「はじめの「側」点について」、「点之祖」(『書法正伝』巻二、五丁)」から「二十三に限定」し、「側法異勢」(『漢渓書法通解』巻四)「と比較補足し」つつ解説している。が、もとより「細説していけば際限」のないものであり、私の手には負えず走り読みした。

 32 節以降では、「書法」がとりあげられているが、これとて際限のないものであり、山本空外は、もっぱら 六朝(梁)の蕭子雲(486-548)書の「十二法」について述べている。
「点之祖」と同様に「十二法」も走り読みか、と危惧していたが、それは「人間形成に対する十二法」といった内容のもので、興味深く、今回は、立ち止まりつつ、あるいは行きつもどりつしながら、味読した。巷間にあふれている「人生論」とは、品・格、広・深ともに比較の対象にならないものである。

「十二法」とは、「潔・空」,「整・放」,「因・改」,「省・補」,「縦・収」,「平・側」である。かぎ括弧で括った二法は、それぞれ相対・相補の関係を成し、アウフヘーベン(止揚)し、相照らし合って優位にたつものである。
 一例をあげれば、
「『潔・空』二法のうえにはじめて「整・放」の弁証法が生きてくる。「整」と「放」とは対概念ともいえる。また相関概念とまで解してよいであろうか。両者相まって書の生命も躍如たるものがあるようであり、書にかぎらず、われわれの生活一般にしても同様であろう。「放」なき「整」も、「整」なき「放」も生命に乏しく、屍に類する。
(中略)
こうした書体の各画にいたるまでの整合の書風に偏するのを他方に不可として、その解放を説くのが「放」の本意なのである。どこまでも正常に書かんとする「整」の書法ももとより当然ではあるが、といってその形式にとらわれたのでは書の生命は失われるから、「整」への偏執を止揚せんとして「放」が説かれるのである。「放」によってかえって「整」も生かされてくるので、要は書の生命にある」(51頁)

「書論・各観」も、この辺りになると、弘法大師、慈雲尊者、良寛和尚あり、虞世南、武簡縁、張旭あり、カントをはじめ、ハイデッカー、ニコライ・ハルトマン、ルソーあり、と空外先生の筆の運びは伸びやかである。

「『平』等にあらゆる書法の一応出つくしたところに、そのよくできたはずのものがいわばこわれて、そのことによってかえって絶えず生々発展の道を開く書法が『側』なのである。もとよりそのこわし方に問題があり、上手下手もあろう。しかし完成のままではおしまいであり、またそれでは人生、社会を真実にしていくべき人間形成の理念を端的に指示する書法たりうるわけがない。どこからでも万人に万様のままで入りうる通路を用意した書法ではじめて第二第三の進展も考えられるのではないか。閉された書法ではなく、開かれた書法でなくてはならない。かくして永遠の窓のある書法とでもいえるのであろうか。そこに『側』でもって十ニ法を結ぶゆえんをわたくしは思うので、はたして蕭子雲がそこまで考えたかは知る由もなく、また書論各観がかくも人類同様に人間形成の原点を宝蔵するかは問題でもあろうが、わたくし自身は約半世紀にわたってこの方向に精進して、かように確信する。ただここでは論を尽くすことをえず、しかし序観・通観・各観にわたって一角でも述べえたことはありがたく、これをもって三巻を結ぶことにしたい」(56頁)

書道とは大自然のいのちを書くものならば、書が古の永遠のいまの表れならば、そして私たちはそのいのちに生かされているのならば、空外先生を知り、読み、そしていま書いている。いくつかのゆくりなさが重なった。いま一条の光が射している。

◆『墨美「書と生命 一如の世界」<対談> 山本空外 / 森田子龍 1976年12月号 No.266』墨美社
には、良寛の二書が載っている。
◇「二 良寛書 われありと」(拡大)
 「われありと たのむひとこそ はかなけれ 
    ゆめのうきよに まぼろしのみを」
(「み」は「身」の意でした。勘違いしていました。)
◇「三 良寛書 易曰」(拡大)
  「易に曰く、錯然は則ち吉なり。」
 「易曰錯然則吉也
寒暑 善惡 黑白 好醜 大小 智愚 長短 明暗 髙下 方圓(最後の一画ナシ)緩急 増減 浄穢 遅速」
錯然は則ち吉なり」と保証された、「各各」の文字の、無邪気にくつろいだ格好が愉快である。