「荷風散人」
『濹東綺譚』が手元にある。あるというのは、あたためてきたということであり、読んだということではない。荷風との交友はいまだ緒に就いたばかりである。
荷風は、江戸の情緒を求め、下町を歩いた散人であり、けっして高踏的ではない。
◇ 永井永光,水野恵美子,坂本真典『永井荷風 ひとり暮らしの贅沢』(とんぼの本)新潮社
のとびらには、浅草ロック座の楽屋でのことであろうか、四人の裸体の踊り子に取り巻かれ、ご満悦な荷風の写真が載っている。彼女たちは皆若くもなく、美しい姿態の持ち主たちでもない。 「三島由紀夫は『一番下品なことを、一番優雅な文章、一番野蛮なことを一番都会的な文章で書く』と『永井荷風[文芸読本]』の座談会で語っている」(31頁)
(昭和二十年八月六日 広島市へ原子爆弾投下)
「昭和二十年八月初六、陰、S氏広嶋より帰り其地の古本屋にて購ひたる仏蘭西本を示す、その中にゾラのベートイユメーン、ユイスマンの著寺院などあり、借りて読む、」(36頁)
(昭和二十年八月十五日 終戦)
「出発の際谷崎(潤一郎)君夫人の贈られし弁当を食す、白米のむすびに昆布佃煮及牛肉を添へたり、欣喜措く能はず、食後うとうとと居眠する中山間の小駅幾箇所を過ぎ、早くも西総社また倉敷の停車場をも後にしたり、農家の庭に夾竹桃の花さき稲田の間に蓮花の開くを見る、〈以下略〉」(47頁)
「昭和二十二年
一月初八。雪もよひの空くもりて寒し。小西氏の家水道なく炊爨盥漱(すいさんかんそう)共に吹きさらしの井戸端にて之をなす困苦いふべからず。〈以下略〉」
「一月廿一日。晴。北風寒し。井戸端の炊事困苦甚し。」
「二月廿五日。晴れ。今日も暖なり。井戸端の炊事も樹下の食事も楽しくなれり。〈以下略〉」(49頁)
「昭和二十四年六月十五日。晴。〈中略〉帰途地下鉄入口にて柳島行電車を待つ。マツチにて煙草に火をつけむとすれども川風吹き来りて容易につかず。傍に佇立みゐたる街娼の一人わたしがつけて上げませう。あなた。永井先生でせうといふ。どうして知ってゐるのだと問返すに新聞や何かに写真が出てゐるぢやないの。鳩の町も昨夜よんだわ。〈以下略〉」(61頁)
「年は廿一二なるべし。その悪ずれせざる様子の可憐なることそゞろに惻隠の情を催さしむ。」(62頁)
『断腸亭日乗』は「死の前日まで、四十二年間に亘って綴られた」(「序」)荷風の日記である。(「断腸」とは「断腸花(シュウカイドウ)」のことであり、「日乗」とは「日記」の意である)
そっけない短文の連なりから生まれる味わい、言葉、言葉づかいが、荷風が生きた時代(「1917年(大正6年)9月16日から、死の前日の1959年(昭和34年)4月29日まで」)への郷愁を誘う。日記が文学たり得ることを再認識した。これしきの文章に感心したのは、はじめての出来事である。
荷風は、私の、また私たちの「あこがれ」を生きた男性(ひと)、といえるかもしれない。荷風との結縁を大切にしたいと思う。
(昭和二十年八月六日 広島市へ原子爆弾投下)
「昭和二十年八月初六、陰、S氏広嶋より帰り其地の古本屋にて購ひたる仏蘭西本を示す、その中にゾラのベートイユメーン、ユイスマンの著寺院などあり、借りて読む、」(36頁)
(昭和二十年八月十五日 終戦)
「出発の際谷崎(潤一郎)君夫人の贈られし弁当を食す、白米のむすびに昆布佃煮及牛肉を添へたり、欣喜措く能はず、食後うとうとと居眠する中山間の小駅幾箇所を過ぎ、早くも西総社また倉敷の停車場をも後にしたり、農家の庭に夾竹桃の花さき稲田の間に蓮花の開くを見る、〈以下略〉」(47頁)
「昭和二十二年
一月初八。雪もよひの空くもりて寒し。小西氏の家水道なく炊爨盥漱(すいさんかんそう)共に吹きさらしの井戸端にて之をなす困苦いふべからず。〈以下略〉」
「一月廿一日。晴。北風寒し。井戸端の炊事困苦甚し。」
「二月廿五日。晴れ。今日も暖なり。井戸端の炊事も樹下の食事も楽しくなれり。〈以下略〉」(49頁)
「昭和二十四年六月十五日。晴。〈中略〉帰途地下鉄入口にて柳島行電車を待つ。マツチにて煙草に火をつけむとすれども川風吹き来りて容易につかず。傍に佇立みゐたる街娼の一人わたしがつけて上げませう。あなた。永井先生でせうといふ。どうして知ってゐるのだと問返すに新聞や何かに写真が出てゐるぢやないの。鳩の町も昨夜よんだわ。〈以下略〉」(61頁)
「年は廿一二なるべし。その悪ずれせざる様子の可憐なることそゞろに惻隠の情を催さしむ。」(62頁)
『断腸亭日乗』は「死の前日まで、四十二年間に亘って綴られた」(「序」)荷風の日記である。(「断腸」とは「断腸花(シュウカイドウ)」のことであり、「日乗」とは「日記」の意である)
そっけない短文の連なりから生まれる味わい、言葉、言葉づかいが、荷風が生きた時代(「1917年(大正6年)9月16日から、死の前日の1959年(昭和34年)4月29日まで」)への郷愁を誘う。日記が文学たり得ることを再認識した。これしきの文章に感心したのは、はじめての出来事である。
荷風は、私の、また私たちの「あこがれ」を生きた男性(ひと)、といえるかもしれない。荷風との結縁を大切にしたいと思う。