「玄侑宗久『現代語訳 般若心経』ちくま新書_師走に『四国遍路』を渉猟する_1/2」

昨夜(2021/12/19)、
◆ 玄侑宗久『現代語訳 般若心経』ちくま新書
を再読し終えた。
 本書は「般若心経のすゝめ」であり、またその実践法である。
 一切が無化されていくなかで、ひとり「私」が、とり残された格好である。依然障りある身の「私」が、いつまでも残る。「仕立て上げた『私』」は、執拗でありその根は深い。
 意味を問うことなく、誦んじて読む「般若波羅蜜多(心経)」は、「呪文」であり「真言」であり、その声の響きは、「からだ」や「いのち」、はては「宇宙という全体」と直接つながっていると、玄侑宗久さんは説く。そしてまた、「呪文」を「実践」し、よく「持(たも)」つことによって、「仕立て上げた『私』」という殻は「溶融」し、次第に薄くなる、「その薄くなった殻を透かして、私たちは『空』という」「実在」「に気づいてゆく」、という。
 師走も半ばを過ぎ、一条の光明が射した。「命なりけり」である。ひと続きの命の不思議さを思う。
 座右の書となった。座右の書ばかりが増え、身辺が雑然としてきた。うれしい悲鳴である。
◇ 中村元,紀野一義『般若心経・金剛般若経』岩波文庫
◇ 柳澤桂子(著)堀文子(イラスト)『生きて死ぬ智慧』小学館
を味読し、次に進みます。

2022/02/03 追伸:
山本空外先生は、
 「空」とは難かしくいえば「縁起」のことで(竜樹『中論』四)、これを説明して、「無自性の故に空なり、空亦復(またまた)空なり」といわれる(青目、長行釈)。自性がないということを詳論すれば際限もないほどになるが、簡要にいえば、生きられていることへのおかげのことで、何一つ自分のてがらといえるものがないという意味になる。そのことを心に決めて、その覚悟で(書を)書けば「空」を書くことになろう。それでわたくしも南無阿弥陀仏と称名中に揮毫している。(『墨美 山本空外 ー 書論・各観 1979年7月号 No.292』墨美社 49頁)
と書かれている。
『空』とは、「簡要にいえば、生きられていることへのおかげのことで、何一つ自分のてがらといえるものがないという意味になる」と、空外先生は書かれているが、格の違いを感じている。