「山本空外『書論序観』_2/2」
山本空外「書論序観」
『墨美 山本空外 ー 書と書道観 1971年9月号 No.214』墨美社
「僅か竹の一片ではあっても、その一本一本の竹質のさくさ、ねばさ、その他の加減等々を、そう削らなければ削りようもないほど、千変万化する竹質のそれぞれなりに生かしきっていく刀の冴えを拝見するわけである。それも名作は一応光ってはいるものの、その光に照らされるだけでなしに、自ら茶杓を削るなかに体験する悟入にもとづくのが本当のようである。また自ら行じなければ、何事でも半解に終るのではなかろうか。東洋の精神文化が行の文化として深まるゆえんを沈思しなければならない。 小刀と竹一本あっても茶杓は自ら作れるが、そのときただ自分勝手に削ったのでは、どうにもならないので、竹一本一本のもつ各各の性質を生かしきっていけるような刀の冴えかたのできるところに快心の作といえる。刀と竹の自他一如がそうした悟入の心の深さで支えられるわけで、前述の「無二性」にほかならない。あたかも筆と紙があれば書道は行ぜられるが、紙一枚一枚の新古各各の漉きかたにいたるまで生かしきっていく使筆でこそ無二的書道につながるので、その一点一畫の運筆のなかに無二的人間の形成が行ぜられること、茶杓を作る刀ごとにやはり無二的人間の形成が行ぜられるのと同様である。そこを拝見するわけで、席に入って始めに書幅を拝見しても、終りに茶杓の拝見しても、一貫してその作者の無二的人間の形成行に直参するところに本義があるとすれば、拝見する客自身もその拝見を通して無二的人間の形成を行ずるのでなければならない。そこに人生にも取りくめる本義が通ずるので、この本義から外れたのでは「道」でもなく、精神文化でもない。念仏にしても、木魚一つでもあれば、称名の声と木魚を撃つ音と主客一如になるところ、大自然のいのちを呼吸する心境は深まりうるわけで、いわばそうした心境において揮毫する場合にはこの筆、この紙の各各のいのちを生かすことになり、茶杓を作るときには、その竹のいのちを生かす刀の冴えかたが深まるわけである。ところが西洋人には竹の理解乏しく、古来筆紙も南無阿弥陀仏も木魚も考え出せなかった。
一人ひとりが一人ひとりなりに行じて、大自然を一人ひとりなりに生ていく文化、こうした精神文化の粋が書道なので、そこを白紙の上に墨一点にでも決めていくような精神文化は他に類がなかろう。しかし一点一畫の間に大自然のいのちを行じていく、その行の文化の基礎としては、東洋の精神文化として共通するので、そこをわたくしは、西洋思想上の理性法則のように一律に妥当する方面でなしに、一つ一つの出会いを心がけでいかようにも深められる重層立体的な智慧として考える」(12頁)
たとえば、小林秀雄の眼は、山本空外のいう、「その作者の無二的人間の形成行」に向けられていることは承知していたが、さらにその先があるとはおよびもしないことだった。図らずもそれは、「その拝見を通して無二的人間の形成を行ずる」」ことでもあった。そこには双方における「各各」の「行」の形態が認められる。
山本空外との出会いは大きい。
山本空外は、白川静と同様に大きすぎる。
「坐禅や念仏のような三昧方法に出会いえているわれわれの幸せに想到せざるをえない」(5頁)
「念仏にしても、木魚一つでもあれば、称名の声と木魚を撃つ音と主客一如になるところ、大自然のいのちを呼吸する心境は深まりうる」(12頁)
学生時代、
◆ 柳宗悦『南無阿弥陀仏 付・心偈』岩波文庫
◆ 柳宗悦『南無阿弥陀仏 付・心偈』岩波文庫
を読み、印象に残っているが、それ以上の記憶はない。
お念仏を称えることが坐禅に相当する「行」であることをはじめて知った。お念仏の肝要についてはなにも知らずに過ごしてきた、ということである。空外先生の著作を紐解いていくほどに、理解が進むことと思っている。
なお、本ブログは、以下のブログの合作・改訂版である。
◇「紀野一義『山本空外を語る 1/2』_新春に『四国遍路』を渉猟する」
◇「紀野一義『山本空外を語る 2/2』_新春に『四国遍路』を渉猟する」
また両書、
◆ 紀野一義『「般若心経」を読む』講談社現代新書
◆ 紀野一義『「般若心経」講義』PHP研究所
には、いくつかの誤字脱字が見つかった。