木田元「小林秀雄の言語観」

木田元「小林秀雄の言語観」
第十二章 言葉について
木田元『なにもかも小林秀雄に教わった』文藝新書

ランボオの「千里眼」
 ランボオの言語観がそのまま小林秀雄のそれだということにはならないであろうが、その傾倒ぶりからすれば、いちおうそう考えておいてもよいのではなかろうか。(183頁)

 然(しか)し、彼(ランボオ)自身が否定しようがしまいが、彼の「言葉の錬金術」からは、正銘の金が得られた。その昔、未だ海や山や草や木に、めいめいの精霊が棲んでいた時、恐らく彼等の動きに則(のっと)って、古代人達は、美しい強い呪文を製作したであろうが、ランボオの言葉は、彼等の言葉の色彩や重量にまで到達し、若(も)し見ようと努めさえするならば、僕らの世界の至る処に、原始性が持続している様を示す。僕等は、僕等の社会組織という文明の建築が、原始性という大海に浸っている様を見る。「古代の戯れの厳密な観察者」ーー厳密という言葉のマラルメ的意味を思いみるがよい。(同前(「全作品」15『モオツァルト』所収)、一三九ページ)(184-185頁)

『本居宣長』の「言霊」
 小林秀雄は、最後の大仕事『本居宣長』においては、この「古代の戯れ」を「言霊(ことだま)」と呼んでいる。
(中略)
ここでも、宣長の言語感と小林のそれとを区別する必要はあるまい。(187頁)

 言語は、本質的に或る生きた一定の組織であり、この組織を信じ、組織の網の目と合体して生きる者にとっては、自由と制約との対立などないであろう。この事実を、彼(宣長)は、「いともあやしき言霊のさだまり」と言ったのだ……。(同前(「全作品」28『本居宣長(下)』所収「本居宣長補記 Ⅱ」、三0一ページ)
 ランボオが「千里眼」によって透視しようとしていたものも、つまり「原始性」であり、「古代の戯れ」であり、言葉そのものの自己分節であり、自己組織化であるものがそのまま存在の自己分節になり自己組織化になるような、そうした「言葉の錬金術」と、宣長のいう「言霊の営み」とを、小林秀雄が重ね合わせて考えようとしていることは明らかであろう。
 私にはこの小林の言語観と、先ほど見たハイデガーのそれとに深く通い合うものがあるように思えてならないのだ。(188-189頁)


 木田元の手腕はみごとである。核心に分け入るものだった。
 そして、井筒俊彦が、「存在はコトバである」と措定するに到った証左に、思いをいたしたのは、当然の成り行きだった。