「山本空外『書道通観』_1/2」

今日(2022/01/30)の午後、
◆『墨美 山本空外 ー 書と書道観(二)1973年6月号 No.231』墨美社
◇ 山本空外「書道通観」(17〜27節)
を読み終えた。
◆『墨美 山本空外 ー 書と書道観 1971年9月号 No.214』墨美社

◇ 山本空外「書論序観」(1〜16節)
に続く論考であり、「23〜26節」の「筆法・各論」、「執・使・転・用・結」について論じられているが、書道と無縁な私にとっては、とりわけ不分明な内容となっている。

書論序観(『墨美 』第214号)に続いて書論通観の一角を論じていくうえに、古来東洋の書画の手本に、自然に乾いたあら壁の割れ目が力説されるゆえんが想起される。これ西洋文化には類を見ないところである。また古拓の絶品を目前にすると、そうしたあら壁の割れ目に窺える自然のいのちに通う心の開けるのを覚える。おそらくこれ以上の手本もなかろうから、中国書道でも「折(タク)壁の如し」と論断し、(董内直、書訣、『漢渓書法通解』巻第六、十三丁)、わが『本阿弥行上記』にも、「あら壁に山水鳥獣あらゆる物あり(中略)。あら壁の模様をよき手本」云々と強調するのであろうか。簡言すれば自然のいのちともいえるものが筆端に動かなければ、東洋の芸術とはいい難いので、西洋美学に見るような概念化の、その奥に生動するいのちに迫るのが、東洋芸術のいわゆる「自然」なのである。それで全画面を塗りつぶす西洋画と相違して、空白が重視され、いな、時にはそれが画面以上にものをいう東洋画の面目もあるのであろう。書道文化にいたっては西洋芸術史上皆無のゆえんでもある」(2頁)

「空即是色」を思えば、「あら壁の割れ目」は、自然のいのちの発現であり、これに伍することはあり得ても、これに優ることはないだろう。「折(タク)壁の如し」。このような文章に出会うとうれしくなる。

「すでに書祖、後漢の蔡邕が、「書は自然に肇(ハジ)まる」というのにも(蔡邕石室神授筆勢、『書法正伝』巻五、二丁)、そうした裏づけが予想されないであろうか。その肇筆を生かすゆえんの「自然」とは、われわれ一人ひとりが生きられるそのいのちの根源につながるもので、これが筆勢に生動して、はじめて書道が成立することになる。一筆ごとにそのいのちの根源に直通するのでなければならない。また手の動くのも全生命にもとづいてのことであるから、後述のごとく執筆・使筆・転筆・用筆のいたるところに、そのいのちの筆跡が辿られないはずはなかろう」(2頁)

「唯法而任運の『自然に肇まる』」,「自然の妙有に同じ」,「『自然』との主体的一如(無二)」といった、「書論序観」中の言葉が想起される。

「わたくしが唐の孫過庭(648 - 703?)の『書譜』(687)を重視するのも、もとよりその書論が随一であるからではあるが、とはいえ『書譜』そのものの筆跡が書論に相応しているところに決定的価値があるからにほかならない。書けるひとの論であるから傾聴するのであり、書けないひとのは理性的概念論でしかない。すなわちここでの主題の「自然」の圏外になる。花の自然というとき、その咲く花が路傍であろうが、大庭園であろうが、花の自然のいのちに上下のないようなもので、そうした自然のいのちの平等に迫る筆致が東洋書画の原点であろう。これを可能にするゆえんの筆・紙・墨・硯等をもたない、知らない西洋文化においては、それらを通してはじめて生動する墨美の奥行は異質的のようである。(2-3頁)

「『書譜』そのものの筆跡が書論に相応しているところに決定的価値があるからにほかならない」とは、孫過庭の書は伝えられておらず、『書譜』が書論であり、唯一の書ということであろうか。おもしろいといおうか、まだしもだった。


 再読を促されている。再読後に書く予定であったが、「あら壁の割れ目」の話題に感興を覚え、後先が逆になってしまった。再読することによって少しでも理解がすすむことを願っている。
 山本空外は、抜きん出て傑出している。

『墨美』には、さらに以下の一冊があることを知り、注文した。古書である。私の理解をはるかに超えた対談かもしれないが、解らないなりの趣も興趣のうちか、と達観している。
◆『墨美「書と生命 一如の世界」<対談> 山本空外 / 森田子龍 1976年12月号 No.266』墨美社