「山本空外『書論序観』_1/2」

昨夜(2022/01/26)日付が変わるころ、
◆『墨美 山本空外 ー 書と書道観 1971年9月号 No.214』墨美社
◇ 山本空外「書論序観」
の初読・再読を終えた。

 書
道とは、「『自然の妙有に同じ』ところに直参しようとする心がけ」であり、「力運の能く成すところに非ず」。「『自然』との主体的一如(不二)の心境」は、「永遠の今ともいえる『現実』」を「照ら」す、ここに「直入」することが書道といえるが、書論は書道哲学に終わるものではなく、各々が行ずるところに「書論の面目がある」、と空外は注意を換気している。

 空外は書道を語りつつ仏教(主に「念仏」「禅」「般若心経」)におよび、仏教にふれつつ書道を語っている。書道と仏教とが渾然一体となっている。私の空外への関心は、空外の境地が書に表れているという証にある。それは西行の心中と歌との相関と同質のものである。とはいえ、私にそれらが判るはずもないが…。
「書論序観」は、紙数にしてわずか十五頁の作品であり、難解であるが、かといって手放すわけにはいかない。いまだに理解が浅く、概論風な作文も書けずに時を過ごしている。

「書道に達するには、自然のいのちが毫端に脈打つのほかになかろう」(8頁)

「無二的人間の形成が一点一畫に生動していかなければ、書道でもなく、書論も成立するわけがなかろう」(9頁)
「わたくしはこの無二的人間の形成を書論の根底に予想するものの、じつは東洋文化の基本とも考えるので、したがってその線で精神文化の粋としての書道が確立でき」よう。(9頁)

「坐禅や念仏のような三昧方法に出会いえているわれわれの幸せに想到せざるをえない」(5頁)

「定家卿のいはく、我筆道は一也。二聖三賢の跡をもしたはず、両公四輩の風をもねがはず、唯法而任運にして、柳はみどり花はくれなゐ、風雲流水のすがたおのづから不可説の道なれば、我師にあらずといふことなし。我手習にもれたる物なし。」(定家卿筆諫口訣、『続群書類従』第三十一輯下、巻第九一四、雑部六四)(9頁)

「ここで「二聖」とは 嵯峨天皇、弘法大師、「三賢」とは 道風、佐理、行成、両公」とは 法性寺殿、後京極殿、「四輩」とは 文昌、保時、時文、文時、(生没年略)いずれも名だたる名筆なのに、そうした「跡をもしたはず、風をもねがはず、唯法而任運」の「自然に肇まる」ところに直入せんとするのであろう。その場合「柳はみどり花はくれなゐ」というふうに自然を例示するが、柳のみどりを花のくれないに代え難い含蓄は、そこを自然のいのちとして重視すべきである。わたくしはそこを「各各性」と称して、西洋思想の「法則性」に対応するほどの、東洋思想の特色とも考えるのであり、インドの竜樹『大智度論』においても「一切衆生各々の方便門」(巻第三十三)が重視され、わが聖徳太子の『十七条憲法』第十条にも「人皆心有り、心各執れること有り」と力説されるゆえんであるが、今この「柳はみどり花はくれなゐ」について、茶道も畢竟するにこのほかにないことに論及したいのである」(10頁)

「紙上に一点を打っても、全紙面がその点でどのように生かされるかは、滲みやかすれを出す紙質や古さ加減、それに適合する筆に墨の含ませ具合から、その墨の質はもとより新古にもよって好む硯での磨りかたや濃淡にいたるまで、筆者の心の深さに支えられてのことである。かくして第二字目は初字とのまとめのなかに全紙面を生かしていくので、最後までそうした複合的一如をわたくしは、重層立体的な無二性というのである」(10頁)

「自然の妙有に同じ」,「『自然』との主体的一如(無二)」,「無二的人間の形成」,「唯法而任運の『自然に肇まる』,「各各性」,「重層立体的な無二性」、これらが、「書論序観」を成すキーワードになっている。
 掉尾には、「いわば書から血の出るような生きた筆致でこそはじめて書道といえるので」という聞き捨てならない台詞があるが、いのちの輝き、生気に満ち満ちた筆致というほどの意であろうか。空外先生には、脈動や息遣いがはっきり聞こえ、温もりさえ感じられるのだろう。また最後の一文には、「してみればここに空外作品集第一を写真版で上木することは、こうした『血法』のうえでは心残りではあるが」との文句があり、再び驚嘆した。が、ぜひ「空外記念館」を訪れ、この眼で見届けるしかないであろう。