「哲学的信仰」
若松英輔『井筒俊彦―叡知の哲学 』慶應義塾大学出版会
「井筒俊彦が根本問題を論じるときはいつも、実存的経験が先行する。むしろ、それだけを真に論究すべき問題としたところに、彼の特性がある。プラトンを論じ、「イデア論は必ずイデア体験によって先立たれなければならない」(『神秘哲学』)という言葉は、そのまま彼自身の信条を表現していると見てよい」(351-352頁)
井筒俊彦『イスラーム哲学の原像』岩波新書
「要するに、神秘家たちの哲学的立場は、ヤスペルスの表現を使えば一つの「哲学的信仰」(philosophischer Glaube)であります。しかしここまでくれば、どんな哲学もそれぞれの「哲学的信仰」の基礎の上にうち立てられたものといわざるを得ません」(109頁)「信仰」には祈りがある。「神秘哲学」は、宗教、宗派、学派色から袖を分かつものであり、そこに祈りは認められない。かといって、客観的かといえば、客観とは主体の眼がとらえた世界象のことであり、そうともいえない。
しかし、「神秘家たち」を、全人的に仰ぎ信じなければ、論究の端緒につくことさえできない。ここに、「哲学的信仰」という言葉の素地がみられる。
◆ 井筒俊彦『意識と本質』慶應義塾大学出版会
の跋文には、
「一度そっくり己れの身に引き受けて主体化し、その基盤の上に、自分の東洋哲学的視座とでもいうべきものを打ち立てていくこと」(307頁)
との記載がみられるが、「そっくり己れの身に引き受けて主体化」するとは、すなわち井筒俊彦の実存的体験だった。そしてここにいたったとき、「哲学的信仰」という言葉の影は薄くなる。
幾座もが連なる山脈(やまなみ)を踏破するなかで、井筒俊彦はしだいに透きとおっていった。