TWEET「読むということ」

「読む」とは、筆者の文章にしたがって読み継ぐことであり、そこに私情をはさんではならない。また、「読む」とは、筆者の論理の展開を意識して読み進むことであって、いま、目前で繰り広げられている話題を論理の内に位置づけることである。
 こういった訓練が、たとえば学校教育でなされていないから、入試の現代文でつまずくことになる。
 文章には緩急があるので、それに合わせて、ひと息つけばいい。
 英文解釈についていえば、直訳では間に合わず、意訳し、さらにその前後の文の行間を埋める必要が生じる。和訳ができれば終わりかといえば、それを出発点として「解釈」がはじまる。以下は、(日本語で)「読む」ことと同様である。英語(外国語)は、日本語との仲介役をするにすぎない。要は、日本語である。
 活字を厭わず、「読む」ことができれば、自学自習ができる。いまの時代には、インターネットという強力な手段がある。
 ある分野のことについて学ぼうと思えば、Amazon を数回検索すれば、その分野の中枢をなす専門家や専門書を知ることができる。昔は、図書館に行き、司書の人に教えていただき、他所の図書館から取りよせていただくことが多かった。学生時代は、国立国会図書館に通った。地方都市の書店は、壊滅的である。基本的な文献は、手元において、傍線(アンダーライン)を引き、付箋を入れながら読むのがいい。再読の際に圧倒的に有利である。この手間は惜しまない方がいい。(602文字)

 英語を聞き、英語で考え、英語で話すようになると、語彙数の少ない英語で考えることになるので不便だった、と白洲正子が、どこかに書いていたのを思い出す。

「レオ・ヴァイスゲルバーと井筒俊彦の言語観」
「先の引用にあったレオ・ヴァイスゲルバーは井筒俊彦が深い関心を寄せた二十世紀ドイツの言語学者である」(222頁)
「ヴァイスゲルバーは、人間と母語の関係に着目する。母語が世界観の基盤を形成し、誰もこの制約から逃れることはできないことを強調する。すなわち全人類は不可避的に言語共同体的に「分節」されている。人間の基盤を成す共同体はまず、「言語共同体」であることを避けられない。彼はこれを「言語共同体の法則」あるいは「言語の人類法則」と命名し、人類が生存する上での不可避な公理だと考えた」(227頁)

「わざわざ日本語に訳さなくても、英語はそのまま理解すればよいという楽観論は、ヴァイスゲルバーの理解と共に、井筒によって退けられる。外国語を読むとき、それにどんなに熟達していても、人は母語に置き換えて理解している。意識では、横文字を理解しているつもりでも、深層意識では、仮名と漢字、あるいはその元型のイマージュによって、意味を捉え直している、というのが三十数ヶ国語に通じたといわれる井筒自身の言語観である。井筒によれば言葉とは magico-religious な実在に他ならない。magic の訳語も単なる「魔力・魔術」では内包する超越性が表現できない」(241頁)


 いま着々と進行している、英語教育尊重、日本語教育蔑視の教育の愚かさを思う。日本語の確かな「基盤」のないところに、性急なことをしても何もはじまらないことは、火を見るよりも明らかなことである。私たちは、「日本語共同体」の内にあることに思いをいたすべきである。内実をともなわない英語を話せたところで、それはいかほどのものであろうか。
 その非を指摘する有識者は多い。錚々たる面々である。「ゆとり教育」での失態と同じ轍を踏むのは、あまりにも愚かである。いつの時代も犠牲者は子どもたちである。後々 頭を下げれば済むような問題とはわけが違う。(1516文字)