TWEET「達人は」

 達人は足の裏で呼吸をする、という。
 私はいま、「般若波羅蜜多心経」を身体(からだ)の各部、たとえばそれは、額であり鼻の頭であり、臍下丹田、手のひらであって足の裏であり、等々で唱えることを試みている。二百六十二文字ばかりの短いお経とはいえ、誦読中には、どうしても雑念がわき面白くない。頭に「般若心経」に障らせないための方策である。

玄侑宗久『現代語訳 般若心経』ちくま新書
「それでは最後に、以上の意味を忘れて『般若心経』を音読してください」(194頁)
「自分の声の響きになりきれば、自然に『私』は消えてくれるはずです」(198頁)
声の響きと一体になっているのは、『私』というより『からだ』、いや、『いのち』、と云ってもいいでしょう。むろんそれは宇宙という全体と繋がっています」(199頁)

「自分の声の響き」と「私」が和すればいい。
 いま襟足のあたりで、「般若心経」を唱えている。頭の障りがなくて、心地いい。
 頭を使わない練習である。が、やはり、最終的には、「達人は」ということになるのかもしれない。(444文字)