山本空外「木魚のある風景」
「智慧第一」と呼ばれた法然上人は、ひとり、気候の厳しい比叡山の元黒谷で、18歳から43歳までの 25年間にわたって、あらゆる仏典を繰り返し読まれ、「大小乗の全仏教を体系化して」,「ナムアミダブツと一息でいえる」,「念仏の一語にしぼり込んだ」。
「南無阿弥陀仏」とは、サンスクリット語の音訳であり、「ナム」とは「帰命・帰依する」ことを意味し、「ア」は「ない」,「ミタ」は「計算する」の意である。
空外先生は,「南無阿弥陀仏」を「いのちの根源」とか「永遠の智慧」,「大自然の智慧」と換言されることが多い。
「ナムアミダブツ」は、外来語であり、空外先生が横書きで書かれた書があるが、上手くまとまっていて、すっきりとした印象を受ける。
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『墨美 山本空外 ー 書論・各観 1979年7月号 No.292』墨美社
「たとえば良寛和尚(1757-1831)のごとき、その書は禅僧として随一のこと周知のとおりであるが、さすがにいのちの根源ともいうべき阿弥陀仏と一如の生活に徹していたのであろう。道詠にも、 草の庵ねてもさめても申すこと 南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏
不可思議の弥陀の誓ひのなかりせば 何をこの世の思ひ出にせむ
我ながら嬉しくもあるか弥陀仏の いますみ国に行くと思へば
などがある。これは曹洞宗の禅僧としては、むしろ当然でもあるというのがわたくしの見解でもある」(39頁)
「良寛とともに、弘法大師(774-835)・慈雲尊者(1718-1804)の書も併載されたが、じつにやはりいのちの生動するところ、大師にも
空海が心のうちに咲く花は 弥陀よりほかに知るひとぞなし」
という道詠があるとおり、その花が書として形相をあらわしたわけで、いのちの根源としての阿弥陀との一如に根ざすとしか思えない」(39頁)
思えば空外先生が、「宗派仏教」という、小さな狭い枠内に住していたはずがない。
不可思議の弥陀の誓ひのなかりせば 何をこの世の思ひ出にせむ
我ながら嬉しくもあるか弥陀仏の いますみ国に行くと思へば
などがある。これは曹洞宗の禅僧としては、むしろ当然でもあるというのがわたくしの見解でもある」(39頁)
「良寛とともに、弘法大師(774-835)・慈雲尊者(1718-1804)の書も併載されたが、じつにやはりいのちの生動するところ、大師にも
空海が心のうちに咲く花は 弥陀よりほかに知るひとぞなし」
という道詠があるとおり、その花が書として形相をあらわしたわけで、いのちの根源としての阿弥陀との一如に根ざすとしか思えない」(39頁)
思えば空外先生が、「宗派仏教」という、小さな狭い枠内に住していたはずがない。
伊勢にまかりたりけるに、大神宮にまゐりて詠みける
榊葉(さかきば)に心をかけん木綿(ゆう)しでて
思へば神も仏なりけり
何事(なにごと)のおはしますをば知らねども
辱(かたじけな)さの涙こぼるゝ
榊葉(さかきば)に心をかけん木綿(ゆう)しでて
思へば神も仏なりけり
何事(なにごと)のおはしますをば知らねども
辱(かたじけな)さの涙こぼるゝ
西行は宗教についてもまた自由な考えをしていた。辱く思い、数寄心にかなうことがすべてであった。西行が到達した地平は「真空妙有」であると理解している。
私についていえば、「南無阿弥陀仏」は哲学としての宗教であり、彼此を勧誘しようという気持ちは微塵もない。私はただ西行に倣っているだけの話である。
司馬遼太郎『この国のかたち 五』文春文庫
「古神道には、神から現世の利をねだるという現世利益(げんぜりやく)の卑しさはなかった」(11頁)
私もまた、神仏に、「現生利益」を「ねだる」ことをやめた。
墨美 山本空外 ー 書と書道観 1971年9月号 No.214』墨美社
「念仏にしても、木魚一つでもあれば、称名の声と木魚を撃つ音と主客一如になるところ、大自然のいのちを呼吸する心境は深まりうるわけで」ある。(12頁)「いま『木魚のある心象風景』を思っている。
知恩院を訪ね、参拝、墓参後、購入しようと考えている」
と、書いたのは、2022/02/14/ のことだった。しかし、知恩院詣はいつになることやら、また行くともかぎらない。買うならば、早い方がいいだろうと思い直し、2022/02/19 に「知恩院 オンラインショップ」で、
◇「木魚セット」(木魚 本楠4号、布団 紫、バイ)
◇「知恩院限定 お念珠」(男性向け、縞黒檀索引、親玉トラメ石)
◇「知恩院限定 知恩香」(極上沈香、桐箱入り)
を注文した。
なお、「般若波羅蜜多心経」読誦用の「真言宗」のお念珠は、2022/05/13 に、「滝田商店」さんのものを購入した。
木魚、お念珠ともに、伝統工芸品としての品格がある。
はじめて木魚をうった際には、ご近所をはばかって、そっとたたいた。いまでこそ普通に「ポクポク」しているが、「撃つ」とはいえず「打つ」程度であり、それも最後の十念にかぎってのことである。気づかいは無用とは思うが、配慮が先に立つ。
「ナムアミダブツ」を唱えることは心地よく、いつ切りにしようか、と思うほどである。「般若心経」と異なり、「一息でいえる」「六字名号」の優位さを実感している。
問題は、「ポクポク」も満足にできない、卑屈な自分にある。
龍飛水編『いのちの讃歌 山本空外講義録』無二会
『略選択(りゃくせんじゃく)』で、法然上人は「速欲離生死(『速(すみ)やかに生死(しょうじ)を離れんと欲(おも)わば」と書かれている。
それについて空外先生は、
「仏教とは、宗教とは、生死を離れるということです。サトルことです。
(中略)
すみやかに生死を離れること、『速欲離生死」この五文字で仏教はまとまり、サトレルと決まっているのに、それが今までわからないのは、本当に『選択集(法然著『選択本願念仏集』)』を読んだ方がおられなかったからでしょう。」(566-567頁)
と述べられています。
「生死離れる」とは、「生」もなく「死」もなく、見渡せば「いのち」ばかり、「空」ばかりの世界だと理解している。
それに続けて、空外先生は、
「極楽に往生したのを、『往った』というのだから、過去のことかというと違う。(中略)こうして話をしている『今』のことです。お経は『今』のことしか考えない。仏教に限らず宗教はみなそうです」(573頁)
と話されている。
仏教に対する、宗教に対する認識を新たにした。新たにしたならば、「サトル」ほかないだろう。
しかしそれ以前に、私にはまず解決しなければならない、「ポクポク」の問題がある。最重要の懸案である。