河合隼雄『明恵 夢を生きる』京都松柏社_幾度目(いくたびめ)かの

 夢分析とは特別に訓練を積んだ専門家だけに許される行為であり、素人が安易に手を出せるような分野ではない。夢のなかでは、もの・ことが象徴化されて現れるのが一般的であり、分析家には相応な目配り、連想、想像力が要求されることを実感している。
 河合隼雄の、今回の明恵上人の夢分析に関しては、河合は事前に明恵の生涯を知悉しており、もし河合が明恵と同時代に、明恵につき添う形で、逐次 夢を分析したならば、また違った格好になったことが予想される。しかし、私たちが知りたいのは明恵の生涯と、人生と夢との交錯であり、その意味においては、河合が後世に、明恵の夢を分析したことは、確からしく、明らかで、安心して読み継ぐことができた。
「彼(明恵)は世界の精神史においても稀有と言っていいほどの大きい資産をわれわれに残してくれた。それは、彼の生涯にわたる膨大な夢の記録(『夢記(ゆめのき)』)である」(7頁)
「明恵は十九歳より夢の記録を書きはじめ、(六十歳で)死亡する一年前までそれを続けた」(8頁)
 明恵が十九歳にして、『夢記』を書きはじめたのは、明恵が夢を招いたのか、それとも明恵が夢に招かれたのか。招かざる客ならば、厚遇されることはなかっただろう。明恵が夢に招かれたことに、私は彼の天才をみる思いがする。論拠はなく、文学的な表現に終始するばかりであるが、私にはそのような気がしてならない。
 234頁には、
「これらの夢体験に続いて承久二年(一二二0)、明恵の夢は爆発的に発展し、頂点に達する感があるが」
との表現がみられる。明恵 48歳のときのことである。
 明恵の境地と夢は、並行して矢継ぎ早に拓かれていく。
上田三四二が『明恵は一個の透体である。彼はあたうかぎり肉体にとおい』と適切に表現したような存在へと、(明恵は)徐々に近づいてゆくのである」(275頁)
 明恵の美しさばかりに眼が魅かれる。人はこれほど美しくあることができるのかと、読むたびに思う。

 一個の孤高の清僧が誕生するための、内的な困難を、危機を、やはり思う。幾度目かの読書だったが、こうしているいま、ふらふらし、心もとないが、解らないままに悠然としていることに決めた。