「誤読と創造的誤読と」
梅田望夫,茂木健一郎『フューチャリスト宣言』ちくま新書
茂 木 (前略)へんな人も確かにたくさんいるんだけど、そのへんなベクトルの向く先が人によって皆違う。村上春樹さんが、「僕の作品は誤読の集合」と書かれていた、と(梅田望夫さんは)おっしゃっていましたが、一個一個つきあっていくと大変なんだけど、全部集めてみると、ある姿を取り始めますよね。(143頁)
本の読み方には、人となりが出て、著者の手の届かない、「あなたまかせ」の世界であることは容易に想像がつくが、共通項としての「ある姿」とは、作者の意思と似通ったものになるのだろうか。 興味の尽きないところである。「読む」ことには、やはり訓練が必要である。
「読む」と「書く」
若松英輔『生きる哲学』文春新書
「また、井筒(俊彦)は「読む」ことの今日的意義にふれ、次のように語っている。
厳密な文献学的方法による古典研究とは違って、こういう人達の読み方は、あるいは多分に恣意的、独断的であるかもしれない。結局は一種の誤読にすぎないでもあろう。だが、このような「誤読」のプロセスを経ることによってこそ、過去の思想家たちは現在に生き返り、彼らの思想は溌剌たる今の思想として、新しい生を生きはじめるのだ」(255頁)
若松英輔『井筒俊彦―叡知の哲学 』慶應義塾大学出版会
「バルトの『読み』はときに、正確でないばかりか、強引に過ぎると思われることもある。だが、そこに不備と不徹底を見出すだけなら、この特異の文筆家が発見した鉱脈を見失ってしまう。恣意的であり、また、偶然性に導かれた『誤読』は、かえって意味の深みへと私たちを導くこともある、と井筒(俊彦)はいうのである」(218頁) 読むことによって、創造力がかきたてられる。そして、その誤読としての創造は、読み進めるにしたがって、裏打ちされ、確固たるものになるのだろう。「創造的誤読」とは、天才同士にみられる、稀有で、幸福な交感である、といえよう。