「誤読と創造的誤読と」

梅田望夫,茂木健一郎『フューチャリスト宣言』ちくま新書 
茂 木 (前略)へんな人も確かにたくさんいるんだけど、そのへんなベクトルの向く先が人によって皆違う。村上春樹さんが、「僕の作品は誤読の集合」と書かれていた、と(梅田望夫さんは)おっしゃっていましたが、一個一個つきあっていくと大変なんだけど、全部集めてみると、ある姿を取り始めますよね。(143頁)

 本の読み方には、人となりが出て、著者の手の届かない、「あなたまかせ」の世界であることは容易に想像がつくが、共通項としての「ある姿」とは、作者の意思と似通ったものになるのだろうか。 興味の尽きないところである。「読む」ことには、やはり訓練が必要である。


「読む」と「書く」
若松英輔『生きる哲学』文春新書
「また、井筒(俊彦)は「読む」ことの今日的意義にふれ、次のように語っている。
 厳密な文献学的方法による古典研究とは違って、こういう人達の読み方は、あるいは多分に恣意的、独断的であるかもしれない。結局は一種の誤読にすぎないでもあろう。だが、このような「誤読」のプロセスを経ることによってこそ、過去の思想家たちは現在に生き返り、彼らの思想は溌剌たる今の思想として、新しい生を生きはじめるのだ。」(255頁)

「文中の「こういう人達」とは、先の(ロラン・)バルト(フランスの現代思想家、1915〜1980)やジャック・デリダ(1930〜2004)といった、「読む」こと自体に哲学的な意味を見出したヨーロッパの現代思想家を指す。
(中略)
 伝統的な古典のテクスト注解のような文献学的に正しい読み方の探究とは別に、創造的誤読とも呼ぶべき営みがある、と井筒は言う。そればかりか、「誤読」によってこそ、歴史に刻まれた叡智は、今によみがえるというのである。」(255頁)

 それは著者の手柄か、読者の手柄か。それとも相乗効果か。いずれにせよ、「創造的誤読」とは、読者に用意があっての椿事である。

若松英輔『井筒俊彦―叡知の哲学 』慶應義塾大学出版会
 「バルトの『読み』はときに、正確でないばかりか、強引に過ぎると思われることもある。だが、そこに不備と不徹底を見出すだけなら、この特異の文筆家が発見した鉱脈を見失ってしまう。恣意的であり、また、偶然性に導かれた『誤読』は、かえって意味の深みへと私たちを導くこともある、と井筒はいうのである。」(218頁)

 誤読としての創造は、読み進めるにしたがって、裏打ちされ、確固たるものになるのだろう。「創造的誤読」とは、稀有で、幸福な交感である、といえよう。