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「辰濃和男『歩き遍路―土を踏み風に祈る。それだけでいい。』海竜社_師走に『四国遍路』を渉猟する」

一昨日の夕刻すぎ、 ◆ 辰濃和男『歩き遍路―土を踏み風に祈る。それだけでいい。』海竜社 を読み終えた。  たくさんの言葉に接し消化不良を起こしている。  「土を踏む」ことと「風に祈る」こと、それだけでいいというのは、その二つの単純な動詞さえ大切にすれば、あとのことは重要であっても最重要ではない、という意味だ。 「土を踏む」、つまり日々、歩くことをつづければ、どんな御利益があるだろう。  まず、野生をよみがえらせることができる。いいかえれば、生命力が強くなる。  自立心がます。楽天的な思いが湧く。なにごともセーカイセーカイダイセーカイ(正解正解大正解)だと思う。おろかで、欠点だらけの自分に出あうことができる。へんろ道は己の「魔」を照らす「照魔鏡」である。  そして、人との大切な出あいがある。  たくさんのお接待をいただき、手をあわせる。感謝をする。そのことが、人間が生きるうえでの基本だということを知る。  感謝はさらにひろがる。大自然の営みへの感謝がある。  大自然の営みに感謝する祈り ー それこそが「風に祈る」ということだ。私の体験のなかでは、「土を踏む」ことが「風に祈る」ことにつながり、「風に祈る」ことが「土を踏む ことをさらにうながしている。(337頁)  「土を踏む」という言葉が、何百万年前の太古にさかのぼるのに対して「風に祈る」という言葉は一輪の花から宇宙空間にまでひろがってゆく。「風に祈る」の「風」は、風そのものだけではなく、空・風・火(光)・水・地という宇宙を象徴する言葉の代表選手として使っているつもりだ。  究極の祈りは、宇宙の営みへの感謝の祈りである。(「あとがき」341頁)  へんろ道は「祈りの空間」である。 (「あとがき」340 頁) ◆ 高群逸枝著 ,堀場清子校註 『娘巡礼記』岩波文庫  「高群は出かける前「道の千里をつくし、漂泊の野に息(いこ)はばや」と書いている。  高群が四国を回ったのは一九一八年で、二十四歳のときだった。六月から十月までの長い旅である。当時のへんろ道では、「山で若い女が殺されたり、姦(おか)されたり」することがあるという噂話もあった。しかし高群は書く。「でも構はない。生といひ死といふ、そこに何程の事やある」という意気込みだった。  顔や手足に虫が這う草むらで野宿をする。小川のそばに毛布を敷いて寝る。テントも寝袋もない野宿

「師走に『四国遍路』を渉猟する_大なる脇道」

昨夜、 ◆ 小林秀雄『人生について』角川文庫 ◇「私の人生観」 を読み終えた。一読後、間をおかずに再読した。  幾度か目を通したお馴染みの文章であるが、いまだに釈然としない内容もあり、それは後日を期すほか ないだろう。  本評言は、講演の記録であるが、小林秀雄は講演の逐語録の出版を許さず、その後、推敲・加筆されたものである。「私の人生観」という軽薄な「課題」は、主催者の意向であり、小林秀雄は、仏教のいう「観」「観法」から話をはじめ、そ知らぬ顔をしている。  画は、何にも教えはしない、画から何かを教わる人もない。画は見る人の前に現存していれば足りるのだ。美は人を沈黙させます。どんな芸術も、その創り出した一種の感動に充ちた沈黙によって生き永らえてきた。どの様に解釈してみても、遂に口を噤むより外はない或るものにぶつかる、これが例えば万葉の歌が、今日でも生きている所以である。つまり理解に対して抵抗して来たわけだ。解られて了え ばおしまいだ。解って了うとは、原物はもう不要になるという事です。 (中略) 俳句ぐらい寡黙な詩形はない、と言うより、芭蕉は、詩人にとって表現するとは黙する事だ、というパラドックスを体得した最大の詩人である。 (中略) 現代小説に関して、評家達は、思想性が足りぬとか仮構性が足りぬとかいろいろの註文をつけている様ですが、私が強いて註文をつければ、沈黙が一番足りまいと言うでしょう。 (中略) 言霊を信じた万葉の歌人は、言絶えてかくおもしろき、と歌ったが、外のものにせよ内のものにせよ、言絶えた実在の知覚がなければ、文学というものもありますまい。 (54-55頁)  いったん沈黙に捕えられるや、ただ茫然と立ち尽くすばかりである。時間の、また空間の所在が曖昧になる。沈黙が私を拐(さら)ってゆく。自足した、充ちたりたときに身を委ねる。  最近では、このような至福のときを求めて、旅をし、また読書を重ねている。 「観」「観法」から敷衍された多くの話題は、それぞれが皆独立した作品のテーマとなるような、深刻な題材ばかりであり、小林秀雄はこ れらを私たち読者に預けるような格好で展覧した。  一時(いっとき)に多くのものを負ったように感じている。 次回は、 ◆ 辰濃和男『歩き遍路―土を踏み風に祈る。それだけでいい。』海竜社 である。三巡目の「四国遍路」である。

「辰濃和男『四国遍路』岩波新書_師走に『四国遍路』を渉猟する」

昨夕、 ◆ 辰濃和男『四国遍路』岩波新書 を、二回目の接種後に読み終えた。二巡目の読書だったが、多少のことを思い出すにすぎなかった。 「へんろ道」は生と死、死と再生の交錯する道である。「はぐれびと」たちの行き交う道である。  辰濃さんが、千数百キロメートルを、七十一日かけて歩いた道であり、本書は多くの話題から成っている。  「出あったときが別れだぞ」  松原泰道師は父の祖来和尚からそう教えられたという。(中略)泰道師は一期一会(いちごいちえ)について書いている。「一期は人間の一生、一会はただの一度の出会いです。これほど「一」の肅然としたたたずまいを感じる語は、他に類例をみません。(『禅語百選』祥伝社、一九八五年)(43頁)  陳腐に成り下がった語が息を吹き返した。これは、 「それ(戦国武将がのぞんだ茶会)は自分が死んでゆくことを自分に納得させる、謂ってみれば死の固めの式であった」(175頁) 井上靖『本覚坊遺文』講談社文芸文庫  でも経験した。  自省・自責・自虐の言葉には嫌気がさした。文章の品位を失する。もうやり過ごした時節のことであり、 「そんな方法では、真に自己を知る事は出来ない、さういふ小賢しい方法は、むしろ自己欺瞞に導かれる道だと言えよう。」(小林秀雄『人生について』角川文庫 36頁) と、いまは確信している。  空海は、 「吾れ永く山に帰らん」 と言い遺している。 原始 の森、いのちの息吹き、 太古の闇。 いま、「石鎚の霊峰」がしきりに気になる。 「澗水(かんすい) 一杯 / 朝(あした)に命(めい)を支え / 山霞一咽(さんかいちいん)/ 夕に神(しん)を谷(やしな)ふ」(朝には清らかな水を飲んで命を支え、夕には山の気を吸って霊妙な精神を養う)(9-10頁) 「高野往来」 以降、四国路がにわかに迫ってきた。 以下、「 辰濃和男『四国遍路』岩波新書_ まとめて」です。 ◇ 「地下足袋で歩きながら、つらつらと」私のへんろ道です。 ◇ 「地下足袋で歩きながら、つらつらと」動詞を大切にする。 ◇ 「地下足袋で歩きながら、つらつらと」履く ◇ 「地下足袋で歩きながら、つらつらと」再会 ◇ 「地下足袋で歩きながら、つらつらと」セエーカイセエーカイダイセエーカイ この項はこれくらいで勘弁していただき、 「読む」を「書く」に優先させていただくことにする。 手にするや、

「師走に『四国遍路』を渉猟する_『般若心経』邦訳 二篇」

◆ 中村元,紀野一義『般若心経・金剛般若経』岩波文庫 「一、右頁(偶数頁)上段に玄奘訳の『般若波羅蜜多心経』の文をのせ、その下側に漢文の書き下しを記した。この訳が日本では古来最もよく知られ、読まれているからである。さらにその内容をよりよく理解するために、サンスクリット原典からの邦訳を左頁(奇数頁)にのせ、漢文訳と対照させてある。はじめて仏教の経典を眼にするという方には、まず、左頁のみを読み通されるようおすすめする。」(「凡例」9頁)  正統な最も信頼に足る「漢訳」,「書き下し文」であり、「 サンスクリット原典」であり、またその 「邦訳」である。それは枯淡の美をみるかのようだった。「サンスクリット原典( 般若波羅蜜多心経の内実 )」と精緻な「邦訳」との相乗効果からなる美の展覧はみごとだった。  もちろん詳細な「註」も付されている。  ただし、「はじめて仏教の経典を眼にするという方には」、敷居が高く、他の解説書から入ることをお薦めします。 ◆ 柳澤桂子(著)堀文子(イラスト)『生きて死ぬ智慧』小学館 ひとはなぜ苦しむのでしょう…… ほんとうは 野の花のように わたしたちも生きられるのです もし あなたが 目も見えず 耳も聞こえず 味わうこともできず 触覚もなかったら あなたは 自分の存在を どのように感じるでしょうか これが「空(くう)」の感覚です  お釈迦様の気づかれたことは科学的にも正しいことで、わたしたちの認識のほうが間違っているのだと思います。そこに苦しみが生まれます。  般若心経が教える空(くう)について、科学的に理詰めで書くことはできます。 しかし、科学的である以前に、もっと崇高に歓喜を込めて、さとりの喜びを表現したい。  この仕事は、わたしにとって天から命ぜられたもののようにも感じられました。 ◆ 中村元,紀野一義『般若心経・金剛般若経』岩波文庫 を読み、続けて、 ◆ 柳澤桂子(著)堀文子(イラスト)『生きて死ぬ智慧』小学館 を読んだ。読む順序を誤った。饒舌ぶりばかりが目についた。それは、 ◆ 中村元,紀野一義『般若心経・金剛般若経』岩波文庫 の陰に霞んでしまった。  しかし、柳澤桂子さんが、「般若心経」にとらわれることなく、自由に書いた「あとがき」は秀逸である。ぜひ、「あとがき」に触れてみてください。わずか三頁ばかりの内容です。立ち読みで間に合います。

「玄侑宗久『現代語訳 般若心経』ちくま新書_師走に『四国遍路』を渉猟する_1/2」

昨夜、 ◆ 玄侑宗久『現代語訳 般若心経』ちくま新書 を再読し終えた。  本書は「般若心経のすゝめ」であり、またその実践法である。  一切が無化されていくなかで、ひとり 「私」が、とり残された格好である。依然障りある身の 「 私」が、いつまでも残る。 「仕立て上げた『私』」は、執拗でありその 根は深い。  意味を問うことなく、誦んじて読む「般若波羅蜜多(心経)」は、「呪文」であり「真言」であり、その声の響きは、「からだ」や「いのち」、はては「宇宙という全体」と直接つながっていると、玄侑宗久さんは説く。そしてまた、「呪文」を「実践」し、よく「持(たも)」つことによって、「仕立て上げた『私』」という殻は「溶融」し、次第に薄くなる、「その薄くなった殻を透かして、私たちは『空』という」「 実在」「に気づいてゆく」、という。  師走も半ばを過ぎ、一条の光明が射した。「命なりけり」である。ひと続きの命の不思議さを思う。  座右の書となった。座右の書ばかりが増え、身辺が雑然としてきた。うれしい悲鳴である。 ◇ 中村元,紀野一義『般若心経・金剛般若経』岩波文庫 ◇ 柳澤桂子(著)堀文子(イラスト)『生きて死ぬ智慧』小学館 を味読し、次に進みます。 2022/02/03 追伸: 山本空外先生は、  「空」とは難かしくいえば「縁起」のことで(竜樹『中論』四)、これを説明して、「無自性の故に空なり、空亦復(またまた)空なり」といわれる(青目、長行釈)。自性がないということを詳論すれば際限もないほどになるが、簡要にいえば、生きられていることへのおかげのことで、何一つ自分のてがらといえるものがないという意味になる。そのことを心に決めて、その覚悟で書けば「空」を書くことになろう。それでわたくしも南無阿弥陀仏と称名中に揮毫している。(『墨美 山本空外 ー 書論・各観 1979年7月号 No.292』墨美社 49頁) と書かれている。 『空』とは、「 簡要にいえば、生きられていることへのおかげのことで、何一つ自分のてがらといえるものがないという意味になる」と、空外先生は書かれているが、 格の違いを感じている。

「師走に『四国遍路』を渉猟する_『般若心経』」

一昨日、 ◆ 玄侑宗久『現代語訳 般若心経』ちくま新書 を読んだ。本書は「般若心経のすゝめ」であり、またその実践法だった。真摯な好感のもてる内容だった。 わずか 262字ばかりの「般若心経」を二日がかりで覚えた。記憶力の衰えに愕然としている。 小林秀雄『人生について』中公文庫 「年齢のせいに違いないが、年をとっても青年らしいとは、私には意味を成さぬ事とも思われる。」(177頁) 岡潔『春宵十話』 「情操が深まれば境地が進む。これが東洋的文化で、漱石でも西田幾多郎(にしだきたろう)先生でも老年に至るほど境地がさえていた。」(36頁) 「般若心経」は、「歓喜の歌」である。 身体(からだ)が明るくなった。  詳細は再読後とさせていただきます。

「師走に『四国遍路』を渉猟する_結構な寄り道篇」

 還暦を過ぎ訃報に接することが多くなった。家柄、それらは、「日蓮正宗」の儀に則って行われることが多く、読経中には、お経( 法華経)本の字面を眼で追っている。  渉猟するに当たり、近くを通りかかったのでたち寄った。結構な寄り道だった。 ◆ 紀野一義『「法華経」を読む』講談社現代新書 を、昨日の午前中には、二回通り読み終えた。  とかく、「私事(わたくしごと)」が多く、「私」が先陣を切って走っているのは、いかがなものだろうか。  また、 「岡潔先生が言っていたが、芸術作品を理解するやり方は、信解(しんげ)、情解(じょうげ)、知解(ちげ)という順だそうである。  たとえば、良寛の書いた『天上大風』という字を見ていると、何だかよく分らないけれども、これは真正のものだとすぐに信じてしまう。これが「信解」というものだという。  次に、見ていると、気持がよくなり、すがすがしくなり、大らかになる。これが「情解」というものだという。  あくる日になると、風が左から右に吹いているのだなということまで分るようになる。これが「知解」だというのである。  岡潔先生は、この「信解」の出所として、道元の『正法眼蔵』恁麼(いんも)の巻であると明記しておられた。  やはり一流の人というものは眼の付けどころが違っている。道元のこの言葉を、あっというまにそんな風に理解してしまったのは岡潔先生ひとりである。」(159-160頁) といった、あまりにもたくさんの話題から成り、それらはそれで興味深いが、「新書サイズ」の、過不足のない、「法華経」を展開していただきたかったと思う。学生時代には、これらの豊富なエピソード(「エピソード 法華経」)に魅かれて読んでいたのであろうが…。 先に読んだ、 ◆ 川崎一洋『弘法大師空海と出会う』岩波新書 は、意を尽くし、至極真面目であった。  それに対し、本書の内容は、饒舌に過ぎた、講演の筆記録のような風合いのものだった。  久しぶりに宗教色一色に染まった。  ひき続いて、午後には、「道の駅 藤樹の里  あどがわ」近くに位置する、「近江聖人 中江藤樹記念館」で、 2021/11/16 に 購入した、 ◆ 内村鑑三著,稲盛和夫監訳『代表的日本人』講談社 ◇「上杉鷹山」 ◇「中江藤樹」 ◇「日蓮」 を読んだ。 「小林秀雄『正宗白鳥の作について』より_人物編(中編)」 2018/07

「富嶽遥拝の旅_小夜の中山_たなびく雲」

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晴れると信じていた。疑う余地は微塵もなかった。 2021/12/09 いまだ明けやらぬころ出立した。 ◆「EXPASA 浜名湖」  ひと眠りし、目を覚ますと、雲ひとつない青空が広がっていた。湖面は静まり、冬の陽光を反射して、まぶしかった。対岸には舘山寺温泉が見晴らせた。 観覧車の半円が小高い山の上から顔をのぞかせ、また一方の頂では、「浜名湖オルゴールミュージアム」がたたずんでいた。  幾度もお邪魔した 「ホテル 九重」 さんから見た景色を、ちょうど反対の位置に立って望んでいる格好だった。  2021/10/31 をもって、「ホテル 九重」さんは、営業を終了した。もう新たな思い出を紡ぐことはできず、過去の思い出だけが残された。  陽だまりのベンチに座り、去来する思いに身をまかせていた。 ◆「道の駅 掛川」  駅内の「山の坊」さんで、「遠州そば」と「自然薯とろろ汁」をいただいた。 ◆「小夜の中山」  再訪だった。前回は、2021/09/29 に訪れている。 「2021/09/29_富嶽遥拝」    あるべきはずの富士の嶺(ね)が見当たらず、あわてた。しばらくすると頂上の一角が見えはじめた。山全体をすっぽり覆っていた白雲が南西の風に吹かれ、右から左へとゆっくり動いていた。棚びく雲の切れ切れから、頂上が姿を現しはじめた。想像以上に雄大だった。その雄姿は神々しかった。 「2021/12/09_富嶽遥拝」   二時間ばかり見つめていたが、たなびく雲は間断なく続き、晴れわたることはなかった。 この夏、 ◇ 小林秀雄『モオツァルト・無常という事』 新潮文庫 ◆「西行」 を読み、 ◇ 白洲正子『西行』新潮文庫 を読んだ。 「「彼(西行)は、歌の世界に、人間孤独の観念を、新たに導き入れ、これを縦横に歌い切った人である。孤独は、西行の言わば生得の宝であって、出家も遁世(とんせい)も、これを護持する為に便利だった生活の様式に過ぎなかったと言っても過言ではないと思う。」(小林秀雄「西行」100頁) 「『山家集』ばかりを見ているとさほどとも思えぬ歌も、『新古今集』のうちにばら撒(ま)かれると、忽(たちま)ち光って見える所以(ゆえん)も其処にあると思う。」(小林秀雄「西行」91-92頁) 「  風になびく富士の煙の空にきえて行方も知らぬ我が思ひかな  これも同じ年(西行 69歳)の行脚のうちに詠

「川崎一洋『弘法大師空海と出会う』岩波新書_師走に『四国遍路』を渉猟する」

一昨日の夕方、 ◆ 川崎一洋『弘法大師空海と出会う』岩波新書 が届いた。一番乗りだった。今回注文した七冊の書籍のなかで最も注視していた本だった。  一昨夜拾い読みし、昨夜読み終えた。 昔日の「岩波新書」のよき伝統を継ぐ渾身の書だった 。  川崎一洋の実力を知った。 川崎の導きによって空海との出会いを果たした。この先のことは、私次第、あなた任せの世界である。  来春新緑が芽吹くころ、高野山を、また東寺を訪ねようと思っている。その際には再読する必要を感じている。復習であり、予習であり、「友情の証」である。  やはり空海は天才だった。 読むことを書くことに優先させていただきます。また書く機会もあるかと信じています。 次は、 ◇  紀野一義『「法華経」を読む』講談社現代新書 です。早速寄り道です。脱線です。

「師走に『四国遍路』を渉猟する」

以下の新書は、出版(2001/04/20)されると間もなく読んだ。 ◇ 辰濃和男『四国遍路』岩波新書 下記の三冊は発送待ちである。辰濃さんの文章に触れるのは久しぶりである。 ◇ 辰濃和男『歩き遍路―土を踏み風に祈る。それだけでいい。』海竜社 ◇ 川崎一洋『弘法大師空海と出会う』岩波新書 ◇ 石川文洋『カラー版 四国八十八カ所―わたしの遍路旅』岩波新書 ◇ 中村元,紀野一義『般若心経・金剛般若経』岩波文庫 ◇ 紀野一義『「般若心経」を読む』講談社現代新書 ◇ 紀野一義『「般若心経」講義」PHP研究所 ◇ 紀野一義『「法華経」を読む』講談社現代新書 ◇ 紀野一義『遍歴放浪の世界』NHKブックス 以上 五冊は学生時代に読んだ。紀野一義さんの本をよく読んだ。 ◆ 紀野一義『明恵上人―静かで透明な生き方』PHP研究所  また、下記の文庫も見つかった。 ◆ 公方俊良『般若心経 90の智恵―276文字にこめられた生き方の真髄』知的生きかた文庫 玄侑宗久さんのお名前は早くから存じ上げていたが、はじめて文章に触れたのは、 ◆玄侑宗久(作家・臨済宗僧侶)「井筒病」(『井筒俊彦全集 第八巻』 月報第八号 2014年12月 慶應義塾大学出版会) だった。 ◇ 玄侑宗久『現代語訳 般若心経』ちくま新書 を注文した。 検索しているうちに、柳澤桂子さんが気になりはじめ、 ◇『般若心経 いのちの対話』(文藝春秋 2006年12月号での玄侑宗久との対談)』 ◇ 柳澤桂子(著)堀文子(イラスト)『生きて死ぬ智慧』小学館 ◇ 柳澤桂子『いのちの日記 神の前に、神とともに、神なしに生きる 』小学館 また、多田富雄さんが気になりはじめ、 ◇ 多田富雄,柳澤桂子『露の身ながら 往復書簡 いのちへの対話』集英社文庫 を注文した。  本の世界で『四国遍路』 を渉猟する際にも、八十八冊ほどの書籍は必要となりそうな勢いである。今日から本が届く。年内に、遅くとも年始までには読み終えようと思っている。師走との “かけっこ” である。「いのち」の森厳に触れる、「同行二人」での道行である。

TWEET「うら寂れたこの地に住む義理もなく」

滋賀県長浜市の「渡岸寺(どうがんじ) 」さんの「国宝 十一面観音像」を参拝すると、 ◇ 井上靖『星と祭』角川文庫 ◇ 水上勉『湖(うみ)の琴』講談社文庫 の二冊の書名をよく耳にする。そろそろ読む時期か、と思い注文した。古書である。 「渡岸寺」さんには あきれるほど訪れているが、 ◆ 「出会いの森・井上靖記念室」 「小説「星と祭」や随筆「美しきものとの出会い」の中で湖北の観音像を描いた井上靖氏。縁の深い氏の助言を得て造られた「高月図書館」内には、生前の氏と湖北の人々の交流を紹介し、著作物や遺品を集めた「井上靖記念室」と地元の文献資料を紹介した「郷土資料室」があります。」 があることを、つい今し方知った。うかつだった。 そして、 ◇ 井上靖『 美しきものとの出会い 』文藝春秋 を追加注文した。  年内の、道路が凍結する前に、どうしても再訪したい地がある。車でほんの数時間の 旅である。冬晴れが絶対条件である。いま機をうかがっている。  それに加えて、 「出会いの森・井上靖記念室」、知ってしまったからには、行くしかないだろう。  旅からの帰路、当地が近づいてくるにつれて心が萎えてくる。  美しい人、もの、ことに囲まれて生活したい。当地でかなわないなら、彼の地を求めるしかないだろう。年に数回くらいの旅では追いつかない。うら寂(ぶ)れたこの地に住む義理はない。

「高山寺往還」

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2021/11/24(水) 「勤労感謝の日」の翌日、人混みを避け、紅葉の盛りを避け、昼過ぎに出立した。 ◆「無印良品 クロスモール豊川」 旅行用品を仕入れた。 ◆「東京庵 豊川店」 「味噌煮込みうどん定食」を食べ、勇んで出かけた。 ◆「養老 PA」 車中泊をし、薄明を待った。 2021/11/25(木) ◆「伊吹山 PA (下り)」より「伊吹山」を望む。 2021/11/ 23  に、初冠雪を記録したとのことだったかが、新雪を戴いた伊吹山を見ることはできなかった。 ◆「渡岸寺(どうがんじ)」 朝一番に、「渡岸寺」さんの観音さまに見えた 。お堂内は鎮まっていた。去りがたく、つい時間を過ごしてしまった。 2021/11/26(金) ◆「栂尾山 高山寺」  今回もバス停脇の裏参道から「石水院」へと向かい、逆順をたどった。 「石水院」内を、 参拝、参観し、「石水院」の 南面濡縁で裸足になって日向ぼこをしてくつろいだ。こういった過ごし方を、明恵上人は喜んでくださっている、と信じている。 「明恵上人御廟」 「開山堂」「明恵上人御廟」「仏足石」「金堂」「春日明神社」の順に参拝し、「表参道」を通って、バス停に向かった。 「栂尾山  高山寺」のリーフレットが新調され た。 ◆「ぎをん 権兵衛」  13:30 過ぎに行ったが、行列ができていて後尾に並んだ。ガイドブックで紹介されたのだろうか、若い女性客が目立った。  前回と同じく、「きつねうどん」と「親子丼」を注文した。  女将さんが帳場で、てきぱきとやりとりしている姿は、なによりだった。 ◆「東寺」 「東寺」とは相性が悪い。薄暗い堂宇に所狭しと納められた像は、私の目には明らかに映らず、残念である。「東寺」さんには「東寺」さんの事情があるのは察しがつくが、無念である。  閉館時間を気にしながらの駆け足の参拝、参観だった。最後に「 大師堂」を参拝し、「食堂」で「輪袈裟」と「ピンバッチ」を購入した。 「身は高野 心は東寺に おさめおく            大師の誓い 新たなりけり」 「東寺」を後にして、薄暮のなかを京都駅まで歩いた。 追伸:「東寺」さんのパンフレットには、 「講堂・立体曼荼羅」 「堂内の白亜の壇上には大日如来を中心とした五智如来をはじめ、五菩薩、五大明王、四天王、梵天、帝釈天の二十一躯の仏像が安置されています。 これは弘法

「高野往還」

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2021/11/16(火) 未明に出立した。 ◆「伊吹山 PA (下り)」より「伊吹山」を望む。 ◆「 Hotel & Resorts NAGAHAMA(喫茶室)」 琵琶湖をぼんやり眺めていた。湖畔にたたずみ、さざ波の音に耳を凝らしていた。 ◆「渡岸寺(どうがんじ)」 美しく、慈愛に満ちた観音さまである。永劫を生きるお姿は不動だった。 「長浜市高月町 渡岸寺」 土門拳「考える臍」  2021/02/09 「薬師寺 金堂 日光菩薩立像腹部」 土門拳『古寺を訪ねて 奈良西ノ京から室生寺へ』小学館文庫  まるまるとふくらんだ下腹、指を突っ込んでくすぐりたくなるような大大としたお臍(へそ)、ここには飛鳥、白鵬の仏像には見られなかった肉体への目ざめが見られる。仏教流伝以来三百年、もはや仏菩薩を神秘的な「蕃神(ばんしん)」として、遠くから畏るおそる伏しおがむ段階は終ったのである。仏菩薩の存在そのものを信ずる心が、その像容の上にも、より確かな触覚的なものを期待しないではいられない欲求を、信仰する側に芽生えさせたことがわかる。(34頁) 「向源寺 十一面観音立像腹部」 土門拳『古寺を訪ねて 東へ西へ』小学館文庫  薬師寺金堂日光菩薩(やくしじこんどうにっこうぼさつ)の臍(へそ)には、指を突っ込んでくすぐりたくなるような触覚的な要素が芽生えていたが、そこにはなお古代的な、大々とした造形感覚が息づいていた。  この十一面のそれになると、そういう呑気(のんき)な、古代的な造形感覚は影をひそめてしまっている。一層実人(じつじん)的、写実的になったことはもちろんだが、それ以上に鋭い思想性が脈打つようになった。透鑿(すきのみ)のこまやかな刀法がうかがえるこの臍は、いわば考える臍である。(132-133頁) 「向源寺」はいま「渡岸寺(どうがんじ)」と呼ばれている。拝観券を兼ねたリーフレットにも「渡岸寺」と記されている。  幾度となく「渡岸寺」を訪ねた。そのたびに何度となく観音さまのお臍を拝見しているはずだが、いっこうに記憶にない。  昨夜 臍が語る深遠な仏教史のお話をはじめてうかがった。  うかつだった。  プロ、アマを問わず、カメラマンたちがファインダー越しに見つめている景色が気になる。傍にお邪魔することも、時には尋ねることもある。訓練された眼の行方が気になる。  臍は口ほどにものを言

TWEET「偽者 現わる」

「Facebook」なるものに、私と同姓同名、出身高校、大学・学部・専修も同じ、生年月日・住所(北海道士別市)・写真こそ異なりますが、男好きな「ニセモノ」が現れたことを、昨日友人から聞き、見せてもらいました。  友人には、自分で投稿しているのでは、と猜疑の目で見られています。が、私は「Facebook」は利用していませんし…。お心当たりはありませんか!自問自答してみてください!!  今後の「偽者のひとり歩き」、楽しみにしております。 「真贋」 小林秀雄『モオツァルト・無常という事』 新潮文庫 「では美は信用であるか。そうである。」(233頁) 「胡蝶之夢」のようなお話ですね。もしかすると、私が「贋作」かもしれない、と思ってみたりもしています。

TWEET「重ねて言おう」

TWEET「自家撞着」  2021/11/01  いま作務をしながら、「自家撞着」という言葉について考えている。言霊をもち出すまでもなく、言葉を弄べば、いずれ言葉に足をすくわれるときがくるだろう。  井筒俊彦は、「存在はコトバである」と措定した。空海も然りである。  知らぬが仏、ということか。 小林秀雄「言霊」 2019/03/18  言葉には「言霊」が宿っているという古人の思想の意味するところを、宣長ほど、深く考えた人はいなかった。言葉は言霊という己れ自身の衝動を持ち、世の有様を迎えて、自発的にこれに処している。事物に当たって、己れを験(ため)し、己を鍛えて、生きている。(「全作品 28」『本居宣長(下)』所収「本居宣長補記 Ⅱ」371-372頁)

TWEET「されど呼称」

 いつの頃からか、呼称が、「塾長」から「イサオ」にかわった。と、軌を一にするようにして、物言いが横柄になった。高圧的で、高飛車な表現が目立つようになった。「イサオ」が関係をかえた。  カタカナは、外来の人・もの・ことに用いられるのが一般的である。極限 すれば、「イサオ」とは「外人」の呼称で あって、それは、「よそ者」「人で無し」を意味する。  時には「ホンダ」という表記も見られるが、それは専ら「本田技研工業」さんを指すものである。  夏以降、三回別れ三回和解し、いま四度目の待避中である。固定電話の電話線を抜き、PC、スマートフォンはブロックしてある。また、ゆうパックは受取りを拒否した。過去三回は、隙があり、自ら手に落ち、 一時的に関係が修復した。今回も予断を許さない状況下にあるが、これ以上の対策を講じるには、サーバーさんにお願いする他なく、費用も必要になる。 「人で無し」と交渉し、「人で無し」をいたぶって何が面白い のだろうか。そうこうする内に、当人も「人で無し」に転落するやも知れず、「人で無し」同士の交友は、傍迷惑で危険でさえある。

TWEET「転機のとき」

 いくらブログに引用した文章とはいえ、白川静、小林秀雄らの文章にいたっては、初読では覚束なく、再読三読を促されている。いくつかの誤読があり、理解があり、楽しく読んでいる。  2015/08/03 からブログを書きはじめ、六年余りになる。ブログという名の「読書感想文」とは、別離のときがきているように感じている。  「私(わたくし)」不在の短文 を、いくら書き連ねてみたところで、興趣に欠け、埒が明かない。  いましばらくは「活字離れ解消法」という、リハビリを続けるつもりでいるが、その後、ブログという形態から撤退するの かどうかも含めて思案中である。  その折には、きちんとご報告させていただきます。

TWEET「活字離れ解消の特効薬」

「白川静」で検索し、表示された 31個のブログを、昨日読んだ。断片的な、曖昧な記憶しかなく、新鮮だった。「 物むつかしきをり」には鈴を振った。  長田弘は「 再読は友情の証」( 日本放送出版協会 )と書いているが、私はブログに対し友誼までは感じていないが、少なからず親しみはある。 「ブログを読み直す」という読書で、活字離れは容易に解消されそうである。  今日は「小林秀雄」である。 白川静「中国の神話 ー 奪われたものがたり」 2021/02/28 の感想文、 「梅原猛が、『孔子伝』は絶対入れんならん、と言っているのは興味深い。『孔子伝』は絶対読まんならん、と思っている。「けったいな」『山海経』はちょっと横に置いておくとして、「違った神は信仰しない」「その神にあらざれば祀らず」とは潔く、殷も周も「神話を統一するという、そういう要求を持たなかった」のは、純粋な形として神話が残される格好になり、幸いだった。  神話の喪失はどういった事態を招くか、それは神話の存在意義を解することでもある。  共通の神々を戴くことで集合していた結束を失い、あるいは離散し、畏れ畏(かしこ)まることを忘れ、矜持は薄れ民度は低くなる。寄る辺なく寄す処(よすが)なく、活力なく、心的な安定を欠くようになる。日々神々とともに暮らしていた古代人にとって、神話の喪失は致命的であったといえよう。」 には、 「まる一日を費やし、辛酸を嘗めた。」 と書かれていて、おかしかった。

TWEET「再掲」

 ブログは間もなく埋もれ、その他多数に紛れてしまうのが一般的です。再読、また一人でも多くの方たちに閲覧していただきたくて、「revival」として再掲したブログが相当数ありますが、これらも同じ運命をだどるばかりで、すべて「下書き」にすることにしました。  昨日から「白川静」を読んでいますが、検索時には目障りで、見苦しく、忸怩たるものを感じています。  数時間を優に越える作業でした。前後の関係から、「下書き」にするわけにはいかない 「revival」や、 「revival」の閲覧数が多く、「下書き」にした場合、検索結果に影響を与えかねないと思われるブログもあり、一筋縄ではいきませんでした。  欲目に足をすくわれた格好です 。

TWEET「私の活字離れ解消法」

 私の、片隅に追いやられたブログを読むこと、一顧だにされ ない電子書籍を読むこと。 「白川静」を読みはじめました。白川静は、やはり大き過ぎます。

本居宣長「七種鈴」

鈴屋遺蹟保存会「本居宣長と鈴」 「鈴屋とは、三十六の小鈴を赤き緒にぬきたれて、はしらなどにかけおきて、物むつかしきをり引きならして、それが音をきけば、こころもすがすがしくおもほゆ。そのすずの歌は、      とこのべにわがかけていにしいへしぬぶ      鈴がねのさやさや  かくて、この屋の名にもおほせつかし。 宣長 」  私が、 「本居宣長記念館」 内の 「ミュージアムショップ 鈴屋」 さんで求めた 「 七種鈴 (松坂万古)」は、「門人知友」によって贈られた、「現在 鈴屋遺蹟保存会に遺されている(七つの)遺愛の鈴(「鉄或は青銅で造られた古鈴」 )」の「 松坂万古」版 である。  私は鈴を、七曜に分け、毎日一つずつ机上に置き、手遊びにしている。「七曜鈴」である。  この数日間はといえば、恨めしくも、メールや SMS への返信 、電話の応対に忙しく、「 物むつかしきをり」なく、専ら「魔除け」として、鈴を振るばかりだった。こういった事態には、低い音(ね)の鈴がよく、と知らされた ことが、唯一の収穫といえば収穫だった。 「物むつかしきをり」と「鈴の音」との相関については、いまだ不分明であるが、「物むつかしきをり」なく、秋の実りなし、とは自明なことである。

TWEET「秋の夜長の徒然に_焚き火だ!焚き火だ!!」

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昼の予行、夜の本番。 昨夜、庭で焚き火遊びに興じた。 薪のはぜる音、上昇する火の粉が美しかった。 においが気になった。燻製用の木々の使用が適当なのだろう。 「ささやかな焚き火です」 「炭火だ!炭火だ!!」。近日中に焚き火台で、また七輪で、炭火遊びをする予定である。   松阪市の「小津安二郎記念館」を訪れた際には、くすんだオレンジ色をした「豆炭行火(まめたんあんか)」 が展示されていて、子どものころを思い出した。 私にとっては、焚き火よりも炭火の方が懐かしく、たくさんの思い出がある。  焚き火の最中に、隣家の玄関のドアが大きな音を立てて開(あ)き、「クサイ」とだけ、子どもがぶっきらぼうに言い、乱暴にドアが閉められた。子どもの仕業ではないことは明らかであるが、どこ吹く風とやり過ごした。  当のご本人らは、年に何回かバーベキューをし、賑やかく、ということには一向に気が回らないようである。  不愉快な思いをするのは御免で、場所探しをする必要が生じた。 反省はしていない。

TWEET「秋の夜長の徒然に_告知編」

◆ 2021/10/30 に、 「毎秋(まいあき) 恒例の、作務に勤しむことにした。作務は修行の内のことである」 と書いた。三日坊主と、とかく悪様にいわれる時日(ときひ) もやり過ごし、また、 毎秋恒例になっている古社寺巡拝の旅に出ようと、小春日和のそろう日を見計らっている。紅葉時の人混みは避けたく、今回は高野山も視野に入っている。 ◆「中消防署」さんにおうかがいすると、焚き火台を使用しての、庭での焚き火は禁じられていません、とのことだった。ただし、たとえ一つにしても、ゴミを燃やすことは禁じられています、と何度か念を押された。  2020/05/22 に 「スノーピーク」の「 焚き火台 M スターターセット(3〜4人用)」を購入した。琵琶湖畔での焚き火への憧憬からである。そして、 2020/06/08 には「 火ばさみ」を、 2021/10/01に 「焼き網 Pro.」、2021/10/03 には「グリルブリッジ」を購入し、火遊びの準備を完了した。が、いま思えば、食に関心のない私には、「グリルブリッジ」と「焼き網 Pro.」は必要なく、また、一式を「ピコグリル」で揃えればよかった、と後悔している。  2021/09/27 には、河口湖畔で焚き火を経験したが、自分の道具仕立てでの、一人での焚き火は今回がはじめてである。  昼の予行、夜の本番。 「焚火に恐怖を覚えた。燃えて灰になる現実を注視していた。この事実をどのように受容し昇華すればいいのだろうか。  薪のはぜる音、上昇する火の粉が美しかった。」 「文化の日」にこそ、似つかわしい遊びである。

「自己本位といい、他己本位といい」

 青山二郎といい、小林秀雄、白洲正子といい、「青山学院」と呼ばれ、「昭和の文壇を華やかに彩った文士たち」は、超然として「自己本位」の境地に遊んだ。  井筒俊彦においては、これらは「コトバ」の自己分節であって、関心の埒外の出来事であったに違いない。意識の深みに「実在」を索め、その階層構造を明らかにし、ついには自身の深層言語学的哲学を展開するにいたった井筒にとって、表層意識への関心は希薄であったといえよう。  一方 漱石はといえば、「利己か利他か」に生涯執着し、その撞着が漱石に小説を書かせた、といえるかもしれない。安易な解決を許さなかった漱石は強靭な精神の持ち主だった。  さて、長らく「他己本位」という惨劇の最中(さなか)にあって、いま私は躊躇することなく「自己本位」に触手を伸ばす。それには多少の荒療治が必要かと感じている。  残された限られた時間、「悪しき道徳教育の、18歳の残滓」の虜になっている暇はない。 「拝復 P教授様_悪しき道徳教育の、18歳の残滓です」 2018/07/31 おはようございます。 我慢する、我儘は許されない、また反省する。 いずれもいずれも悪しき道徳教育の、18歳の残滓ですね。 この際きっぱりとお別れすることにします。 我慢しない。我儘に生きる。「反省なぞしない」。 無頓着で、無造作な、鷹揚で、無邪気な生活を心がけます。 盛夏です、酷暑です。容赦なしです。 くれぐれもご自愛ください。 FROM HONDA WITH LOVE. 追伸: 小林秀雄さんが、座談会にて、 「僕は無智だから反省なぞしない。利巧な奴はたんと反省してみるがいいじゃないか」(『近代文学』昭和二十一年二月号) と話されています。

TWEET「自家撞着」

 いま作務をしながら、「自家撞着」という言葉について考えている。言霊をもち出すまでもなく、言葉を弄べば、いずれ言葉に足をすくわれるときがくるだろう。  井筒俊彦は、「存在はコトバである」と措定した。空海も然りである。  知らぬが仏、ということか。

「『徒然草』_究竟は理即に等し」

吉田兼好「日、暮れ、道、遠し。我が生、既に蹉陀たり」 2021/07/09 「第百十二段 明日は遠き国へ赴くべし」 兼好,島内裕子校訂訳『徒然草』ちくま学芸文庫 「人間の儀式、いづれの事か、去り難からぬ。世俗の黙(もだ)し難きに従ひて、これを必ずとせば、願ひも多く、身も苦しく、心の暇(いとま)も無く、一生は雑事(ざふじ)の小節に障(さ)へられて、空しく暮れなん。日、暮れ、道、遠し。我が生(しやふ)、既に蹉陀(さだ)たり。諸縁を放下(ほうげ)すべき時なり。信をも、守らじ、礼儀をも、思はじ。この心をも得ざらん人は、物狂(ものぐる)ひとも言へ、現無(うつつな)し、情け無しとも思へ。譏(そし)るとも、苦しまじ。誉(ほ)むとも、聞き入じれ。」 ◇ 以下、「現代語訳」です。 「人間が生きている限りしなくてはならない社交儀礼は、どれもしないわけにはいかない。だからといって、世間のしがらみを捨てきれずに、これらのことを必ずしていると、願望も多く、体も辛く、精神的な余裕もなくなって、肝心の一生が、次から次に押し寄せてくる雑事にさえぎられてしまい、空しく暮れてしまう。もう人生が暮れるような晩年になっても、まだ究めようとする道は遠い。自分の人生は、すでに不遇のうちに終わろうとしている。まさに、白楽天の「日、暮れ、道、遠し。我が生(しやふ)、既に蹉陀(さだ)たり」という状況だ。もうこうなったら、すべての縁を打ち捨てるべき時である。私は、約束も、もう守るまい。礼儀も、気にしまい。このような決心が出来ない人は、私のことをもの狂いとも言え。しっかりとした現実感がなく、人情がないと思ってもよい。他人がどんなに私のことを非難しても、少しも苦しくはない。逆に、私のことを褒めてくれても、そんな言葉を聞く耳は持たない。」 (註)「蹉陀」は躓く。転じて好機を失う。挫折する。(兼好法師,小川剛生訳注『新版 徒然草 現代語訳付き』 角川ソフィア文庫) 島内裕子は「徒然草の中でも、最も激烈な段である」と書いている。  2016/10/15 に 「小林秀雄『末期の眼』」 と題するブログを書きましたが、その思いはいまも変わりません。 「日、暮れ、道、遠し。我が生、既に蹉陀たり。諸縁を放下すべき時なり」  P教授の教えにしたがい、 身支度を整えます。 TWEET「『徒然草』_信頼に足る確かな「たしなみ」の書」 2021

TWEET「圏外の人となる」

「富嶽遥拝の旅」(2021/09/27 〜 09/29)から、「神宮、松阪城跡内と英虞湾展望の旅」( 2021/10/19 〜 10/22)までの空白の時間が惜しまれてならない。二人がかりでの  SMS攻勢にあい、この間(かん )まともな読書、またブログどころではなかった。  いまだ活字離れの進行は止まず 、毎秋(まいあき) 恒例の、作務に勤しむことにした。作務は修行の内のことである。  ひとり旅が難しい時代になった。どうしてもスマートフォンとの道連れの旅になってしまう。圏外の人となるしかない。南方熊楠を筆頭に、枠外の人たちとのおつき合いは長いが、圏外の人となるのははじめてのことで、宙(そら)からの壮観な眺めを楽しみにしている。

小林秀雄「過去はもうたくさんだ!」

白洲正子『いまなぜ青山二郎なのか』新潮文庫  運命的ともいえるこの二人の友情に、決定的な結末が到来したのは、昭和二十八年七月四日のことである。小林(秀雄)さんは、今日出海さんといっしょにヨーロッパを廻り、アメリカ経由で羽田に帰った時、青山(二郎)さんが迎えに来ていた。  私もいっしょに行ったので、よく覚えているが、ジイ(青山二郎)ちゃんはどこか別のところ、喫茶室にでも席をはずしていたのだろうか。とにかくジイちゃんのいないところで、 ジイちゃんが迎えに来ていると聞き、小林さんは実にいやな顔をして、「過去はもうたくさんだ!」と、吐いて捨てるようにいったのである。  その後この言葉は有名になって、誰でも知っているが、その場の雰囲気があまりに陰惨だったので、私はびっくりしてそこを飛び出てしまった。あとのことは覚えていないが、 ジイちゃんだけには絶対いうまいと思った。(148頁) (青山二郎)『世間知らず』は仔細(しさい)に読むと見かけより非常に凝った文章で、行間に ジイちゃんの深い悲しみがかくされているように思う。 (中略) 「親友と云(い)ふものゝ中には此(こ)の世では親友として交つて行けない、さういふ親友だつてあるのだから、仮りにそれがピツタリいつたとしたら余程めぐまれてゐると思つていゝのだろう。併(しか)し、非常に低い処でしか、そんな幸運にはめぐまれないものである。(149頁) 「高級な友情」といわれる所以である。  私の交友は、常に「使う使われる」の関係に堕する。節度なく容赦なく、配慮なき者たちに囲まれ 、それは普通でさえなく、忌々しく、低級にすぎる。  還暦を迎え、 「一生いくばくならず、来世近きにあり」(西行)  一人がいい、二人ではもう多すぎる。 「過去はもうたくさん」である。 「友情と人嫌ひ」 河上徹太郎『詩と真実』 「饒舌に聞き手が必要であるやうに、沈黙にも相手が要る。そして恐らく饒舌よりも相手を選ぶものだ。私と小林秀雄との交友はそんな所から始まった。」 一人での沈黙の時間。相手を前にしての沈黙の時。沈黙を共有することは一大事です。 追伸:野々上 慶一『ある回想―小林秀雄と河上徹太郎』新潮社 (27頁)からの孫引きです。近日中に確認します。 「小林と私」  河上徹太郎『わが小林秀雄』昭和出版   彼とのつき合ひも中学上級以来からだから随分古い。古い点ではお

司馬遼太郎『この国のかたち 五「神道」』文春文庫

2021/03/03  一昨日には、白川静「中国の神話 ー 奪われたものがたり」中の、190字の作文に苦戦し、まる一日を要した。辛酸を嘗めた。そして昨日、 ◇ 司馬遼太郎『この国のかたち 五』文春文庫 「神 道 (一)〜(七)」 ◇ 中沢新一『古代から来た未来人 折口信夫』ちくまプリマー新書 「第五章 大いなる転回」 「第六章 心の未来のための設計図」 ◇ 白川静『初期万葉論』中公文庫 「第一章 比較文学の方法 二 発想と表現」 「第四章 叙景歌の成立 三 見れど飽かぬ」 を読んだ。いずれも再読、三読目である。 司馬遼太郎『この国のかたち 五』文春文庫 「神 道 (一) 」   神道に、教祖も教義もない。  たとえばこの島々にいた古代人たちは、地面に顔を出した岩の露頭ひとつにも底(そこ)つ磐根(いわね)の大きさをおもい、奇異を感じた。  畏(おそ)れを覚えればすぐ、そのまわりを清め、みだりに足を踏み入れてけがさぬようにした。それが、神道だった。  むろん、社殿は必要としない。社殿は、はるかな後世、仏教が伝わってくると、それを見習ってできた風である。  三輪(みわ)の神は、山である。大和盆地の奥にある円錐(えんすい)形の丘陵そのものが、古代以来、神でありつづけている。  ここに唐破風造(からはふづくり)の壮麗な拝殿ができたのは、ごく近世(江戸中期)のことにすぎない。(9-10頁) 古神道には、神から現世の利をねだるという現世利益(げんぜりやく)の卑しさはなかった。(11頁) 「神 道 (四) 」  げんに、(伊勢神宮の)内宮・外宮の社殿建築をみても、大陸からの影響はない。宇宙のしんを感じさせるほどに質朴簡素である。 (中略)  正殿の棟に、十個のふとい堅魚木(かつおぎ)が載せられている。装飾といえば、これくらいのものである。それも棟をおさえる実用材であるとすれば、まことに禁欲的な造形というほかない。(41頁) 「神 道 (三)」  伊勢神宮の遷宮の儀は、夜、老杉の森の闇のなかでおこなわれる。  一夜明けて翌朝、おなじ境内に入り、新しい宮居がかがやいているのをみたとき、たれもが、その若々しさに圧倒される。すべてヒノキ材で組まれた簡潔この上ない構造物だけに、宮居も神垣も、誕生したばかりのいのちの威厳を感じさせ、見ていると、浴びているような感じがする。(33頁) 「神 道

司馬遼太郎「言挙げせぬ神々」

2020/12/16 司馬遼太郎『この国のかたち 五』文春文庫 「神 道 (7) 」  神道という用語例は、すでに八世紀の『日本書紀』にある。  シントウと澄んでよむならわしは、平安時代にはじまるという。  理由は、日本語は元来、清音をよしとしてきたという程度だったろう。「いろはにほへと」も、すべて清音である。和歌も、明治以前はすべて清音だけで表記されてきた。古音は、一般に澄む。  神道に教義がないことは、すでにふれた。ひょっとすると、神道を清音で発音する程度が教義だったのではないか。それほど神道は多弁でなく、沈黙がその内容にふさわしかった。  『万葉集』巻第十三の三二五三に、  「葦原(あしはら)の瑞穂(みづほ)の国は神(かむ)ながら、言挙(ことあ)げせぬ国」  という歌がある。他にも類似の歌があることからみて、言挙げせぬとは慣用句として当時ふつうに存在したのにちがいない。  神(かん)ながらということばは、 “神の本性のままに” という意味である。言挙げとは、いうまでもなく論ずること。  神々は論じない。アイヌの信仰がそうであるように、山も川も滝も海もそれぞれ神である以上は、山は山の、川は川の本性として ー神ながらにー 生きているだけのことである。くりかえすが、川や山が、仏教や儒教のように、論をなすことはない。  例としてあげるまでもないが、日本でもっとも古い神社の一つである大和の三輪山は、すでにふれたように、山そのものが神体になっている。山が信徒にむかって法を説くはずもなく、論をなすはずもない。三輪山はただ一瞬一瞬の嵐気(らんき)をもって、感ずる人にだけ隠喩(メタフア)をもって示す。(66-68頁) 「神 道 (4) 」  平安末期に世をすごした西行(1118〜90)も、(伊勢神宮に)参拝をした。 「何事(なにごと)のおはしますをば知らねども辱(かたじけな)さの涙こぼるゝ」  というかれの歌は、いかにも古神道の風韻をつたえている。その空間が清浄にされ、よく斎かれていれば、すでに神がおわすということである。神名を問うなど、余計なことであった。  むろん西行は若いころ北面の武士という宮廷の武官だったし、当代随一の教養人でもある上、伊勢では若い神官たちに乞われて歌会も催しているのである。 “何事のおはします” かを知らないどころではなかった。(44頁)  神道のおよ

「神宮、松阪城跡内と英虞湾展望の旅」

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2021/10/19(火) 未明に出立した。 「伊勢湾フェリー」で、伊良湖から鳥羽へ向かった。 潮風に吹かれ、船首波の綾なす彩りを見つめていた。 ◆ 「伊勢神宮 内宮」 およそ一年ぶりの、神さまについての多少の知識をもち合わせての参拝だった。 ◆ 「本居宣長記念館」 事前に、 ◇ 小林秀雄『本居宣長(上),(下)』新潮文庫 を初読・再読した 。 「直筆」と「自画像」,「書斎鈴屋」の見学が主目的だった。蒙昧な私には、直筆を原画としてながめるしかなかった。宣長の居住まいの正しさを感じた。 「旧邸」の二階にある「鈴屋」は、邸外から望む格好での見学しか許されなかった。  山室の妙楽寺山頂にある、「本居宣長之奥墓(おくつき)」までの杣道は狭く、数少ない待避所で、対向車と譲り合ってすれ違う必要があることを、事務長さんからお聞きし、今回は断念した。  オープンしたばかりの 「ミュージアムショップ 鈴屋」 さんで、 ◇ 公益財団法人鈴屋遺蹟保存会,本居宣長記念館 編集 発行『新版 本居宣長の不思議』 と、 「 七種鈴 (松坂万古)」を購入した。 「七種鈴」 2021/10/20(水) ◆「本居宣長記念館」 「七種鈴」を買い足し、姪の、生後四か月たらずの長女宛に送った。 ◇  松谷みよ子『いない いない ばあ』童心社 で、赤ちゃんは笑うことは実証済みである。  はたして、宣長さんの「いない いない ばあ」で、赤ちゃんは笑うのだろうか。壮大な試みである。   これで P教授と赤ちゃんと私は、同じ音色でつながった。 ◆ 「小津安二郎記念館」 P教授から送っていただいた、 ◇ 小津安二郎『僕はトウフ屋だからトウフしか作らない』日本図書センター を読んだばかりだった。また船内では、P教授から、 「小津安二郎記念館」についての SMSが届き、急遽 旅程を変更した。 「本居宣長記念館」と同じ、松阪城跡内にあり、コンステレーションということを思った。  小津安二郎は、9歳から19歳までの多感な時期を、松阪で送っている。  40分 5 部立て の 映像「映画監督 小津安二郎 青春のまち 松阪」に見入っていた。学生時代、 「銀座並木座」の「小津安二郎特集」に通ったことを思っていた。 あのときと同じ気品のなかに、ひとりたたずんでいた。 ◆ 中華そばの「不二屋」 「和田金」さんを尻目に食事をした。 ◆ 「