小林秀雄「過去はもうたくさんだ!」

白洲正子『いまなぜ青山二郎なのか』新潮文庫
 運命的ともいえるこの二人の友情に、決定的な結末が到来したのは、昭和二十八年七月四日のことである。小林(秀雄)さんは、今日出海さんといっしょにヨーロッパを廻り、アメリカ経由で羽田に帰った時、青山(二郎)さんが迎えに来ていた。
 私もいっしょに行ったので、よく覚えているが、ジイ(青山二郎)ちゃんはどこか別のところ、喫茶室にでも席をはずしていたのだろうか。とにかくジイちゃんのいないところで、ジイちゃんが迎えに来ていると聞き、小林さんは実にいやな顔をして、「過去はもうたくさんだ!」と、吐いて捨てるようにいったのである。
 その後この言葉は有名になって、誰でも知っているが、その場の雰囲気があまりに陰惨だったので、私はびっくりしてそこを飛び出てしまった。あとのことは覚えていないが、ジイちゃんだけには絶対いうまいと思った。(148頁)

(青山二郎)『世間知らず』は仔細(しさい)に読むと見かけより非常に凝った文章で、行間にジイちゃんの深い悲しみがかくされているように思う。
(中略)
「親友と云(い)ふものゝ中には此(こ)の世では親友として交つて行けない、さういふ親友だつてあるのだから、仮りにそれがピツタリいつたとしたら余程めぐまれてゐると思つていゝのだろう。併(しか)し、非常に低い処でしか、そんな幸運にはめぐまれないものである。(149頁)

「高級な友情」といわれる所以である。
 私の交友は、常に「使う使われる」の関係に堕する。節度なく容赦なく、配慮なき者たちに囲まれ、それは普通でさえなく、忌々しく、低級にすぎる。
 還暦を迎え、「一生いくばくならず、来世近きにあり」(西行)
 一人がいい、二人ではもう多すぎる。
「過去はもうたくさん」である。


「友情と人嫌ひ」
河上徹太郎『詩と真実』
「饒舌に聞き手が必要であるやうに、沈黙にも相手が要る。そして恐らく饒舌よりも相手を選ぶものだ。私と小林秀雄との交友はそんな所から始まった。」

一人での沈黙の時間。相手を前にしての沈黙の時。沈黙を共有することは一大事です。
追伸:野々上 慶一『ある回想―小林秀雄と河上徹太郎』新潮社 (27頁)からの孫引きです。近日中に確認します。

「小林と私」
 河上徹太郎『わが小林秀雄』昭和出版 
 彼とのつき合ひも中学上級以来からだから随分古い。古い点ではお互に最古参だらう。文壇では二人を親友の部類にいれてゐる。いはれて不服はないが、然し考へて見ると、深入りしてつき合った時期は先づない。(61-62頁)

遊びに来て一言も口をきかないで、それでつき合ひの目的を達して別れた覚えもある。「君子の交り淡々として水の如し」といふのはこのことなのだらうか?(61-62頁)

 私は新潮社版の小林秀雄全集(一九五五〜五七年)の全巻解説を書いてゐるが、やつて見るとかういふ仕事は今までの友情の総決算みたいで、楽しいものである。(63頁)