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TWEET「聖夜に」

◇ 嘉納純子, 松本智年 他著 / 黒井健 イラスト『あのね、サンタの国ではね…』偕成社 「サンタさんの一年間の物語が描かれています」 ◇ 中川李枝子,山脇百合子『ぐりとぐらのおきゃくさま (ぐりとぐらの絵本)』福音館書店   「思いがけないおきゃくさまから贈り物をもらい友だちと分かちあった、ぐりとぐらのクリスマス・イブのお話」 「子どもが大好きな謎ときがおり込まれた、クリスマスにぴったりの絵本です」  森で雪合戦をしていたぐりとぐらは、雪の上に大きな足跡をみつけました。たどっていくと、自分たちの家の前で消えています。中に入ってマントをかけようとすると、そこには赤いコートが……。暖炉の前には手袋と靴下が干してあって、部屋のすみに大きな袋もあります。「おきゃくさまは、いったい どこだろう」家のなかを探しますが、誰もいません」  すると、どこからかカステラを焼くいいにおいがしてきます。台所へとんでいくと、そこには、白いひげのおじいさんが焼きたてのケーキを持って立っていました。 「仲良しの友だちとみんなで食べる大きなケーキ! クリスマスの楽しいお茶会がもよおされました」  その夜、ぐりとぐらの家には、友だちがおおぜい集まってきて、みんなでクリスマスのケーキを食べ、歌ったり踊ったりしました。  ミステリー仕立てではじまるこの絵本は、何度読んでもドキドキ、ワクワク。思いがけないおきゃくさまから贈り物をもらい友だちと分かちあった、ぐりとぐらのクリスマス・イブのお話です。(出版社より)  上記の2冊の絵本を、明日 書店に立ち読みに行こう、と思っている。長い間 ご無沙汰している書店、久しぶりの立ち読み、となれば、少しの決意を要する。多少の緊張もする。

『Yes, Virginia, there is a Santa Claus.』

  "Please tell me the truth; is there a Santa Claus? 中村妙子 訳『サンタクロースっているんでしょうか?』偕成社 「今から百前あまり前に、8歳の女の子 ヴァージニアは、ニューヨークの『サン新聞』に、『サンタクロースっているんでしょうか?』と尋ねました。この問いかけに対し、フランシス・P・チャーチは、1897/12/21 付の社説で応えました。全米で話題となり、日本では偕成社より出版され、ロングセラーになっています。」 Yes, Virginia, there is a Santa Claus. 上記のサイトで英語で、また日本語訳で全文を読むことができます。ぜひご覧になってください。 私は学生時代にコラムで知りました。何冊かを買い、プレゼントしました。Amazon で見ると「ベストセラー1位」になっています。何十年ぶりかに読み返しました。 Yes, there is a Santa Claus.

「古代人の思考はよく『古代人』が聞き分ける」

中沢新一『古代から来た未来人 折口信夫』ちくまプリマー新書  南島で出会った精霊たちは、折口の考えてきた「古代人」の思考そのままの現れ方をした。島の人々は「あの世」が海の彼方(かなた)のニライカナイにある、と考えていた。ニライカナイとは「根の島」という意味で、そのまま「魂のふるさと」「魂の根源の場所」を意味していた。人が亡(な)くなると、その魂はニライカナイに戻っていく。またそこは生命の根源の場所で、ニライカナイにつながっていないと、「この世」は生命の輝(かがや)きをなくしていく。しかし、生きている人間はめったなことでは、この海の彼方の「あの世」に行くことはおろか、触れることすらできない。だから島の人々は、「あの世」からの来訪者である「まれびと」の到来(とうらい)を待ち望んでいるのである。  仮面を着装し、植物で全身をおおった精霊が、いかにも「まれびと」らしく、一年に一度だけの決まった日に、村の裏にある洞窟(どうくつ)や森の奥から、島の人々が緊張(きんちょう)しながら待ち受ける神聖な広場にあらわれてくる。ざわざわざわざわとからだを揺(ゆ)すり、踊(おど)るように舞(ま)うように、「まれびと」が目の前にあらわれると、人々の興奮は頂点に達し、精霊と一体になった人々の心のなかには、「あの世」との通路がひらかれる。生きている者と死者たちの霊とは一体となり、過去と現在と未来がひとつになったような、不思議な時間の感覚があたりを包み込む。(47-50頁) ◇ まれびと:折口信夫の用語。海のかなたの異郷(常世)から来訪して、人々に祝福を与(あた)えて去る神。  折口信夫は「目撃」したのである。そして、 「わたしはいまの世で成功する者とはなりえない人間だ。なぜならわたしは精霊とともに生きる一人の古代人であるのだから」(60頁) と、「一人の古代人」を自任する折口は、古代人さながらに霊気に当たり、古代人さながらに精気に浸ることによって、すべてを身にひき受けたのである。 「まれびと」は折口信夫の詩人的な幻想(げんそう)などではなく、たしかに実在していたのだ。  沖縄諸島への旅から戻った折口信夫は、矢継(やつ)ぎ早(ばや)に、日本の文学と芸能の「発生」を論じる、重要な論文を発表していった。「まれびと」はこうして、日本人の神観念の原型をしめしているばかりではなく、折口信夫の学問と思想の全体を...

折口信夫「冬至の日に,精霊ふゆる『ふゆ』」

中沢新一『古代から来た未来人 折口信夫』ちくまプリマー新書 「とても興味深いことに、「まれびと」論や芸能発生論ではもっとも重要な季節が冬至(とうじ)と夏至(げし)の季節におかれていたのに対して、『死者の書』(折口信夫著)で描きだされた新しい他界論では、春分と秋分の季節がもっとも重要な季節になっている。第一章で述べたように、冬至と夏至には、昼と夜の長さが極端(きょくたん)にアンバランスになり、そのときを選んで死者の霊が、生者の世界を大挙して訪問してくるのである。そのとき「あの世」との通路が開いて、仮面などで姿を隠(かく)した精霊が、舞(ま)いながら「この世」にあらわれてくるのだった」(86頁) ※ まれびと:折口信夫の用語。海のかなたの異郷(常世)から来訪して、人々に祝福を与(あた)えて去る神。 精霊ふゆる「ふゆ」 「多くの祭りが、昼と夜の長さがもっともアンバランスになる冬至と夏至に集中しておこなわれる。  この冬至と夏至をはさんで、「古代人」は精霊(スピリット)をこの世にお迎(むか)えする祭りをおこなう。夏至をはさんだ夏のお祭りの期間には、死霊(しりょう)のかたちをとった精霊の群れが、生きている者たちの世界を訪問してくる。死霊には、まともな死に方をして、しかも子孫たちから敬われつづけている先祖の霊もいれば、横死をとげた幼い子供のうちに亡(な)くなってしまった者たちの浮かばれない霊もいる。そういう多彩(たさい)な死霊たちが大挙して戻ってくるのを、「古代人」は心をこめてお迎えしようとしたのである。  その夏の時期の精霊来訪の祭りは、のちのち仏教化されて、お盆(ぼん)の行事となったけれど、そこには「古代人」の思考の原型がはっきり残っている。お盆の行事としておこなわれる「盆踊(おど)り」を見てみよう。 (中略)  冬至をはさんだ一、二か月は、その昔は霜月(しもつき)と呼ばれて、やはり精霊を迎える祭りがおこなわれた。しかし冬の期間におこなわれるこの祭りでは、夏の精霊迎えの祭りとはちがった考えが支配的だった、というのが折口信夫の考えである。この期間、精霊の増殖と霊力の蓄(たくわ)えがおこなわれるのである。折口信夫の考えでは、「冬(ふゆ)」ということばは、古代の日本語に直接つながっている。「ふゆ」は「ふえる」「ふやす」をあらわす古代語の生き残りなのである。  冬の期間に「古代人」...

TWEET「解体・整地工事の終了」

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 2024/12/05 解体・整地工事のすべてが終了した。 「我が 死に支度の嚆矢」を終えた。   「 嚆矢 」の続編へと、早々に歩を進めたいが、何事につけ業者さん主導であり、待つことしかできないのがもどかしい。私ひとりでは、なにもできない証である。  家屋の下積みになっていた表土が、いま冬の陽を浴びている。健全な眺めである。同敷地内に建つもう一棟の木造家屋もこの際 解体し、更地にしてしまいたいという衝動がある。 “善事” のためにはホームレスも厭わない、ということである。  断片が続きます。

TWEET「解体後の今日」

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 昨夕、解体工事のすべてが終了した。 2024/11/30   解体業者「信頼」さんの、トルコ・イスタンブールご出身の二人の男性を中心とした、丁寧なお仕事ぶりに感心している。  解体工事の およそ 6割あまりは、廃棄物の分別であることを知った。飽くことなく、丹念に仕分けしていただいたことにも感謝している。  懸念の解体を終え 明けて今日、感傷はなく、清々しい心持ちでいる。  以下の写真の、細長い側溝の蓋の部分が、かつての勝手口である。    蓋の上に立って、いまは無き屋敷内のあれこれに思いを馳せている。  ちなみに側溝の蓋は、私が無理をいって、ムスタファさんに急ごしらえしていただいたものである。  明日からは、盛り土の運搬がはじまる。  更地は思いのほか美しい。同敷地内に建つもう一棟の木造家屋もこの際 解体し、更地にしてしまいたいという衝動がある。 “美” のためにはホームレスも厭わない、ということである。  また、同じイスタンブール出身の、「自分を見つけに、日本にきました」と言った、16歳の優秀な少年 エレンの行末が気になっている。  断章が続きます。

TWEET「蹂躙」

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    容赦なく自宅が蹂躙(じゅうりん)されていく。言葉は悪いが、やはり私の眼には、そのように映って止まない。  かろうじて、 玄関が、応接間が残り、縁側が、そしてトイレが、井戸が残されている。  昨日の終業時のことである。  二人のトルコ人男性のたくましさが際立っている 。日本人労働者の優に倍は働く。骨惜しみせず、重機も操る。  それは ブラジル人青年たちの “足場屋さん” についてもいえることである。  解体業や鳶職の世界は、既に外国人労働者の方たちによって、席巻されつつあるような気がしてならない。  断片が続きます。

TWEET『レ・ミゼラブル』

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『噫(ああ)無情』  昨日の終業時の画像です。  木屑の山です。  断章が続きます。

TWEET『むざんやな」

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 2024/11/12 から自宅の解体工事がはじまり、今日 はじめて重機が入りました。 むざんやな甲(かぶと)の下のきりぎりす          芭蕉 「無念です」 「作業終了後」    私はさしずめ、「甲の下のきりぎりす」です。  断片が続きます。

TWEET「いよいよです_2/2」

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 解体工事 前日の今日、最後の最後に、 電気メータと電線を撤去していただきました。  日が暮れようとしています。  断章が続きます。

TWEET「いよいよです_1/2」

   昭和33年に建てられた木造二階建ての家屋の解体です。四世代にわたって生活した、思い出もあり、思い入れ もある建物です。  一昨日 同敷地内の別棟に引越ました。  以下、岡本建設さんによる解体工事の日程です。 2024/11/12 〜 2024/11/30 長丁場です。  最後に、いつになく入念に掃除をしました。  日付が変わると同時に電気が停まりますが、12日の朝まで旧宅で過ごします。名残は尽きず、感傷的になっています。  断片が続きます。

TWEET「面壁九年」

 2024/08/18 から「般若心経」を唱えはじめたことは、たびたび書いたが、昨夕、読経後に訪れる「瞑想」の時間が、絶え間なく続き、 戸惑った。はじめてのことだった。しかし、 考えることに支障をきたし、狂気の世界の人になるかもれない、と戦々恐々としていた。  今日は「瞑想」の質が格段に向上し、「常態」と「瞑想」の往還が自在にできるようになった。椿事である。日常生活において、意のままに「瞑想」の時間がもてるということは望外の喜びである。 「般若心経」を唱えることの功徳を思う。 しかし、いまだ表層意識内のことである。  達磨大師の面壁九年にあやかろうといえば、不埒か。  断章が続きます。

TWEET「月がとっても青いから」

   月を見るのが好きだった。 「栂尾・高山寺」 2020/10/31 あかあかやあかあかあかやあかあか(表記は「くの字点」です)やあかあかあかやあかあかや月 山のはにわれもいりなむ月もいれよなよな(表記は「くの字点」です)ごとにまた友とせむ  上記の二首はいずれも明恵上人の詠まれた歌です。横書きでしか表記できないのが残念です。  満月の夜でした。明月が山の端から昇るのを、寒さに震えながら待ちました。 「高野山・金剛峯寺」 2021/11/19 「部分月蝕(満月)」 「 今回は部分月食とはいえ月の直径の98%が隠れるため、ほぼ月全体が隠れる皆既月食に近く、 今回と同じように、『 限りなく皆既に近い部分月食』が日本全国で見られたのは、140年前(1881年12月6日)までさかのぼります」 との記載があった。またとない朗報だった。 「栂尾・高山寺」,「高野山・金剛峯寺」前の駐車場から仰いだ月が、特に印象に残っている。  しかし、この一年あまり、夜空を仰いだ記憶がない。月のこともすっかり忘れていた。ところが、2014/09/18 の夕刻過ぎのことだった。月は私の目の前にあった 。満月の夜だった。不意のことにあわてた。この一年あまりの自分の不甲斐なさを思ったとき、「青い月」は、眩しくて見やることができず、あらぬ方(かた)に眼をやった。  月を思う契機となった。はじめから明月の鑑賞はつらい。新月から順を追って、お月見の習慣を取り戻そうと思った。  検索すると、私の望んだ満月は、「中秋の名月」の翌日の月だった。なにか因縁めいたものを感じた。だしぬけに「中秋の名月」でなく、救われたような気がした。  北の夜空の、北極星を中心とした天体ショーも恋しい。  断片が続きます。

TWEET「無為は転落す」

   有為は転変し、 有為は無常であるが、無為 は瞬時に転落する。 無為であり続けることは困難を極める。 「般若心経」を唱えた後に訪れる瞑想中でのことである。雑念が浮かぶと、経文の一節を思い、払拭することにしている。 「般若心経」が説く「空」と、「禅」のいう「無」の相違は、一応 心得ているが、それがたとえ、「生々とし た世界」で あろうとも、「無の意識さえ消失した世界」であろうとも、ともに、我もなく他人(ひと)もなく、鎮まった世界であることに違いないだろう。 「願いごとはない。  思い はただ、「般若心経」と一如になることである。 「般若心経」を唱えるかすかな、声ともつかないような、意味をともなわない経文を、前頭葉が 聞くともなく聞いている。私の自足した平安な「般若心経」体験である。しかしいまは、それもわずかな時間のことでしかない(2014/10/11)」 「思い」はずいぶん改善した。読経の質が瞑想の質を決めることも理解した。  倦まず弛まず孜々(ここ)として、 「私の仏道修行」はいま、緒に就いたばかりである。  断章が続きます。

TWEET「金木犀」

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 今回の自宅の解体工事では、庭もすべてつぶし、更地にする予定でいる。  昨日の午後、玄関を出ると、金木犀の匂いが漂っていた。  今秋が最後である。  金木犀は知ってか、知らぬか、いつになく意気盛んであった。そうと知ってか、知らぬか、「死花」を咲かせているのかもしれない。 「糸に学ぶ―田島隆夫」 白洲正子『日本のたくみ』新潮文庫 「結城の在に名人のお婆さんがいて、死ぬ前に寝床の中でひいた」という「死花」(202頁) のことを思いつつ 、しばらくの間、金木犀の香りに包まれていた。  あちこちから金木犀の匂いがする。金木犀の花期である。いままで、そんなことさえ思わずにいた。  札幌では、地植えの金木犀は枯れてしまったという、また家内に置いた金木犀も葉が落ち、数輪の花をつけたのみ、とのことである。  弟の金木犀への郷愁は意外だった。  また、床の間にある、飾り棚の “竹”が欲しい、という。こちらも意表を衝かれた格好である。 「飾り棚の竹」  人の数だけ思い出の品があり、郷愁がある。  解体工事は、11月の上旬に決まった。 追伸:竹には巧みな細工がしてあった。 「ふた節(白い部分)が天井の内にあり、先端には針金が巻きつけてある」 「もぬけの殻(天井部)」 「飾り棚」 「穴の中には釘の先が見える」 「飾り棚をはさんだ継ぎ目。2本の竹から成っていた」 「殺伐としています」  もちろん解体工事はこれしきのことでは済まず、残酷である。  断章が続きます。

TWEET「大野晋に “御足労”を乞う」

「御足労」,「御苦労」の混同・誤謬を、時折 見かける。 昨日も眼にした。  以下、「御足労」の意である。 『精選版 日本国語大辞典_iOS アプリ』 ご‐そくろう ‥ソクラウ【御足労】 〘名〙 (「ご」は接頭語) 相手を敬って、その人にわざわざ来てもらったり、行ってもらったりすることをいう語。 *錦木(1901)〈柳川春葉〉九 「然うでしたか、其は何とも御足労ゴソクラウでした」 これを機に、以下、「再掲」です。 TWEET「精選版 日本国語大辞典_iOS アプリ」 2022/08/01  もう10年ほど前になるのだろうか。興味本位で電子辞書を買ったが、一覧性に欠け、不自由で、間もなくさしあげてしまった。  カシオの電子辞書には、 ◆「 精選版 日本国語大辞典」小学館  が収録されていて、魅力的だったが、購入するまでにはいたらなかった。  2017/01/17 に、 ◆「精選版 日本国語大辞典」(iOS アプリ) が、リリースされた。発売当初には破格のお値段だった、と知り、また購入したのは、2020/02/23 のことだった。8000円だった。だいぶ出遅れた感を抱いた 。 ◆ 『精選版 日本国語大辞典(紙)』小学館 は、3分冊の大部な辞書で、各冊 16500円の定価がついている。 なお、 ◆『日本国語大辞典(紙)』小学館 は、13巻と別巻1冊からなり、 各巻 16500円である。  その後、間もなく、 ◆「日本語シソーラス 第2版」 (iOS アプリ) ◆「角川類語辞典」 (iOS アプリ) ◆「三省堂 類語新辞典」 (iOS アプリ) をインストールした。作文には、言葉をさがし、言葉を言い換えるために、類語辞典(シソーラス)が不可欠である。  なお、上から三つのアプリは、「物書堂」さんの仕事であり、同じアプリ(「辞書 by 物書堂」)内に移動すれば、横断検索ができ、便利である。  コレクションとして購入したが、 意外にも、使用頻度が多く、重宝している。  また、ネット上の「コトバンク」さんの急進ぶりには、目を見張っている。際限なく成長し、どこ を目指しているのか、不気味な存在である。ただ、不愉快な広告が多いのには、閉口している。 当然、 ◆「精選版 日本国語大辞典」  も表示されるが、やはりダウンロードした「 iOS アプリ」に分がある。  ご自身...

TWEET「私の仏道修行」

  2024/08/18 から「般若心経」を唱えはじめ、いまでは「私の『般若心経』修行」の観を呈してきた。  願いごとはない。  思い はただ、「般若心経」と一如になることである。 「般若心経」を唱えるかすかな、声ともつかないような、意味をともなわない経文を、前頭葉が 聞くともなく聞いている。私の自足した平安な「般若心経」体験である。しかしいまは、それもわずかな時間のことでしかない。   今後、「般若心経」 を唱え続けることで、新たな感懐を抱くようになるだろう。それは楽しみであり、望みでもある。  読経後には必ず、決して短くない、 瞑想のときが訪れる。無私で満ち足りた時間である。瞑想は不意に訪れ、突如去るものとばかり思っていたが、違った。誦経後に不用意に動くと、瞑想の時間がだいなしになる。  読誦の質が、瞑想の質を決めるような気がしてならない。 「私の仏道修行」を続けます。  断章が続きます。 追伸: 「無私」,「自足」の二語は、小林秀雄を解くキーワードである。

TWEET「かつ消えかつ結びて」

 以来、事あるごとに「般若心経」を唱えている。いささか偏執狂的である。  口をついて出てくる経文は、「かつ消えかつ結びて」、時の流れ、 “いま”という刻を感じる。  捕らえどころのない “いま”を手中にするには、「般若心経」に沈潜するしかないだろう。沈潜するとは、「色こそ空なれ」,「空」となれ合う ことである。  私は、「かつ消えかつ結」ばれる経文の一音節を、聞くともなく聞いている。  そしてまた、2023/06/06(鑑真和上の命日)に唐招提寺の本堂で昌和した、いのちの生動の調べとでもいうべきリズムに身を委ねている。 「明の董其昌が『画禅室随筆』のなかで、「いわゆる宇宙、手に在るもの」というゆえんであろう。禅や念仏は、その場合手中に生動する宇宙・自然のいのち(無量寿)を呼吸するパイプにほかならない」(『墨美 山本空外 ー 書と書道観 1971年9月号 No.214』墨美社 8頁)  わずか18日間の「般若心経」体験ではあるが、確かにこころに響いている。「いささか偏執狂的」であり続けることに意義がある、と思っている。  断片が続きます。

TWEET 「ヌスビトハギ」

 ヌスビトハギは、可憐な花を咲かせる。  そしていち早く、我が家の庭に秋の訪れを告げる。  が、花期を終え結実すると、 “ひっつき虫”になり、どこにともなくひっつき、たいへんな思いをすることになる。  一昨日と昨日の夕方、花期を迎える前の、 ヌスビトハギを刈った。花を愛で、結実する前に刈るのが風流を解すというものだが、私にはその器用さがない。 全身 “ひっつき虫”に取りつかれた、自分の姿を想像するのはみじめである。 「和名は、果実が泥棒の足跡に似ると言う。奇妙に聞こえるが、牧野富太郎によると、古来の泥棒は足音を立てないように、足裏の外側だけを地面に着けて歩いたとのことで、その時の足跡に似ている由。これは牧野富太郎による説」(ウィキペディア)  泥棒の抜き足差し足、ということか。 「萩(はぎ)の花くれぐれ迄もありつるが月出でて見るになきがはかなさ」  実朝の歌は美しい。  断章が続きます。

TWEET「月あかり」

「うちの店では、すべて純国産の『東海製蝋 』さんの蝋燭だけを置いています」 と、「田辺佛具店」さんに、燭台を求めにお邪魔した際にお聞きした。一年あまり前のことだった。蝋燭といえば「カメヤマローソク」とばかり思っていた私には意外だった。  その後、しばらくの間,「東海製蝋」さんの蝋燭と戯れた。 「月あかり」は、美しい。 「専門店向け。当社の最高級ブランドです」 「品質は高融点、高純度の原料を使った最高品。衣裳(意匠?)は伝統的な風合いと彩りを基調に、あくまで純和風に仕上げました」 「高融点」とは燃焼温度が高く、「高純度」とは、炎は蝋本来の輝きを放つということであろう。  私の手元には、小さな細身の「月あかり十分」しかないが、純白で硬質で、他の蝋燭 との違いは明らかである。炎は細身の蝋燭 と調和し気品があり、直立し揺らぐことなく鎮まっている。また、その透明感のある灯りは上品である。 「 月あかり」の名にふさわしい逸品である。  今回 はじめて 、蝋燭の “灯し比べ”をした。 「月あかり」,「雪だるま」,「華むらさき」,「星のしずく」,「キューブ・テン」, 名は体を表す。蝋燭職人の方たちの想いが名前に反映されていることを知らされた。  父の買い置きの蝋燭と線香がある。「月あかり」を知ったいま、始末屋の私としては、始末するほかない。また、微煙・微香の線香は線香とはいえず、こちらも始末し、たとえば、東大寺参詣時に、興福寺、唐招提寺、室生寺参詣時に求めた線香を焚こうと思っている。  仏壇に供える日用品だからこそ、大切にしたいと思う。  断片が続きます。

TWEET「お仏壇のお引越し」

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 2024/08/24,「田辺佛具店」さんに、仏壇を移動していただいた。  いたって丁寧な仕事ぶりだった 。専門家にお願いして正解だった。  仏間の背面には、包装紙にくるまれた、3枚の板状のものが立てかけられていた。包装紙を解くと、旧い仏壇の、観音開きの一対の扉と、一対の引き戸が出てきた。祖父と父が作ったものである。30年あまりにわたって慣れ親しんできた仏壇の名残だった。  祖父と父の心中を察すると忍びないが、始末屋の役割を振られた私としては、始末するほかない。  しかし、いくら「即断即決」といい、 「メメント・モリ」 といいつつも、お仏壇だけに、遺品として大切に仕舞っておこうかと思い はじめた。仕舞うのではなく、祖父の手製の文机を、いま 「般若心経」を唱える際の経机として用いているが、その前に据えるのが適当か、と思いつつある。  断章が続きます。

TWEET「早々の台風見舞へのご返礼」

こんにちは。 (愛知県豊橋市では)14時を過ぎたころから、風が出ました。大降りの雨が、東の窓に吹きつけています。縁側の雨戸だけ閉めました。 (台風10号の)進路予想を見ていますが、直撃に近かったり、北寄りだったりと予断を許しません。 (自宅の)解体工事を目前に控えたこの時期に、何事もないことを祈るばかりです。 (愛知県)蒲郡市の土砂災害時には、当地では激しい雨は降っておらず、意外でした。 お心づかい、またご心配、どうもありがとうございました。 くれぐれもお大事になさってくださいね。 ご自愛ください。 勇夫  断片が続きます。

TWEET「阿弥陀仏」

 学生時代から「哲学としての宗教」についての書をずいぶん読んできた。が、還暦を過ぎたいま「宗教としての哲学」への転換期か、と感じている。「宗教としての哲学」には実践がともなう。   2024/0 8/19 以来, 「般若心経」をことあるごとに唱えて いる。ゆったりと丁寧に、声が脳内に反響するようにして、一度に三回ずつ誦んでいる。読経後には平安が訪れるが、それもやがて去る 。平安の内にあり続けるために、称名を唱えるように唱えている。いささか偏執狂的である。 山本空外は、 「法然上人は大小乗の全仏教を体系化して、念仏の一語にしぼり込んだのである。それは日本の宗派仏教で説く念仏ではない」 と明言している。 そして、 『墨美 山本空外 ー 書論・各観 1979年7月号 No.292』墨美社  「たとえば良寛和尚(1757-1831)のごとき、その書は禅僧として随一のこと周知のとおりであるが、さすがにいのちの根源ともいうべき阿弥陀仏と一如の生活に徹していたのであろう。道詠にも、  草の庵ねてもさめても申すこと 南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏  不可思議の弥陀の誓ひのなかりせば 何をこの世の思ひ出にせむ  我ながら嬉しくもあるか弥陀仏の いますみ国に行くと思へば などがある。これは曹洞宗の禅僧としては、むしろ当然でもあるというのがわたくしの見解でもある。 (中略)  前掲『書と生命』冊中にも、良寛とともに、弘法大師(774-835)・慈雲尊者(1718-1804)の書も併載されたが、じつにやはりいのちの生動するところ、大師にも  「空海が心のうちに咲く花は 弥陀よりほかに知るひとぞなし」 という道詠があるとおり、その花が書として形相をあらわしたわけで、いのちの根源としての阿弥陀との一如に根ざすとしか思えない」(39頁) と書いている。  なお、山本空外、岡潔は、山崎辨栄(べんねい)上人(浄土宗・光明派)に帰依し、湯川秀樹は山本空外上人に帰依している。こういった慎重さ、保証がなければ、臆病な私は宗教(仏教)には近づけない。 龍飛水編『廿世紀の法然坊源空 山本空外上人聖跡素描』無二会 また、空外先生は、 「法然上人は生きていることの原点をナムアミダブツと一息でいえる言葉に見出した。今わたくしが生きている深い内容を一息でいえる言葉、一語で全仏教をおさめ得る言葉は、言語学の上からもナ...

TWEET「氷室神社」

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 2023/06/21 興福寺から東大寺・法華堂に向かう途中、東大寺のほど近くに「氷室神社」を見つけた。興味本意で参拝した。  奈良はかき氷が有名である。 「 奈良時代、平城遷都にともなう勅令によって」「 毎年4月1日より9月30日まで」「 献氷(冬の間に作られた氷を宮中に献上すること)が行われるようになり、奈良の地には氷池や氷室が多く造られました」 「氷室神社」はその本社である。 「氷みくじ」があり、 「 氷の上におみくじをのせると文字が浮かび上がる 」  また、コロナ禍のこととて、 の御札 が掲げられていた。  2023/06/25  駐車場から「女人高野 室生寺」に向かう途中、「喫茶 むろう」さんに寄り、かき氷を食べた。メニューはお任せした。宇治抹茶金時が運ばれてきた。 「鉋(かんな)の歯を使っています」 とのことだった。きめ細やかな薄片の氷が幾重にも重なっていた。急いで食べても頭が痛くならず、不思議だった。店主に聞くと、 「井戸水を使っていますから。皆さん、そう言われます」 とのお応えだった。鉋の歯にも秘密があるように思えてならなかった。  同じ町内にある「餅昌」さんで、かき氷をいただいた際にも頭が痛くならなかった。尋ねると、 「きめ細かな氷に空気が程よく含まれていますから、でも頭が痛くなるときもあります」 と奥さんは笑っていた。  また、「デニーズ」さんのメニューには、 「デニーズのかき氷は、不純物のきわめて少ない最高純度の「純氷」を使用し、やわらかな食感と繊細な口どけにこだわりました」 「純氷とは?」 「非常に純度の高い水を、時間をかけてゆっくりと凍らせた氷のこと」「 ふわふわとした繊細なくちどけをお楽しみください!」 と書かれていた。試食しないわけにはいかなかった。頭は痛くならなかった。店長さんに話すと、店長さんは、こめかみを人差し指で指し、笑みを浮かべていた。はじめて知った風だった。 「氷室神社」参拝以来、かき氷通になったかといえば、そうでもない。  断片が続きます。

TWEET「般若心経」

 昨日の午後、久しぶりに「般若心経」を唱えた。何遍か誦んだ。その後には、脳内にかかった靄が晴れた。思惟することを忘れ、平安の内にあった。考えることの功罪について、いま思いを巡らせている。 ◆ 玄侑宗久『現代語訳 般若心経』ちくま新書 の帯には、 「意味から響きへ、理解から感応へ。 262文字のこころを体感する。 いのちの 全体性へ。」 と書かれている。「意味」や「理解」ではなく、「響き」であり「感応」であり「体感」である。  2023/06/06(鑑真和上の命日)に唐招提寺の本堂で昌和した、いのちの律動の調べとでもいうべき「般若心経」との出会いは尊かった。これらはいのちの脈動に和すればこそ、かなうことだろう。たいへんな体験だった。  忘れものを見つけた。それは思い出しさえすればよかった。大切なものは、やはり目には見えなかった。  断章が続きます。

TWEET「Rider 420」

 2024/03/26,「Amazon」で、「Bryton」のサイクルコンピューター(サイコン)「Rider 420」を購入した。サイコンとは自転車に特化したナビ(ゲーション)のことである。  確かに「Google Maps」は優秀なアプリだが、長時間の使用に耐えない、防水性に欠ける 等、こと自転車にかぎっていえば、使い勝手が悪い。 「Rider 420」の画面上では、出発地と目的地が一本の線で結ばれる。背景はない。後はトレースしていくだけである。いたってシンプルであるが、自転車では、このシンプルさが優位に働く。 「Rider 420」は、通行量の少ない路を指し、勾配の緩やかな坂道を示す。はじめての道、道幅数メートルの抜け径を指示することもある。やはり 「Gooole Maps」とは設計思想が違う。  裏道・裏街道を走るの は楽しい。思わぬ見つけものもある。  常に裏道を歩いてきたつもりでいたが、まだまだ裏には裏があることを知った。  断片が続きます。      

TWEET「風に吹かれて」

 ペダルを回せば風が生じる。私はこの風に吹かれるのが好きだ。下り坂はもちろん、平坦な道でも、私はあまり自転車をこがない。移動は慣性にまかせて、風を感じている。  今日の午前中には、買い出しに、いつもと同じ道をいつもと 同じ順路で、「(フォールディング・eBike)Vektron S10」に乗っていった。風に吹かれることが目的だった。たいへんな時間がかかったのは当然のことである。  酷暑の最中(さなか)に吹く風は熱風であるが、それでも風に当たりたいと思う。風に吹かれていたいと思う。  断章が続きます。

TWEET「毒には毒を」

2024/08/11 には、 TWEET「(クロスバイク)シャイディク TR-X」 を書き、その翌日には、 TWEET「( フォールディング・eBike) Vektron S10」 を書いた。 「Vektron S10」を折りたたんで遊んでいると、急に出かけたくなった。そして、自転車での気ままな散歩(ポタリング)を楽しんだ。 昼下がりの最も暑い時間帯のことだった。 気づくと、施錠を忘れ、草履ばき、財布もスマホもチェーンロックもなにかも持たず空手だった。喉を潤すこともできず無防備だった。  帰宅後,「Vektron S10」から「シャイディク TR-X」に乗りかえた。今回はポタリングではなく、田辺仏具店さんに仏壇の引越しをお願い することと、故あっての連日の お墓参りという明らかな目的があった。  帰路、500ml のミネラルウォーターを セブンイレブンで買い 、店先で飲み干した。  毒を以て毒を制す。  酷暑を以て酷暑を制す。  酷暑対策には、酷暑の内に積極的に身を置くという懐柔策もあることを知った。  移動手段としてだけの自転車ではとてもできない荒業だった。遊び心のあるバイクを選択し正解だった。  断片が続きます。

TWEET「私の文章作法」

 私の「文章作法」を端的にいえば “無作法”ということになる。  文章の題名から梗概までを、常に仰向きに寝て考えている。ものぐさであり、無作法である。  こうして粗筋でき上がると、やおら起き上がり、後は PC に向かって文章にするだけである、かといえば、そう上手くはいかない。文章は思いもかけない方へ飛び火し、展開していく。その度に煮詰まり、無作法に無作法を重ね、天を仰ぐことになる。  文章が次第に形をなしてくると、さすがの私も居ずまいを正さざるを得なくなる。文章を概観する必要が出てくるからである。  結びの一文を考える際に、仰向きになることはまずない。無作法と縁を切る時節である。  その後には、 際限 のない推敲が待っている。時を稼ぐこと。力みのない、弛緩した体で臨むことが「私の推敲作法」である。  断章が続きます。

TWEET「Vektron S10」

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 2024/03/12,「スポーツデポ 豊橋店」で、「tern」のフォールディング・eBike(折りたたみ式・電動アシストユニット付きスポーツバイク)「Vektron S10 マットブラック」を購入した。2台目のバイクである。    店長さんのHさんご夫妻も乗られ、サイクリストの聖地「しまなみ海道」や「浜名湖一周」等々のサイクリングを楽しまれているという安心感があった。「10万円キャッシュバックキャンペーン」中のことだった。 前項の  TWEET「シャイディク TR-X」 で、「変速機さえ調節すれば、上り坂でも、ほとんど脚に負荷がかからない」と書いたが、所詮「仕事の原理」からは免れることはできず、ペダルをくるくる回す必要がある。しかし 「Vektron S10」は、平坦な道を走るかのように、ハイギアで上り坂を登ることができる。   “脱クルマ” を目指しているが、暑いの寒いの、雨だの風が強いだのといっていて は到底かなわない。  酷暑のいま、玄関に2台の真新しいバイクが、お行儀よく並んでいる。それは、中古自転車の展示コーナーでも見るかのようである。  断片が続きます。

TWEET「シャイディク TR-X」

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 2023/05/12,「モンベル 浜松店」で、クロスバイク「シャイディク TR-X アイボリー」を購入した。  詳細は後日に譲るが、駆動部の摩擦係数はゼロにちかく、変速機さえ調節すれば、上り坂でも、ほとんど脚に負荷がかからない。「バイク」と「自転車」とは似て非なる乗り物だと感じた。 「駐輪する際には、必ず『サイクルライト』を取り、TR-X は前輪を外せますので、前輪と車体を『チェーンロック』で留めてください。そうしないと盗まれます」 とAさんは言った。 「それだけですと、自転車ごと盗まれる恐れがありますので、道路標識や駐車場の柵などに、別の『チェーンロック』で 留めて(地球ロックして)ください」 「それでもチェーンカッターで、『チェーンロック』を切られたり、部品を盗まれたりします」 Aさんの説明は微に入り細に入りしていたが、 「では、どうすれば盗まれないんですか」 と聞くと、 「運だけです」 との明快なお答が返ってきた。  運を味方につけるには心がけ次第、ということか。  そこそこのクロスバイクなので、そこそこの心がけで間に合うだろうと勝手に決め込んでいるが、私には、その「そこそこ」が難しい。  断章が続きます。

TWEET「変食」

 同じ道を同じ順路で、毎日車で巡っている。私の買い出し、私の生活道路・私の塩の道である。  毎日同じものを仕入れ、同じものを食し、という食生活を送っている 。この極端な偏食は数か月の間続くのが常である。そして、新たな “変食” がはじまる。  が、インスタント食品、惣菜、調理パンの類は口にしない。これでも少しは健康に気を使っている。ちなみにいまの食の内容は、 ◇「鞍馬にぎり」の「うめ」× 2個  ◇「北海道八雲町牛乳(生乳100%使用、成分無調整)」 ◇「小岩井 生乳100% ヨーグルト(400g)」 ◇「国産(中粒納豆)」(全国納豆鑑評会 最優秀賞・第25回 R2.2.21 熊本大会) である。  それに嗜好品として、 ◇「ファミリーマート」の「アイスコーヒーM」と 「Peace SUPER LIGHT」 が加わる。  栄養のバランスを欠くことは承知しているが、いまのところ健康体でいる。栄養素には補完作用があるのだろうか。  それに加えて、 鯨飲馬食。たとえば 「小岩井 生乳100% ヨーグルト(400g)」を、1日に3つ、4つと食す日がある。お通じはよくなるが、下痢をしたことはない。他の食物についても、ときに暴飲暴食をしている、といえば変食も本物だろう。  私は変食を礼賛しているわけではない。ただ世の中には、 変食を満更でもないと考えている輩がいる ことを、知っていただきたかっただけのことである。  断片が続きます。

TWEET「杞憂」

  書を読まなくなって久しい。  趣味の書ではなく、主に人間一般の、また全般の実学の書を読みついできただけにこの痛手は大きい。が、書に手が伸びないので、書を手にしようがない。  自宅の解体工事のことが心に重くのしかかっている。もう少し正確にいえば、地震による倒壊とその被害を恐れている。杞憂だと、笑わば笑え。いくら笑われようが、杞憂ならばそれで結構である。  心の平安を欠いては書は読めない。  書を読まないことによる自責の念だけはもたないように気をつけている。  断章が続きます。 追伸:  2024/08/08 16:43ごろ、宮崎県で最大震度6弱を観測する強い地震があった。ブログを書き終えた直後のことである。とてもひと事とは思えない。  お見舞い申し上げます。  その後 間もなく「南海トラフ地震臨時情報」が出された。

TWEET「紫煙をくゆらす」

 いまだに紫煙をくゆらせている。いつの間にか嫌われ者になり、片隅に追いやられた。  いずれ煙草は覚醒剤扱いの薬物に指定されるだろう。もしそうなれば潜航するのは明らかである。いかがわしい組織から法外な金額で購入し、人目を避けて吸う。反社会的で隠微な世界である。  法によって私たちは護られている以上、法を遵守するのは当然のことである。やはり禁煙するしかないだろう。  ぐるりを見渡せば、喫煙以上に健康を害するものは幾つも見つかる。私たちにとって最も健康に悪いのは “生きている こと”であると思っている。中学生を対象とした個人塾を営んでいたころには、皆さんにとって最も健康に悪いのは “学校に行くこと”です、と言って憚らなかった。  いまでもこれらの持論に変わりはない。  断片が続きます。

TWEET「作文の練習帳」

 断片・断章を書き 連ねているが、これらは作文の練習帳である。書かなかった空白の時間の埋め合わせ、私のリハビリである。  形容詞を極力避け、素っ気ない文章を書くように心がけている。 “間”を “含蓄”を大切に思うからである。  盛夏の青空を自由に翔けることができるようになるだろうか。失墜し花と散るかもしれない。行方は不分明である。  断章が続きます。

石垣りん「挨拶 ー 原爆の写真によせて」

石垣りん「挨拶 ー 原爆の写真によせて」 あ、 この焼けただれた顔は 一九四五年八月六日 その時広島にいた人 二五万の焼けただれのひとつ すでに此の世にないもの とはいえ 友よ 向き合った互の顔を も一度見直そう 戦火の跡もとどめぬ すこやかな今日の顔 すがすがしい朝の顔を その顔の中に明日の表情をさがすとき 私はりつぜんとするのだ 地球が原爆を数百個所持して 生と死のきわどい淵を歩くとき なぜそんなにも安らかに あなたは美しいのか しずかに耳を澄ませ 何かが近づいてきはしないか 見きわめなければならないものは目の前に えり分けなければならないものは 手の中にある 午前八時一五分は 毎朝やってくる 一九四五年八月六日の朝 一瞬にして死んだ二五万人のすべて いま在る あなたの如く 私の如く やすらかに 美しく 油断していた ◇ 光村図書『国語 3』104-106頁(平成二十四年二月五日発行) 中学校3 年生の国語の教科書に掲載されている、石垣りんさんの詩です。  広島に原爆が投下され、79年になります。  原爆はいまだに、 “抑止力としての核 ” として使用され続けています。  私は、 “政治的手法” という手段に嫌悪感を抱いています。政治に、キリスト教的な倫理観を求める愚は承知していますが、海千山千の世界は、所詮私の住めるところではありません。  “政治的手法” という言葉の内に、すべての人・もの・ことが姿をくらまし、これほど便利な言葉を私は知りません。汎用性が高いとは、専門性に欠け、空手で虚ろ、という意味です。 『殺人狂時代』といい、『独裁者』といい、チャップリンの名作は、いまなお新しく、身につまされます。「永遠の今」を描いたチャップリンは、やはり天才だったといえば、平和な世界を希求したチャップリンへの最大級の侮蔑である、と思っております。

TWEET「政治的手法」

  私は 政治に疎い。  しかし時に、政治的手法に、キリスト教的倫理観は通用しないことくらいの認識はある。  政治は必要悪だと思うこともある。必要とあらば悪にも手を染める。反省もなく、必要悪を盾にとった為政は危険をはらんでいる。認識の差異が各種紛争の火種に なる 。  また、政治はゲームだと思うこともある。海千山千の政治家たちによる、虚々実々の駆け引き、落とし所を探る交渉はゲームさながらである。  当ブログではじめて政治について触れた。所詮私の出番ではなかったような気がしている。  断片が続きます。

TWEET「炎暑のささやき」

 近年の盛夏の陽光には閉口している。  エアコンを点けた部屋に閉じこもるしかない。室内は適当な温度・湿度に調整され、いつの季節よりも快適な空間をつくり出している。何をするにもよい時節である。そのことを忘れてはならないと思う。  炎暑の口車に軽々しく乗ると、ただ暑いだけの夏に終わってしまう。  断章が続きます。

TWEET「庇を貸して」

   宅地内に、NTTの電柱と丁内の街灯のポールが立っている。いずれも好意でお貸ししたものである。自宅の解体工事の妨げになるため、撤去をお願いしているが、おいそれとは話が進まない。NTTの電柱に関しては、!0〜20万円の撤去料が発生するとの理不尽さで、恩を仇で返されたような感を抱いている。また、NTTは、解約後も電話線を残したままにしておくというから、見上げたものである。  善意から敷地内に電線や電話線を通すことも止めた方がいい。  庇を貸して母屋を取られることにもなりかねない。  断片が続きます。  

TWEET「 “タニヤマ”さん」

私が電話口で、 「そのことは谷山さんにおうかがいいたしました」 というと、少し間があって、 「あっ、 “タニヤマ”さんね」 というお答が返ってきた。  谷山さんが平板化して “タニヤマ”さんになった。  ついに名前まで平板化する時代になった。平板化すれば名前が変わる。由々しき問題である。  ご自身の名前を平板化し、口に出して言ってみてほしい。違和感をおぼえるのは当然だろう。しかし、絶えず耳にするうちに、我知らず口にするようにもなり 、ついには改名することになる。言葉は恐ろしい。  昨夕、全日本ピアノ運送さんからお電話をいただいた。ピアノは、見事に “ピアノ”に平板化していた。 “ピアノ”と言われると、子どものおもちゃのピアノを思い浮かべてしまうのは私だけだろうか。  断章が続きます。

TWEET「外向する」

  内向しなければならない気の流れが、外に向かって発散している。これでは思考することは困難である。  これは一重に自宅の解体工事の準備に慌ただしい毎日を過ごしていることに起因している。解体の準備はいまの私の仕事、と割り切れば、気も晴れようが、その内容に感情が色濃く反映されているから厄介である。  この気の重い、鬱鬱とした生活から解放され、せめて静謐の秋を迎えられることを願っている。  断片が続きます。

TWEET「健康」

  電線・電話線の、また街路灯、テレビアンテナ・アンテナ線の撤去の工事に立ち会った。 確かな仕事が、手際良く進められていく。 私の頭の内で は  “健康”という言葉が去来していた。  引きこもりがちで、不健全、非社会的な生活を送る私にとっては、刺激的だった。  明日から四日続けて工事の立ち合いがある。彼らの仕事ぶりを眺めつつ、 “健康”について思いを巡らせたいと思っている。   “健康”と “健康的”とは意味合いが違う。もちろん、私の関心は “健康”にある。  断章が続きます。

TWEET「始末屋」

 市に委託した「耐震診断調査」の結果、倒壊する可能性が高く、自宅を解体することに決めた。  昭和33年築の4世代の家族が暮らした家であり、25年間にわたって、中学生を対象とした個人塾の教室として利用した家屋でもある。思い出があり、思い入れがある。  解体工事前には、家内を空にする必要がある。いま盛んに物を運び出している。  私は始末屋であって、決して片づけ屋だとは思っていない。  惜別の念があり、名残がある。  不埒、不束、不始末は、法外と気をつけている。  2世代にわたって河合楽器の協力工場を営んでいた。自宅の ピアノは1968年製のアップライトである。自社製の部品も使われている。そのピアノを、タケモトピアノさんに5万円を支払って、引き取ってもらうことになった。2時間かけてきれいにした。2024/07/30 引き取りの予定である。  始末屋の作業には、常にやるせなさが付きまとっている。

「メメント・モリ」

 市に委託した「耐震診断調査(2023/12/19)」の報告書を、2024/01/18、建築士のSさんが、 自宅まで届け、説明してくださった。詳細で大分な書類群だった。  震度6弱の地震に対する耐力を「1〜1.5」とすると、拙宅 の耐力は「0.21」だった。「倒壊する可能性が高い」とのコメントが付されていた。躊躇うことなく、その場で解体することに決めた。  地震での死因のおよそ半数は圧死である。私が圧死するのはかまわないが、他人(ひと)に危害がおよぶと取り返しがつかない。  家屋の解体工事に際しては、家内を空にする必要がある。相続税・申告が終わるのを俟って、汗みずく、埃まみれの毎日が始まった。  以来、「読み書き」はなく、ブログも更新していない。  捨てるのは難しい。「即断即決」。迷いは禁物である。間もなく、「即断即決」とは「捨てる」ことと同義語 であることを知った。 「メメント・モリ」(「 死を忘れるな」という意のラテン語)。 生あるものは死す。 死はすべての人・もの・こととのお別れの時節である。  私はこの解体を、「我が 死に支度の嚆矢」と捉えている。 追伸: 「即断即決」,「 メメント・モリ」 の二語は、P教授から授かった。感謝している。

「紀野一義『空を語る』_新春に『四国遍路』を渉猟する」

紀野一義「空を語る」 紀野一義『「般若心経」を読む』講談社現代新書 「『色即是空』が、くるりと転換して『空即是色』になる。この時の『空』は、大きな、深いひろがりとしての空、われわれをして生かしめている仏のいのちのごときものである。そういうものの中に私たちひとりひとりの『色(しき)』がある。存在がある。」(126頁) 「『空』は、仏のいのちであり、仏のはからいであり、仏の促しであり、大いなるいのちそのものである。  そういうものがわれわれをこの世に生あらしめ、生活せしめ、死なしめる。死ねばわれわれは、その『空』の中に還ってゆくのである」(131-132頁) 「これ(「般若心経」)を唱えることは、大宇宙の律動を自分のものにすることになる。この真言とひとつになれば、自分が大宇宙そのものになる。そして、すばらしい輝きを発することになる。そう考えると、心が湧き立つようではないか。」(63頁) 玄侑宗久さんと同様のことをいっている。「意味を問うことなく、誦んじて読む」ことが肝要であることを再認識した。 「盤珪禅師」 「それからの盤珪(ばんけい)はいつでも『不生の仏心ひとつ』で押し切った。」(140頁) 「見ようの、聞こうのと、前方より覚悟なく、見たり聞いたりいたすが不生でござる、見よう、聞こうと存ずる気の生じませぬが、これ不生でござる。不生なれば不滅でござる、不滅とは滅せぬでござるなれば、生ぜざる物、滅すべきようはござらぬ。ここが面々の(不生にして霊明なる)仏心そなわりたる所でござる。」(141頁) 「盤珪は、人間が先入感によって気を動かしたり、気に特定の癖をつける気癖(きぐせ)というものを起こしたりすることを極力戒めた。そんなことをするから、犬の声が犬の声と聞こえなくなるのだという。  仏心を愚痴にし変えるな、仏心を畜生にし変えるな、大事の親の生みつけた仏心を、我が欲の汚なさに軽々しく修羅にし変えたりするな、我欲で仏心に気ぐせをつけるな、と盤珪は戒める。」(141-142頁) 「朝比奈宗源老師」  円覚寺の朝比奈宗源老師の説法も、仏心ひとつであった。老師はいつも、  「人は仏心の中に生まれ、仏心の中に生き、仏心の中に息をひきとる」と言われた。朝比奈老師は盤珪禅師を殊の外尊崇しておられた。 (中略)  老師の「仏心」は、不生不滅の仏心であり、盤珪の「不生にして霊明なる仏心」その...

「山本空外_木魚のある心象風景」

山本空外「ナムアミダブツこそは平等往生の観点から 世界文化の最高価値の民主的結晶である ー 法然上人 弁栄上人に学んで 念仏生活 ー」 「アミダさまとは大自然そのものであり、アミダさまによって永遠に人生を全うできるようにしてもらっていることに目覚めると、人間として生まれることができて、今、生きられるのは大自然のおかげであるとわかる。また死んでいってもアミダさまの世界である」 「人間は一息ごとに生きられているので、生きているということは、今のこの一呼吸でしかない、次の一呼吸もとはいえない」 「法然上人は生きていることの原点をナムアミダブツと一息でいえる言葉に見出した。今わたくしが生きている深い内容を一息でいえる言葉、一語で全仏教をおさめ得る言葉は、言語学の上からもナムアミダブツの他にない」 「法然上人は大小乗の全仏教を体系化して、念仏の一語にしぼり込んだのである。それは日本の宗派仏教で説く念仏ではない」 「もとのインド語のナムアミダブツは、人間のくらしの中で一方的に損とか得とか、善いとか悪いとか、つまるつまらぬということはないという意味だから、目先でいかなるマイナスとみえることの中にも、人間一人ひとりが生まれ甲斐を全うし、それぞれなりに人生を実らすことのできるかぎりないプラスがある。  目先の損得でうろうろせずナムアミダブツで大自然の息吹きにふれて永遠の今を生きよう」 (JOBK(NHK大阪第一放送)「こころの時代」抄録 一九九五年(平成七年)四月十一日〜十二日) (龍飛水編『廿世紀の法然坊源空 山本空外上人聖跡素描』無二会 137頁) 空外先生は、「ナムアミダブツ」は「日本の宗派仏教で説く念仏ではない」と明言されている。それは前掲した、以下の引用からもうかがえる。 『墨美 山本空外 ー 書論・各観 1979年7月号 No.292』墨美社  「たとえば良寛和尚(1757-1831)のごとき、その書は禅僧として随一のこと周知のとおりであるが、さすがにいのちの根源ともいうべき阿弥陀仏と一如の生活に徹していたのであろう。道詠にも、  草の庵ねてもさめても申すこと 南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏  不可思議の弥陀の誓ひのなかりせば 何をこの世の思ひ出にせむ  我ながら嬉しくもあるか弥陀仏の いますみ国に行くと思へば などがある。これは曹洞宗の禅僧としては、むしろ当然でもある...

會津八一「学規」

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昨夜、P教授から、 ◇ 會津八一「学規」 を読んでください、との SMSが届いた。 「Aizu Museum 早稲田大学 會津八一記念博物館蔵」 学規 一ふかくこの生を愛すへし 一かへりみて己を知るへし 一学芸を以て性を養うへし 一日々新面目あるへし 秋艸道人 流麗な筆の運びである。 法隆寺では、 「いかるが の さと の をとめ は よもすがら                      きぬはた おれり あき ちかみ かも」 また、中宮寺では、 「みほとけ の あご と ひぢ とに あまでら の                       あさ の ひかり の ともしきろ かも」 そして、唐招提寺では、 「おほてら の まろき はしら の つきかげ を                       つち に ふみ つつ もの を こそ おもへ」 の歌碑との出会いがあった。       P教授から贈っていただいた、 ◇ 植田重雄『秋艸道人 會津八一の生涯』恒文社 が、読みかけになっている。そろそろ通読する時期か、と思っている。

白川静「また、明日。 また、あした」

2021/02/11、P教授から、 ◇『別冊太陽 白川静の世界 漢字のものがたり』平凡社 の画像が添付されたメールが届いた。 表紙には、 「文字があった。 文字は 神とともにあり、 文字は 神であった」 と書かれている。 見栄えのする表紙だった。 早速、Amazon に注文した。 そして、昨日(2021/02/15)、到着した。 また、裏表紙には、 「白川静の日常。 時間は静かに流れ、 淡々と一日を終える。ただそれだけ。ただそれだけ。 それだけを繰り返し、生み出される仕事の確かさ。 また、明日。 また、あした」 と書かれている。 息の長い仕事を成し遂げる秘訣がここにある。

「早坂暁,杉本苑子,栗田勇,村上三島『わがこころの良寛』春秋社」

昨夜(2022/02/25)深更に目を覚まし、未明には、 ◆ 早坂暁,杉本苑子,栗田勇,村上三島『わがこころの良寛』春秋社 を読み終えた。 「本書は、NHKテレビ人間大学特別シリーズ「わたしの良寛」として放映された番組を基に」「何の打合せもなく」、執筆されたものであり、重複した内容も各所にみられる。 学生時代、「シナリオ文学」ばかり読んでいた時期がある。 早坂暁については、 ◆ 早坂暁『山頭火 ― 何でこんなに淋しい風ふく』日本放送出版協会 ◆ 早坂暁『円空への旅』日本放送出版協会 ◆ 早坂暁『乳の虎・良寛ひとり遊び』 の三冊を読んだ記憶があるが、『乳の虎・良寛ひとり遊び』に関しては、シナリオが見つからず、1993年放送の「 NHKテレビドラマ」を視聴したにすぎなかったのだろうか。  その検索中に本書と出会った。古書である。 『倉本聰コレクション』はいうにおよばず、 ◆ 山田太一『早春スケッチブック』新潮文庫 が、強く印象に残っている。倉本聰と山田太一は当代の双璧だった。 「文学は『言語』作品、落語は『ことば』作品」(西江雅之『「ことば」の課外授業 ― “ハダシの学者”の言語学1週間』洋泉社)「言語」では「ありがとう」と一通りにしか表記することはできないが、「ありがとう」の「ことば」は無数にある。  当時もいまも、「言語」と「ことば」の関係には興味がある。  井筒俊彦は、「存在はコトバである」と措定した。近年では「コトバ」への関心が加わった。  言葉づくしである。 栗田勇「騰々、天真に任す」 早坂暁,杉本苑子,栗田勇,村上三島『わがこころの良寛』春秋社 ◆ 荒井魏『良寛の四季』岩波現代文庫 「本書には、仏道修行に励む良寛の姿がみられないが」と書いたが、その間隙を栗田勇が埋めてくれた。秀作である。  栗田は若き日の良寛を、「非常に繊細な、感受性の強い青年」(70頁)だった、「良寛の孤独感と苦悩はただごとではな」(69頁)かったといい、良寛を「ひとりの鋭い精神的な思想家」(69頁)だった、と総評している。  栗田は、「大愚(たいぐ)」,「天真(てんしん)」,「任運(にんうん)」の三語の「良寛さんの言葉を手がかりに」して、良寛の境地の深まりを論述している。(69頁) 「任運」とは「任運自在」のことで、「天真」とは、「天真にして妙なり、迷悟に属さず」の意である。「思慮分別を...