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8月, 2021の投稿を表示しています

TWEET「P教授曰く」

「ゴッホと小林秀雄が絵で会話をした。小林秀雄の心眼はどの分野でも自由に闊歩できた異次元のもの。」

「P教授より『リルケの時間』」

「コクトーは当時の自分について、「沢山のことを知っていると思い込み、うぬぼれた青春の手の施しようのない無知の中を生きていた。名声が私に勘違いさせ、挫折よりも質の悪い名声があることを、この世のすべての名声に匹敵する一種の挫折があることを知らなかった」と振り返っている。  ずっと後になって、毎夜遅くまでランプが灯っていた部屋の住人がリルケだったことを知り、その頃のリルケに遙かなる友情をコクトーは抱く。リルケの部屋のランプが灯っているのをかつて見たことがコクトーを慰める。しかし、当時は、その灯りがその下で自分の思い上がりを焼き尽くせという合図だったことを理解することはなかった。」 「中川一政は50代半ばで、『リルケの時間』に気づいたわけです。」 「つまずきの石」は、いたる所に転がっていそうですね。 どうもありがとうございました。

小林秀雄「雪舟の明らかさ」

「雪舟」 小林秀雄『モオツァルト・無常という事』 新潮文庫  (「山水長巻」の)遠景も淡彩も装飾であるが、無論、彼は妥協なぞしているのではない。手を動かし乍ら、岩盤について瞑想(めいそう)する果てに、そういうものが自(おのずか)ら現れてくる。恐らく最も正しい意味での装飾である。茫漠(ぼうばく)たる遠景は、確固とした全景を再感させる。清楚(せいそ)な衣装(いしょう)によって、堂々たる体軀に気附く様に、淡彩は施されている。淡彩は、確かに四季の推移を語っているが、それは、まことに静かな移ろいであり、遂に四季の循環という岩の様に不動な観念に導かれる様である。何処(どこ)も彼所(かしこ)も明晰(めいせき)だ。恐らく作者の精神と事物の間には、曖昧なものが何にもないという事だろう。分析すればするほど限りなく細くなって行く様なもの、考えれば考えるほどどんな風にも思われて来るもの、要するに見詰めていれば形が崩れて来る様なもの一切を黙殺する精神、私は、そういう精神が語りかけて来るのを感じて感動した。私には、これを描いた画家が、十年後には、「慧可断臂」を描かねばならなかったのが、よく理解出来る様な気がした。(193-194頁)  今、私の机の上には、「慧可断臂図」の極くつまらぬ写真版がある。私は、それで満足である。 (中略) 壁を眺めているうちに、両足が身体にめり込んで了った男、たった今切った自分の腕を、外れた人形の腕でも拾った様な顔で持っている男、これは伝説であろうか。ところが、絵は全く逆のことを言う。益田兼尭(ますだかねたか)よりは人間である、と。  ここにも曖昧(あいまい)な空気はない。文学や哲学と馴れ合い、或る雰囲気などを出そうとしている様なものはない。達磨は石屋の様に坐って考えている、慧可は石屋の弟子の様に、鑿(のみ)を持って待ってる。あとは岩(これは洞窟(どうくつ)でさえない)があるだけだ。この思想は難しい。この驚くほど素朴な天地開闢(かいびゃく)説の思想は難しい。込み入っているから難しいのではない。私達を訪れるかと思えば、忽(たちま)ち消え去る思想だからである。  雪舟の思想は、もはや私達から遠いところにあるか。決してそんな事はないと思う。それは将来への予言かも知れないのである。ただ現に生きているという理由で、その人の言葉を、その人の顔を、現代人は信用し過ぎている。信用し過

TWEET「一枝の春を贈らん」

◇ 井筒俊彦『井筒俊彦全集 第六巻 意識と本質 1980年-1981年』 慶應義塾大学出版会 の 166頁には、圜悟克勤禅師の、 「一葉落ちて秋を知る」 の言葉が引かれている。それは、「禅的」「あるいは華厳的」了解の言葉としての引用であるが、むしろ私は叙景詩として読んでいる。禅語は韻文である、と信じている。  学生時代、「漢文 Ⅰ」の講義で、『 詩経』の「桃夭」からはじまる、とんでもない数の漢詩を、松原朗先生に暗記させられた。松原先生には毎回弄ばれていたが、私もなかなかのものだった。あの掛け合いは楽しかった。  以下、その中の一編である。   陸凱(りくがい)「贈范曄(はんよう)」               折花逢駅使   花を折りて駅使に逢ふ 寄与隴頭人   隴頭(ろうとう)の人に寄与せん 江南無所有   江南に有る所無し 聊贈一枝春   聊(いささ)か一枝(いっし)の春を贈らん 「君のもとへ行く使者に逢い、花を折ってあずけた。隴頭の人に渡してほしいと。ここ江南の地には何もないが、とりあえず一枝の春を贈りたい。」 (註)[范曄]398~445。字は蔚宗。南朝・宋の文人、歴史家。『後漢書』の著者として知られる。  [駅使]駅馬を使う公的な使者。  [隴頭]隴山のあたり。もとは西域の地名であるが、ここでは范曄のいる長安を指す。 しばらくの間、話題は、「一枝の春」でもちきりだった。

白洲正子「お能はお能にも執着してはならないのだ」

井筒俊彦『イスラーム哲学の原像』岩波新書 「しかし考えてみれば、自我が無化したといっても、その無化された自我の意識そのものが残存している限り、無もまた一種の「他者」であるわけですから」( 井筒俊彦『イスラーム哲学の原像』岩波新書  166頁)、「無もまた無化され」なければならず、また、「仏教でもよく「空」が現成したところで、その「空もまた空され」なければならないなどと申しますが、(166頁)  「無の無化」,「空の空化」が達成されたとき、はじめて自我の意識が完全に消失するのである。 「現成(げんじょう)公案」 道元『正法 眼蔵 (しょうぼうげんそう)』 「仏道をならふといふは、自己をならふなり。自己をならふというは、自己をわするるなり。自己をわするるといふは、萬法に証せらるるなり萬法に証せらるるといふは、自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり。」  上記の一節を読み、「お能はお能にも執着してはならないのだ」といった、白洲正子の言葉を思い出した。 白洲正子「吉越立雄_梅若実『東岸居士』2/4」 「吉越立雄(たつお)能の写真」 白洲正子『夢幻抄』世界文化社  あるとき、吉越さんは、ふとこんなことを口走った。  ー 舞台と見物席の間で、カメラを構えていることはたしかに辛い。またさまざまの(お能以外の)制約にしばられることも、忍耐が要(い)る。が、それとは別にシャッターを「押してりゃ写っちゃう」ときもある。  そして、その一例として、梅若実の『東岸居士(とうがんこじ)』をあげた。これは実の晩年、老人だから面をつけないでも構わないだろうといって、直面(ひためん)で演じた、そのときの写真である。  『東岸居士』というのは、十五、六歳の少年の能で、それを八十になんなんとする老人が、面なしで舞うというのだから、ずいぶん思い切った演出である。が、『東岸居士』という曲が、そもそも皮肉な着想なので、年端(としは)も行かぬ少年が、老僧のような悟りを得ており、世の中はすべてこれ「柳は緑、花は紅」、本来空(くう)なれば家もなく、父母もなく、出家してわざわざ坊さんになるまでもない。されば髪もそらず、衣も着ず、飄々として自然のままに生き、興にのったときは羯鼓(かつこ)を打ち、笛を吹いて舞い遊べば、それが即ち極楽ではないか。 「何とたゞ雪や氷とへだつらん、万法みな一如なる、実相(じつそう)

井筒俊彦「イスラームの根源的思惟形態」〈『イスラーム哲学の原像』_はじめから〉

待望の、 ◇ 井筒俊彦『イスラーム哲学の原像』岩波新書 を、つい今し方 読み終えました。 『イスラーム哲学の原像』は、イスラームの神秘主義(スーフィズム)を代表する、イブン・アラビーの実在体験と、その後の哲学的思惟によってなった、「存在一性論」的形而上学についての論考を主題としている、といってしまえば簡単だが、内容はそんなに浅薄なものではない。  神の「 慈愛の息吹き」といい、「至聖溢出(いっしゅつ)」,「神聖溢出」, 「神の自己顕現」といい、 「有無中道の実在」というも、 イブン・アラビーの手になる、 「詩的言語(術語)」であり、いきおい感銘があり、安心(あんじん)がある。 「イブン・アラビー」 若松英輔『井筒俊彦―叡知の哲学 』慶應義塾大学出版会 「存在はコトバである」という井筒俊彦の一節は、彼の思想的帰結を闡明しているだけではない。自らがイブン・アラビーの血脈に連なるものであることの宣言でもある。この神秘哲学者に出会うことがなければ、井筒の思想は全く違ったかたちになっていただろう。(280頁) 井筒はイブン・アラビーをイスラームの伝統に縛りつけない。彼がいう「東洋」に向かって開かれた位置に置く。そうした認識が、現象的には交差の痕跡がないイブン・アラビーと老荘という二つの大きな東洋神秘哲学の潮流を「共時的構造化」する Sufism and Taoism の形式を選ばせたのである。また、後年、彼は、この神秘哲学者と華厳の世界、道元の時間論、プロティノス、ユダヤ神秘主義との共時的交差を論じることになる。(285頁) 「『構造』と構造主義」 若松英輔『井筒俊彦―叡知の哲学 』慶應義塾大学出版会 絶対的超越者をイブン・アラビーは「存在(ウジュード)」と呼び、老荘は「道(タオ)」と呼んだ。文学的過ぎるとの誹りを恐れずにいうなら、この長編論考( Sufism and Taoism )は「存在」と「道」の叙事詩だともいえる。主役は著者である井筒俊彦でないばかりか、彼が論じた東洋哲学の先達でもない。超越的絶対者である「存在」であり「道」なのである。序文(Sufism and Taoism )に著者自身が記しているように。試みられたのは、東洋哲学における「存在」論的構造の論究に他ならない。井筒の視座もイブン・アラビー、あるいは老荘といった人間に据えられているのではない。むしろ人間

井筒俊彦「コスモスとアンチコスモス」

「コスモスとアンチコスモス ー 東洋哲学の立場から」 「『コスモスとアンチコスモス』後記」 『井筒俊彦全集 第九巻 コスモスとアンチコスモス 一九八五年 ― 一九八九年』 慶應義塾大学出版会  このようなコスモス(「有意味的存在秩序」)観にたいして、東洋哲学は、おそらくこう主張するだろうと思います。たしかに、「有」がどこまでも「有」であるのであれば、そういうことになるでもあろう。しかし、「有」が究極においては「無」であり、経験世界で我々の出合うすべてのものが、実は「無」を内に抱く存在者(「無」的「有」)であり、要するに絶対無分節者がそのまま意味的に分節されたものであることを我々が悟る時、そこに自由への「開け」ができる。その時、世界(コスモス的存在秩序)は、実体的に凝り固まった、動きのとれない構造体であることをやめて、無限に開け行く自由の空間となる、と。なぜなら、一々のものが、それぞれ意味の結晶であり、そして意味なるものが人間意識の深層に淵源する柔軟な存在分節の型であるとすれば、「無」を体験することによって一度体験的に解体され、そこから甦った新しい主体性 ー 一定の分節体系に縛りつけられない融通無碍な意識、「柔軟心」 ー に対応して、限りなく柔軟なコスモス(限りなく内的組み替えを許すダイナミックな秩序構造)が、おのずからそこに拓けてくるであろうから、であります。  東西の哲学的叡知を融合した形で、新しい時代の新しい多元的世界文化パラダイムを構想する必要が各方面で痛感されつつある今日の思想状況において、もし東洋哲学に果すべきなにがしかの積極的役割があるとすれば、それはまさに、東洋的「無」の哲学が、今お話したような、内的に解体されたアンチコスモス的なコスモス、「柔軟なコスモス」の成立を考えることを可能にするというところから出発する、新しい「柔軟心」の思想的展開であるのではなかろうか、と私は思います。(343-344頁)  上記は講演の掉尾の部分である。自分の覚え書きとして引用した。何の説明もなく、ただこれだけを読んで解るとはとても思えないが、ご寛恕を請うことにする。  「カオス」をめぐるこの現代的特異事態は、勿論、さまざまに異なる説明を許容するであろうが、なんといっても先ず第一に指摘されなければならないのは、「カオス」あるいは「カオス的なもの」が最近、とみに異常な攻撃的性

TWEET「萩の花くれぐれ迄もありつるが」

 いま 5人のシルバーさんに庭の除草をしていただいています。  毎年植生が変わり、今夏は庭一面「山萩」で覆われ、大変なことになっています。はじめてのことです。   萩の花くれぐれ迄もありつるが月出でて見るになきがはかなさ  実朝  花期を前にしての狼藉に胸が痛みます。除草を依頼する時期を誤りました。無粋でした。  小径をはさんだ西隣りでは、建築工事が盛んに行われ、けたたましく、ノイズはキャンセルするに如くはなく、しばし活字から離れ、目を閉じ、耳を澄ますことにしました。 「瞳を閉じて」 「耳をすませば」 秋の胎動とともに、恨めしくも、「明月」と繊美な「白萩の花」のことがしきりに思われます。

「井筒俊彦における実存的経験と言語アラヤ識について」

第九章『意味と本質』 若松英輔『井筒俊彦―叡知の哲学 』慶應義塾大学出版会   和歌における「見る」働きに、実存的ともいえる特別な意味を込めて論じたのが、白川静だった。新古今あるいは万葉にある、「眺め」、「見ゆ」という視覚的営為に、二人(白川静と井筒俊彦)が共に日本人の根源的態度を認識しているのは興味深い。この符合は、単なる学術的帰結であるよりも、実存的経験の一致に由来するのだろう。  井筒俊彦が根本問題を論じるときはいつも、実存的経験が先行する。むしろ、それだけを真に論究すべき問題としたところに、彼の特性がある。プラトンを論じ、「イデア論は必ずイデア体験によって先立たれなければならない」(『神秘哲学』)という言葉は、そのまま彼自身の信条を表現していると見てよい。 (351-352頁)  「種子」は、すなわち意味であると井筒はいう。彼は(仏教の)唯識思想を単に焼き直し、踏襲しているのではない。その伝統に彼もまた参与しているのである。彼にとって、真実の意味における継承は深化と同義だった。  「唯識哲学の考えを借りて、私はこれ〔言語アラヤ識〕を意味的『種子(ビージャ)』が『種子』特有の潜勢性において隠在する場所として表象する」としながら、阿頼耶識の奥、「コトバ(実在、絶対的超越者、超越的普遍者、絶対無分節者)」が意味を産む場所を「言語アラヤ識」と呼び、特別の実在を与えた。「言語アラヤ識」と命名すべき実在に彼が遭遇し、それに論理の体を付与したとき、井筒は「東洋哲学」の伝統の継承者から、刷新者の役割を担う者となった。(380-381頁)  井筒俊彦『イスラーム哲学の原像』岩波新書 「要するに、神秘家たちの哲学的立場は、ヤスペルスの表現を使えば一つの「哲学的信仰」(philosophischer Glaube)であります。しかしここまでくれば、どんな哲学もそれぞれの「哲学的信仰」の基礎の上にうち立てられたものといわざるを得ません。」(109頁)  信仰を広義にとらえたとき、世に信仰なき者はないといえよう。私は井筒俊彦の解釈する「哲学的信仰」にしたがう。宗教、宗派、学派色からきっぱりと袖を分かった井筒による東洋「哲学的信仰」である。

井筒俊彦「異文化間対話の究極的な理想像_3/3」

「文化と言語アラヤ識」 『井筒俊彦全集 第八巻 意味の深みへ 1983年-1985年』 慶應義塾大学出版会  異文化の接触とは、根源的には、異なる意味マンダラの接触である。我々が既に見たように、意味マンダラは、特にそのアラヤ識的深部(「言語アラヤ識」)において、著しく敏感なものだ。刻々に消滅し、不断に遊動する「意味可能体」は、それ自体において既に、本性的に、かぎりない柔軟性と可塑的とをもっている。まして、異文化の示す異なる意味マンダラに直面すれば、鋭敏にそれに反応して、自らの姿を変える。だから、異文化の接触が、もし、文化のアラヤ識的深部において起るなら、そこに、意味マンダラの組みかえを通して、文化テクストそのものの織りなおしの機会が生じることはむしろ当然のことでなくてはならない。文化の新生。新しい、より包括的でより豊富な、開かれた文化の誕生する可能性が成立する。そこにこそ、我々は、異文化接触の意義を見るべきなのではないか。そして、それこそ異文化間対話の究極的な理想像であるべきなのではないか、と私は思う。(181頁) 〈対談〉井筒俊彦 司馬遼太郎「附録 二十世紀末の闇と光」 司馬遼太郎『十六の話』中公文庫  当対談は、お二人が挨拶を交わされた後、司馬遼太郎の、 「私は井筒先生のお仕事を拝見しておりまして、常々、この人は二十人ぐらいの天才らが一人になっているなと存じあげていまして。」(399頁) の発言にはじまり、また司馬の、 「やっぱり哲学者は違うなあ(笑)。だから、われわれは世界に対して光明を求めあう。そういうことが今日の結論ですね。」 の言葉で幕を閉じた、井筒俊彦 生前最後の対談を思い出す。  感動的であり美しくさえある帰結である。「深層意識的言語哲学」者である井筒俊彦の面目躍如である。 以下、 井筒俊彦「コトバの、また文化の圧制的側面_1/3」 「井筒俊彦が散文詩で綴った『言語アラヤ識』、そして『意味可能体_2/3』 です。ご参考まで。

「井筒俊彦が散文詩で綴った『言語アラヤ識』、そして『意味可能体_2/3』」

「文化と言語アラヤ識」 『井筒俊彦全集 第八巻 意味の深みへ 1983年-1985年』 慶應義塾大学出版会   だが、実は、言語は、従って文化は、こうした社会制度的固定制によって特徴づけられる表層次元の下に、隠れた深層構造をもっている。そこでは、言語的意味は、流動的、不動的な未定形性を示す。本源的な意味遊動の世界。何ものも、ここでは本質的に固定されてはいない。すべてが流れ、揺れている。固定された意味というものが、まだ出来上っていないからだ。勿論、かつ消えかつ現われるこれらの意味のあいだにも区別はある。だが、その区別は、表層次元に見られるような固定性をもっていない。「意味」というよりは、むしろ「意味可能体(「意味種子」)」である。縺れ合い、絡み合う無数の「意味可能体」が、表層的「意味」の明るみに出ようとして、言語意識の薄暮のなかに相鬩(せめ)ぎ、相戯(たわむ)れる。「無名」が、いままさに「有名」に転じようとする微妙な中間地帯。無と有のあいだ、無分節と有分節との狭間(はざま)に、何かさだかならぬものの面影が仄かに揺らぐ。「意味」生成のこの幽邃な深層風景を、『老子』の象徴的な言葉が描き出す。曰く、(後略)(172頁)  このような観点から見られたアラヤ識は、明らかに、一種の「内部言語」あるいは「深層言語」である。辞書に記載された形での語の意味に固定化する以前の、多数の「意味可能体」が、下意識の闇のなかに浮遊している。茫洋たる夜の闇のなかに点滅する無数の灯火にでも譬えようか。現われては消え、消えては現われる数かぎりない「意味可能体」が、結び合い、溶け合い、またほぐれつつ、瞬間ごとに形姿を変えるダイナミックな意味関連の全体像を描き続ける。深層意識内に遊動するこの意味関連の全体が、日常的意識の表面に働く「外部言語」の意味構造を、いわば下から支えている。我々の経験的「現実」の奥深いところでは、「意味可能体」の、このような遊動的メカニズムが、常に働いているのである。(178頁)

井筒俊彦「コトバの、また文化の圧制的側面_1/3」

「 文化と言語アラヤ識」 『井筒俊彦全集 第八巻 意味の深みへ 1983年-1985年』 慶應義塾大学出版会 コトバの意味作用の機構そのもののなかに、権力、強制が組み込まれている。コトバは、何を、いかに言うべきかを、人に強制する。そして(ロラン・)バルトは、コトバは、もともとファシスト的なものだ、という、一見、極端とも思えるような発言をする。 (中略)  私はこれに更に次の一言をつけ加えたい。すなわち、コトバは、何を、どう言うべきかを強制するだけでなくて、何をどう見るべきかをも強制する、と。コトバが分類様式であるならば、個々の言語(ラング)は、それぞれ特殊な(存在)分類のシステムでなくてはならない。それは、その言語を語り、その言語でものを考える人々に、ある一定の世界像を強制する。一つの言語は、一つの自然的解釈学の地平を提供する。我々はそれによって「世界」を見、それによって「現実」を経験する。経験するように強制されるのだ。(170頁) 一体、バルトがコトバの本源的分類性について語り、コトバのファシスト的圧制を云々する時、彼は主としてそれの社会制度的表層を見ているのである。たしかに、独立した一つの社会制度としてのコトバ、すなわち各個別言語は、意味論的には、一定数の意味分節単位(いわゆる単語)の有機的連合体系であって、それらの意味単位は、それぞれ、本質的に固定されて動きのとれないようになっている。このようなレベルで働くコトバの意味形象機能は、当然、固定して動きのとれない事物、事象からなる既成的世界像を生み出す。出来合いの意味形象が描き出す出来合いの存在絵模様だ。無反省的な日常生活において、人は誰でもそんな出来合いの「世界」に生きているのである。  だから、もしコトバが、このような社会制度的表層レベルに見られるものだけに終始するものとすれば、そして、もし文化が、言語表層で形成される「現実」だけに基礎づけられているものだとすれば、文化は、社会制度的因襲によってかっちり固定され、力動的な創造性を喪失した紋切り型の思惟、紋切り型の感情、紋切り型の行動のパターンにすぎないことになるだろう。言い換えれば、文化は、決まりきった型にはまった、実存的に去勢された意味、人間生活の社会制度的表面にようやく生命を保つ、憔悴した意味のシステムであることだろう。(171-172頁)  文化はコトバに

TWEET「処暑の日に李白を思う」

「処暑とは、厳しい暑さの峠を越した頃、朝夕には涼しい風が吹き、心地よい虫の声が聞こえてきます。暑さが和らぎ、穀物が実り始めますが、同時に台風の季節の到来でもあります。」  まだ明けやらぬころ、窓を開け放った。秋気をはらんだ涼風が心地よかった。西の空を望んだが満月の影はなかった。  酒仙と称される李白は、酔いに任せ、舟 遊びの最中(さなか)に、川面 に浮かぶ明月を手にしたく、手をさし伸べ、転落して溺死した、といわれている。 詩人 として、これほどみごとな最期を、私は知らない。  あと幾順かすると、仲秋の名月である。明月のことは李白に倣うに如くはなく、と固く信じている。  立ちはだかるコロナ禍、梅雨時を思わせる長雨、打ち続く災害、処暑の日の今日、終息を祈るばかりである。  整然たる日月星辰の運行が救いとなっている。

「井筒俊彦が見た存在風景」

 話題は「明恵上人」、また「明恵上人」が帰依した「華厳の世界」にはじまり、「空海」に目移りし、「禅」にいたった。 それは、 ◇『井筒俊彦全集 第六巻 意識と本質 1980年-1981年』 慶應義塾大学出版会 を再読することであった。図らずも原点に回帰した。 「Ⅸ」章には、「表層・深層意識の構造モデル」を基にした、 「元型」また「元型」イマージュの実相についての叙述があり、 「Ⅵ」章,「Ⅶ」章は、「禅(無『本質』的存在分節)」に関する「論究」に割かれている。また「真言密教」については、「Ⅹ」章に登場する。 「禅を無彩色文化とすれば、密教は彩色文化だ、と言った人がある。」(「Ⅹ」章 244頁) の一文が印象的だった。  三度四度(みたびよたび)におよぶ読書で、細部にまで 眼が届くようになった、誤認をその都度訂正した。  宗教、宗派色に染まることなく、観念に転落することなく、井筒俊彦は生気に満ちた「東洋哲学」を共時的に展開した。それらは皆、井筒が、深層意識の「諸相を体験的に拓きながら」見た「存在風景」であり、そして その後、形而上学として語られたものである。井筒俊彦を介さなければ、易々とは近づけない世界である。 「私は井筒先生のお仕事を拝見しておりまして、常々、この人は二十人ぐらいの天才らが一人になっているなと存じあげていまして。」 ( 司馬遼太郎『十六の話』中公文庫, 〈対談〉井筒俊彦 司馬遼太郎「附録 二十世紀末の闇と光」 399頁) とは、司馬遼太郎のことばであるが、井筒俊彦の偉業を前にして私淑しない法はあるまい。  先にも書いたが、井筒俊彦の著作群は、私にとっては「実学」の書であり、実用の書であり、やむに止まれぬ書である。そしてその点において、井筒俊彦は、どうしようもなく福澤諭吉門下の学徒である。

井筒俊彦「禅_無『本質』的存在分節_はじめから」

◇『井筒俊彦全集 第六巻 意識と本質 1980年-1981年』 慶應義塾大学出版会 を再読三読した。「はじめから」という読書体験は、私の不甲斐なさゆえに、「はじめて」のように映った。井筒俊彦の手さばきは、初読時にもまして鮮やかに映じた。 「意識はいろいろ違った仕方で意識であり得る、とメルロー・ポンティが書いている」(99頁) との記述があるが、「意識は(が)いろいろ違った仕方で意識であり得る」ならば、禅における無「本質」論を含め、 「本質はいろいろ違った仕方で本質であり得る」 ことに相違ないが、井筒俊彦の用いる、「本質」という術語に戸惑っている。 「Ⅵ」章,「Ⅶ」章は、「禅(無『本質』的存在分節)」に関する「論究」に割かれている。 「通常、言語道断とか言詮不及と称される禅体験のこの機微を、できるところまで、敢えて言語化してみよう。」(168頁) との、婉曲的な表現とは裏腹に、井筒俊彦は、易々と、「言語道断」という掟破りをしてのけた。細大漏らさずということに疑念をはさむ余地はない。 「文化的無意識」としての「言語アラヤ識」の考察もあり、興味は尽きなかった。 玄侑宗久「井筒病」 『井筒俊彦全集 第八巻』 月報第八号 2014年12月 慶應義塾大学出版会  今でも私は、井筒先生の禅にまつわる著述に出逢ったときの興奮が忘れられない。禅僧以外で、これほど明晰に禅を語った人がいただろうか。いや、禅僧は禅の内部で語るのだから「明晰に」というわけにはいかない。あらゆる哲学や宗教を知り尽くした井筒先生だからこそ、思想としての禅の位置づけが明晰になされたのだろう。禅の詩的な側面をうまく取り出し、世界に紹介したのが鈴木大拙翁の功績だとすれば、井筒先生は禅の奇特さを世界的な思想の枠組みの中に示してくださった。私などに申し上げる資格がないのは明らかだが、禅にとって井筒先生は天恵の如き存在であったと思う。  『禅仏教の哲学に向けて』は勿論貴重な著作だが、むしろ『意識と本質』において、試みられた東洋的広がりの中での禅の位置づけと分析が、私には極めて刺激的だった。いったいこれほど広く深く綿密な仕事がどうしたら可能なのかと、驚嘆しながら読み進めた覚えがある。後記の「小品程度」という謙虚な述懐が私にはさらにショックだった。 (中略) それにしても、『意識と本質』の如き著作が、単に博覧強記や明晰な分析だ

「存在はコトバである」_「井筒俊彦の風景」としての「空海の風景」

  井筒俊彦は、「存在はコトバである」と措定した。「言語哲学者」としての空海の内に、井筒は同様のものを認めた。空海は、日本で最初の「深層的言語哲学者」だった。  なお、「井筒俊彦の風景」としての「空海の風景」とは、「言語に関する真言密教の中核思想を、密教的色づけはもちろん、一切の宗教的枠づけから取り外し」、「一つの純粋に哲学的な、あるいは存在論的な立場」(『井筒俊彦全集 第八巻 意味の深みへ 1983年-1985年』 慶應義塾大学出版会,「言語哲学としての真言」,425頁)から眺めた際に広がる「空海の風景」のことである。 『井筒俊彦全集 第六巻 意識と本質 1980年-1981年』 慶應義塾大学出版会 「存在分節の過程を、空海は深みへ、深みへ、と追っていく。意識の深層に起って表層に達するこの世界現出の過程を、逆の方向に遡行するのだ、ついに意識の本源に到達するまで。「究竟して自心の源底を覚知」する、と彼の言う(『十住心論』)その「自心の源底」に至りつくまで。  存在分節過程のこの遡行において、空海の鋭い眼は、存在分節の言語的性格を見抜く。存在分節が、元来、コトバの意味の作用によるものであるということは、表層意識の面だけ見ていたのでは、なかなかわからない。だが、分節された様々の事物の生起過程を意識の深みにまで追っていくと、分節そのものの言語意味的性格が、次第に現われてくる。すなわち、経験的事物として我々の表層意識に現象する前に、存在分節は、深層意識において、純粋な意味形象(イマージュ)だったのだ、ということが。  これらの純粋意味形象は、いずれも、空海のいわゆる「自心の源底」のエネルギーが、本論で私が言語アラヤ識と呼んできた深層意識の言語的基底の網目構造を通して第一次的に分節された形姿。そして意識の源底はすなわち存在の源底。存在の究極の源底(「法身」)それ自体を、空海は大日如来として形象化する ー より正確には、空海の深層意識に、存在の源底が大日如来のイマージュとして自己顕現する。だから、空海にとっては、存在界の一切が究極的、根源的には大日如来のコトバである。つまり一切が深層言語現象である。(221-222頁) 若松英輔『井筒俊彦―叡知の哲学 』慶應義塾大学出版会  空海における密教、すなわち真言密教もまた、「コトバ」を「万物の始原であり、帰趨」とする、「コトバ」の秘教

井筒俊彦「言語哲学としての真言」

今日の午後、 ◇ 井筒俊彦『井筒俊彦全集 第八巻 意味の深みへ』慶應義塾大学出版会 ◆「言語哲学としての真言」 を読み終えた。前掲の、 ◆ 「意味分節理論と空海 ー 真言密教の言語的可能性を探る」 と比較し、洗練された内容のものとなっている。  天籟(てんらい)、人間の耳にこそ聞えないけれども、ある不思議な声が、声ならざる声、音なき声が、虚空を吹き渡り、宇宙を貫流している。この宇宙的声、あるいは宇宙的コトバのエネルギーは、確かに生き生きと躍動してそこにあるのに、それが人間の耳には聞こえない、ということは、私が最初にお話しいたしました分節理論の考え方で申しますと、それが絶対無分節の境位におけるコトバであるからです。絶対無分節、つまり、まだ、どこにも分かれ目が全然ついていないコトバは、それ自体ではコトバとして認知されません。ただ巨大な言語生成の原エネルギーとして認知されるだけです。しかし、この絶対無分節のコトバは、時々刻々に自己分節して、いわゆる自然界のあらゆる事物の声として自己顕現し、さらにこの意味分節過程の末端的領域において、人間の声、人間のコトバとなるのであります。  このように自己分節を重ねつつ、われわれの耳に聞える万物の声となり、人間のコトバとなっていく宇宙的声、宇宙的コトバそれ自体は、当然、コトバ以前のコトバ、究極的絶対言語、として覚知されるはずでありまして、こうして覚知されたあらゆる声、あらゆるコトバの究極的源泉、したがってまた、あらゆる存在の存在性の根源であるものを、真言密教は、大日如来、あるいは法身として表象し、他の東洋の諸宗教はしばしば神として表象いたします。(442-443頁) (註) 天籟:『荘子』の「内篇」第二「斉物論」に出てくる、「虚空、すなわち無限に広がる宇宙空間を貫いて、色もなく音もない風が吹き渡っている。宇宙的な風、これが天籟です。」(441頁) 『空海の風景』_井筒俊彦 読書覚書 2018/03/30 「空海の風景」が突然ひろがった。思いもかけないことだった。井筒俊彦の透徹した眼には、至極当然の配列なのだろうが、事物相互の関連が寸断され、事物が箇々別々に映っていた私にとっては、唐突な出来事だった。  井筒俊彦が語るのは哲学である。払拭され昇華されたものが、共時的に把捉されているのがうれしい。  信仰なき、寄る辺なき私にとって、井筒俊彦

井筒俊彦「意味分節理論と空海 ー 真言密教の言語的可能性を探る_はじめから」

 昨日の夕暮れ時、 ◇『井筒俊彦全集 第八巻 意味の深みへ』 慶應義塾大学出版会 ◆ 「 意味分節理論と空海 ー 真言密教の言語的可能性を探る」 を再読した。  本論は、空海の「真言密教」とファズル・ッ・ラーのイスラーム的「文字神秘主義」、そしてカッバーラー(ユダヤ教神秘主義)とを対照するなかで、「言語哲学」的、また「深層的言語哲学」的に、「ともにきわめて特徴ある同一の思考パターンに属」(414-415頁)することを確認しながら展開され、それは東洋哲学の「共時的構造化」の一端を披歴したものとなっている。 「普通、仏教では、この(意識と存在の究極的絶対性の領域、絶対超越の)次元での体験的事態を、「言語道断」とか「言亡(ごんもう)慮絶」とかいう。つまり、コトバの彼方、コトバを越えた世界、人間のコトバをもってしては叙述することも表現することもできない形而上的体験の世界である、ということだ。  このような顕教的言語観に反対して、空海は「果分可説」を説き、それを真言密教の標識とする。すなわち、コトバを絶対的に超えた(と、顕教が考える)事態を、(密教では)コトバで語ることができる、あるいは、そのような力をもったコトバが密教的体験としては成立し得る、という。この見地からすれば、従って、「果分」という絶対意識・絶対存在の領域は、本質的に無言、沈黙の世界ではなく、この領域にはこの領域なりの、つまり異次元の、コトバが働いている、あるいは働き得る、ということである。」(391頁) 「大乗仏教では、人間の日常的経験世界、いわゆる現象界の事物の本性を説明して、すべては「妄想分別」の所産であるという。唯識系の術後には、「遍計所執(へんげしょしゅう)」という表現もある。つまり、我々 普通の人間は、現象的世界を「現実」と呼び、そこに見出される事物を、我々の意識から独立して客観的に実在するものと思いこんでいるけれども、実はそれらは、すべて人間の意識が妄想的に喚起し出した幻想である、というのである。」(396頁) 「この世のすべては、畢竟するに言語的妄想の所産、夢まぼろし、空しき虚構。それがすなわち、この世の儚(はかな)さというものだ。  しかるに、同じ大乗仏教のなかにあって、真言密教だけは、例外的に、コトバの意味分節の所産である経験的世界の事物事象の実在性を、正面から肯定する。なぜだろう。いうまでも

「司馬遼太郎『空海の風景』から展がる景色」

  大岡信「解説」 司馬遼太郎『空海の風景』中公文庫  書きあげられた『空海の風景』は、まさしく小説にちがいなかったが、伝記とも評伝ともよばれうる要素を根底に置いているがゆえに、空海を中心とする平安初期時代史でもあれば、密教とは何かに関する異色の入門書でもあり、最澄と空海の交渉を通じて語られた顕密二教の論でもあり、またインド思想・中国思想・日本思想の、空海という鏡に映ったパノラマでもあり、 中国文明と日本との交渉史の活写でもあるという性格のものになった。   これらはすべて、司馬遼太郎という作家において最もみごとに造形されうる主題であっただろう。  本書は、丹念な考証の積み重ねとその間隙を埋めるべく、司馬のたくましい想像と創造によって織りなされた、司馬遼太郎の目に映った『空海の風景』です。「異色」の小説です。たいそうな「入門書」です。真言密教、大日経に関する記述が少なく、残念な思いもしましたが、「入門書」と考えれば十分に納得がいきます。 ◇『空海の風景』 を読み終え、その後、 ◇ 司馬遼太郎『十六の話』中公文庫  を読みました 。特に、 ◆「華厳をめぐる話」(99-146頁) ◆「対談 司馬遼太郎 井筒俊彦 付録 二十世紀末の闇と光」(397-441頁) は、示唆に富んでいます。『空海の風景』から展がる景色を楽しみたいと思っています。

井筒俊彦「事事無礙・理理無礙 ー 存在解体のあと」

今日の未明、 ◇ 井筒俊彦『コスモスとアンチコスモス ー東洋哲学のためにー』岩波文庫 ◆「事事無礙・理理無礙 ー 存在解体のあと」 「1「 理事無礙」から「事事無礙」へ」 「2 「理理無礙」から「事事無礙」へ」 を読み終えた。なお、 「1「 理事無礙」から「事事無礙」へ」 は再読しなければ覚束なく、その際には、気分を一新し、岩波文庫ではなく、 ◇ 井筒俊彦『井筒俊彦全集 第九巻 コスモスとアンチコスモス』慶應義塾大学出版会 で読んだ。  明恵上人が帰依した華厳、さらに井筒俊彦が、「 一切の宗教的枠づけから取り外し」「一つの純粋に哲学的な、あるいは存在論的な立場」(『井筒俊彦全集 第八巻 意味の深みへ』 慶應義塾大学出版会  425頁)から眺めた際に広がる「華厳哲学」についての発言とあらば、私にとっては座右の書である 。 幾度かにわたる、勝手知ったる読書体験だったが、 「1「 理事無礙」から「事事無礙」へ」 は再読しなければ、理解が及ばず、久しぶりの井筒俊彦であり、その文体にすっかり置いてけぼりを喰った格好だった。 「事事無礙・理理無礙 ー 存在解体のあと」 『井筒俊彦全集 第九巻 コスモスとアンチコスモス』 慶應義塾大学出版会  この講演のテーマとして私が選びました「事事無礙」は、華厳的存在論の極致、壮麗な華厳哲学の全体系がここに窮まるといわれる重要な概念であります。(8頁)  この引用箇所で、(新プラトン主義の始祖)プロティノスは深い瞑想によって拓かれた非日常的意識の地平に突如として現れてくる世にも不思議な(と常識的人間の目には映る)存在風景を描き出します。「あちらでは…」と彼は語り始めます。「あちら」、ここからずっと遠いむこうの方 ー 勿論、空間的にではなく、次元的に、日常的経験の世界から遥かに遠い彼方、つまり、瞑想意識の深みに開示される存在の非日常的秩序、ということです。「あちらでは、すべてが透明で、暗い翳りはどこにもなく、遮(さえぎ)るものは何一つない。あらゆるものが互いに底の底まですっかり透き通しだ。光が光を貫流する。ひとつ一つのものが、どれも己れの内部に一切のものを包蔵しており、同時に一切のものを、他者のひとつ一つの中に見る。だから、至るところに一切があり、一切が一切であり、ひとつ一つのものが、即、一切なのであって、燦然たるその光輝は際涯を知らぬ。ここで

河合隼雄『明恵 夢を生きる』_はじめから

今朝いまだ明けやらぬころ、 ◇ 河合隼雄『明恵 夢を生きる』京都松柏社 を読み終えた。  『明恵 夢を生きる』は、1987/04/25 に出版され、間もなく読んだ。学生時代のことだった。明恵上人をはじめて知り、井筒俊彦と出会い、はじめて華厳の世界に触れた。「華厳の世界」(284-290頁)の項に引かれた井筒俊彦の文章は明晰である。その後、井筒俊彦『叡智の台座 ー 井筒俊彦対談集』を求めた。『明恵 夢を生きる』には、白洲正子『明恵上人』新潮社 からのいくつかの引用があるが、白洲正子の作品に親しむようになったのは、ずいぶん経ってからのことである。またその前年には、河合隼雄『宗教と科学の接点』岩波書店(1986/05/15)を読んだ。  その後再読を促されていたが、ようやく念願がかなった。  明恵上人は、「十九歳より夢の記録(『夢記(ゆめのき)』)を書きはじめ、死亡する一年前までそれを続けた」。それには、「今日で言う夢の解釈に相当するものを書いている場合もある」。「明恵の『夢記』は、世界の精神史のなかにおいても稀有なものである」と河合隼雄は述べている。  また河合隼雄は、 「明恵が信じたのは、仏教ではなく、釈迦という美しい一人の人間だったといえましょう」(76頁) との、白洲正子『明恵上人』の中の一文を引いているが、この一文ほど明恵上人を明らかに評した文を私は知らない。  ユングのいう「個性化」といい「自己実現」というも、死と再生の物語であり、ときには死を賭す場面もあり、困難な長く険しい道のりである。  本書は論文調の体裁をとっており、多くの参考文献、また「本文索引」が付されているのはありがたい。  なお、跋文には、 「仏教についてはまったくの無知であったが、ただ、夢のことについては専門家であると自負している。昭和四十五年にスイスから帰国して以来、現在に至るまで夢分析の仕事を続けてきた。(中略)本書に述べた『夢記』に対する私の意見は、実に多くの他の夢を分析してきた経験を踏まえての発言であることを明らかにしておきたい。」(309頁) との断り書きがある。 「夢の中の女性像の変化が、明恵の内的な成熟の過程を示していることを詳しく見てきたが、それと平行して、明恵の信奉していた華厳の教えに沿った夢の展開が、『夢記』のなかに認められる。明恵にとっては、現実に行なう修行も夢も同等の価

TWEET「曇り時々晴れ」

すべてはここに端を発した。以下、2021/06/03 の季節外れのブログである。 TWEET「野分立つ」  野分立ち、今夜半から荒れ模様の予報である。 『風立ちぬ』、秋草は風に吹かれるままに、葉擦れの音が聞こえる。  春愁秋思といえば、一休かと思い、 ◇ 水上勉『一休』中公文庫 を手にし、また良寛かと思い、 ◇ 水上勉『良寛』中央公論社 をしばし手に取ったが、読むまでにはいたらず。   気象も手伝ってか、迷宮入りした。 追伸:『徒然草』を読むことにしました。秋の夜長に古典事始めです。  気まぐれで書いた追伸から駒が出た。そして、いまに至っている。 通読を旨とする、また初読後に間もなく再読という読書習慣が身についた。この間(かん)の読書体験は貴重だった。 ◇ 兼好法師,小川剛生訳注『新版 徒然草 現代語訳付き』 角川ソフィア文庫 ◇ 世阿弥,竹本幹夫訳注『風姿花伝・三道 現代語訳付き』 角川ソフィア文庫 ◇ 清少納言,島内裕子訳校訂『枕の草子 上,下』ちくま学芸文庫 ◇ 兼好,島内裕子校訂訳『徒然草』ちくま学芸文庫 ◇ 高田祐彦訳注『古今和歌集  現代語訳付き』 角川ソフィア文庫 ◇ 井上靖『本覚坊遺文』講談社文芸文庫 ◇ 白洲正子『西行』新潮文庫 ◇ 白川静『初期万葉論』中公文庫 ◇ 中西進『古代史で楽しむ 万葉集』角川ソフィア文庫 ◇ 二宮敦人『最後の秘境 東京藝大: 天才たちのカオスな日常』新潮文庫 ◇ 小林秀雄『本居宣長 (上,下 )』新潮文庫 ◇ 小林秀雄『モオツァルト・無常という事』 新潮文庫 ◆「実朝」,「西行」,「平家物語」 ◇ 高田祐彦訳注『古今和歌集  現代語訳付き』 角川ソフィア文庫 を読み終えるまでに 7日かかり、 ◇ 小林秀雄『本居宣長 (上,下 )』新潮文庫 の初読、また再読には 25日を要した。  脳内で落ち着くまでには多少の時間が必要だろう。 「曇り時々晴れ」、晴れ間がのぞく時間帯があってよかった。「雨読」はやりきれない。 山村修『増補 遅読のすすめ』ちくま文庫 「緒方洪庵の塾で、塾生たちには昼夜の区別がなく、蒲団をしいて枕をして寝るなどということは、だれも一度もしたことがない。読書にくたびれて眠くなれば、机に突っ伏して眠るばかりだったと、『福翁自伝』に書かれていたのを思い出す。これが書生の読書である。」  これに対して、倉田卓次の読書

小林秀雄「無常の思想の如きは、時代の果敢無(はかな)い意匠に過ぎぬ」

小林秀雄「平家物語」 小林秀雄『モオツァルト・無常という事』 新潮文庫  小林秀雄「平家物語」は、紙数にして、わずか五頁ばかりの作品だが、秀逸であり抜きん出ている。幾度となく各所で引用させていただいている。 「成る程、佐々木四郎は、先がけの勲功を立てずば生きてあらじ、と頼朝の前で誓うのであるが、その調子には少しも悲壮なものはない。勿論(もちろん)感傷的なものもない。傍若無人な無邪気さがあり、気持ちのよい無頓着さがある。人々は、「あっぱれ荒涼な(大口をたたく意)申しやうかな」、と言うのである。頼朝が四郎に生食(「いけずき」という名の名馬)をやるのも気紛(きまぐ)れに過ぎない。無造作にやって了(しま)う。」(143-144頁) と、手心を加えることなく、集中砲火を浴びせかけているのはおもしろく、示唆に富んでいる。 「(『平家物語』の)一種の哀調は、この作の叙事詩としての驚くべき純粋さから来るのであって、仏教思想という様なものから来るのではない。「平家」の作者達の厭人(えんじん)も厭世(えんせい)もない詩魂から見れば、当時の無常の思想の如(ごと)きは、時代の果敢無(はかな)い意匠に過ぎぬ。鎌倉文化も風俗も手玉に取られ、……」(147頁) 小林秀雄『私の人生観』大和出版  「諸行無常という言葉も、誤解されている様です。現代人だから誤解するのではない、昔から誤解されていた。平家にある様に「おごれる人も久しからず、唯春の世の夢の如し」そういう風に、つまり「盛者必衰のことわりを示す」ものと誤解されて来た。太田道灌がまだ若い頃、何事につけ心おごれる様があったのを、父親が苦が苦がしく思い、おごれる人も久からず、と書いて与えたところが、道灌は、早速筆をとって、横に、おごらざらる人も久しからず、と書いたという逸話があります。」(27頁)  諸行は無常であり、万物は流転す、私も誤解していたうちの一人である。  年を古るごとに「無頓着で、無造作な、我が儘の」、また「悲壮感もなければ感傷もなく、傍若無人で、気紛れな」、「無邪気に」なってゆく自分を感じているが、それも緒に就いたばかりのことで、その行方は依然として不透明である。   「ひとへに風の前の塵に同じ」。自分を塵芥の類と思えば、平安が訪れるが、「塵」のすぐ後には、「塵にも五分の魂」と続くので厄介である。

「小林秀雄『西行』_いかにかすべき我心」

小林秀雄「西行」 小林秀雄『モオツァルト・無常という事』 新潮文庫  白洲正子『西行』を読めば、小林秀雄「西行」が気になり、四年ぶりに再読した。感慨を新たにした。 「では美は信用であるか。そうである。」(「真贋」233頁) あまたの「西行論」のなかで、私は小林秀雄の繙(ひもと)く、懊悩する西行の「美」の変遷を「信用」する。「美」は真偽の判断を竢たない。ひとえに「信用」の問題である。 「如何(いか)にして歌を作ろうかという悩みに身も細る想(おも)いをしていた平安末期の歌壇に、如何にして己れを知ろうかという殆(ほとん)ど歌にもならぬ悩みを提げて西行は登場したのである。彼の悩みは専門歌道の上にあったのではない。陰謀、戦乱、火災、飢饉(ききん)、悪疫(あくえき)、地震、洪水、の間にいかに処すべきかを想った正直な一人の人間の荒々しい悩みであった。彼の天賦(てんぷ)の歌才が練ったものは、新しい粗金(あらがね)であった。」(97頁) 「彼(西行)は、歌の世界に、人間孤独の観念を、新たに導き入れ、これを縦横に歌い切った人である。孤独は、西行の言わば生得の宝であって、出家も遁世(とんせい)も、これを護持する為に便利だった生活の様式に過ぎなかったと言っても過言ではないと思う。」(100頁) 「『山家集』ばかりを見ているとさほどとも思えぬ歌も、『新古今集』のうちにばら撒(ま)かれると、忽(たちま)ち光って見える所以(ゆえん)も其処にあると思う。」(91-92頁) 「  風になびく富士の煙の空にきえて行方も知らぬ我が思ひかな  これも同じ年(西行 69歳)の行脚のうちに詠まれた歌だ。彼が、これを、自賛歌の第一に推したという伝説を、僕は信ずる。ここまで歩いて来た事を、彼自身はよく知っていた筈である。『いかにかすべき我心』の呪文が、どうして遂(つい)にこういう驚くほど平明な純粋な一楽句と化して了(しま)ったかを。この歌が通俗と映る歌人の心は汚れている。一西行の苦しみは純化し、『読人知らず』の調べを奏(かな)でる。」(106-107頁) 西行が、「自賛歌の第一に推したという」歌に接し、小林秀雄はたちまちのうちにすべてを理解した。最晩年の西行の目に映った此岸は、「平明」な地平だった。「一西行の苦しみは純化し」、「『読人知らず』の調べを奏(かな)でる」。西行の姿は、あってなきが如しである。小林秀雄は

TWEET「畢竟するところ」

 長年来の、懸念の、幾冊かの本を読んだ。貴重な読書体験だった。  もうよそ見はしまい。一筋のこの道を行く他ないだろうと感じている。 畢竟するところという、私の予感である。

「『本居宣長』をめぐって 小林秀雄 / 江藤淳_はじめから_3/3」

今日の午前中に、 ◇ 小林秀雄『本居宣長 (下)』新潮文庫 ◆「『本居宣長』をめぐって 小林秀雄 / 江藤淳」 を読み終えた。当対談の興趣は、ひとえに江藤淳に由来するものである。対談は人を選ぶ。 「宣長とベルグソンの本質的類似」 小 林  『古事記伝』になると、訳はもっと正確になります。性質情状と書いて、「アルカタチ」とかなを振ってある。「物」に「性質情状(アルカタチ)」です。これが「イマージュ」の正訳です。大分前に、ははあ、これだと思った事がある。ベルグソンは、「イマージュ」という言葉で、主観的でもなければ、客観的でもない純粋直接な知覚経験を考えていたのです。更にこの知覚の拡大とか深化とか言っていいものが、現実に行われている事を、芸術家の表現の上に見ていた。宣長が見た神話の世界も、まさしくそういう「かたち」の知覚の、今日の人々には思いも及ばぬほど進化された体験だったのだ。  この純粋な知覚経験の上に払われた、無私な、芸術家によって行われる努力を、宣長は神話の世界に見ていた。私はそう思った。『古事記伝』には、ベルグソンが行った哲学の革新を思わせるものがあるのですよ。私達を取りかこんでいる物のあるがままの「かたち」を、どこまでも追うという学問の道、ベルグソンの所謂(いわゆる)「イマージュ」と一体となる「ヴィジョン」を摑む道は開けているのだ。たとえ、それがどんなに解き難いものであってもだ。これは私の単なる思い付きではない。哲学が芸術家の仕事に深く関係せざるを得ないというところで、『古事記伝』と、ベルグソンの哲学の革新との間には本質的なアナロジーがあるのを、私は悟った。宣長の神代の物語の注解は哲学であって、神話学ではない。神話学というのはーー 江 藤  分析と類推ですからね。 小 林  私には、あまりおもしろいものではない。(390-391頁) 「本居宣長之奥墓(おくつき) 」をお参りし、 「本居宣長記念館」 を訪れたい、また、「伊勢神宮」を参拝したいと、いましきりに思う。  前回とは違った感慨があるだろう。

「『本居宣長』をめぐって 小林秀雄 / 江藤淳_はじめから_ 2/3」

今日の午前中に、 ◇ 小林秀雄『本居宣長 (下)』新潮文庫 ◆「『本居宣長』をめぐって 小林秀雄 / 江藤淳」 を読み終えた。この対談は的を射ており、示唆に富んでいる。 「肉声に宿る言霊(ことだま)」 「宣長とベルグソンの本質的類似」 江 藤  これについては、柳田国夫氏や折口信夫氏の説なども引用されながら、小林さんも指摘していらっしゃいますが、結局、漢才(からざえ)を排して言葉の純粋状態を見きわめようとしたとき、宣長は発音されている言葉、肉声、それこそが言葉だという簡明な事実に、確信を持ったと考えてはいけないでしょうか。そういう受け取り方は間違いでしょうか。 小 林  それでいいんです。あの人の言語学は言霊学なんですね。言霊は、先ず何をおいても肉声に宿る。肉声だけで足りた時期というものが何万年あったか、その間に言語文化というものは完成されていた。それをみんなが忘れていることに、あの人は初めて気づいた。これに、はっきり気付いてみれば、何千年の文字の文化など、人々が思い上っているほど大したものではない。そういうわけなんです。(388頁) (中略) 江 藤  宣長は『古事記』を、稗田阿礼が物語るという形で、思い描いているのですね。『古事記』を読んでいる宣長の耳には、物語っている阿礼の声が現に聞えている。(391頁)

「『本居宣長』をめぐって 小林秀雄 / 江藤淳_はじめから_1/3」

昨日の午前中に、 ◇ 小林秀雄『本居宣長 (下)』新潮文庫 ◆「『本居宣長』をめぐって 小林秀雄 / 江藤淳」 を読み終えた。 「学問をする喜び」 江 藤  もう一つ、これもやや自由な感想ですが、あの中には先ほど申し上げた通り、中江藤樹や伊藤仁斎や荻生徂徠(契沖、賀茂真淵、上田秋成、堀影山)などが登場して、江戸の学問が展開されていくさまが生き生きと描かれています。それにつけても反省してみると、日本人の学問の経験といいますか、まねびの喜びというものは結局、あの時期にきわまっていたのではないかという気がして来ました。あれに匹敵するようなまねびというか、学問探求の楽しみや喜びを、明治以来百何年間果してわれわれは経験し得たのかと考えてみると、きわめて懐疑的になります。藤樹も仁斎も徂徠も、真淵も宣長も非常に豊かで、しかも、喜びに満ちていたという事実を振り返ると、大きく見れば明治以来、もう少し細かく言えば最近三十数年の学問というものは、いったいどういうことになっちゃっているんだろうと思わざるを得ません。 小 林  学問をする喜びがなくなったのですね。 (中略) 宣長にとって学問をする喜びとは、形而上なるものが、わが物になる喜びだったに違いないのだから。 江 藤  そうでしょうね。 小 林  学問が調べることになっちまったんですよ。 江 藤  調べるために調べるという同義語反復におちいってしまった…。 小 林  道というものが学問の邪魔をするという偏見、それがだんだん深くなったんですね、どういうわけだか。 江 藤  つまり、小林さんのおっしゃる道というものは、発見を続けていって、その果てに見えはじめるというようなものだろうと思いますが…。 小 林  そうなんですね。 江 藤  ところが、いまは逆に道の代用品にイデオロギーというような旗印を最初に掲げておいて、その正しさを証明していくという考え方が流行しているように思われます。(378-379頁) 江 藤  明治末期、大正初年から、すでに学ぶ喜びが欠落しはじめたということになると、日本人の身についた本当の学問というものは、荒涼とした戦国の余塵を受けながら、中江藤樹のような人が学問に志したときから宣長の出現に至るまでの、たかだか百五十年ほどの間にできあがったということになるのだろうか、その学問こそわれわれがいつもそこへ還っていかなけれ

TWEET「 『山の日』に山を思う」

「山の日」に山を思うほどのことでは、頂上に立つことはできず、渓流釣りも儘ならない。  せめて、山岳図書をコミックを、テンカラ釣りの、トラウトミノーイングの書籍を再読三読し、また登山用品と、釣り道具と戯れる、私の場合どうしてもインドアになってしまう。  テンカラの、トラウトミノーイングの試投は、この過酷な夏空の下では危険であり、目と鼻の先を流れる豊川(とよがわ)での、空が白む頃を待っての、夏ハゼ釣りがせめてものことであるが、あいにく夏ハゼは朝寝坊である。 やまへ行きたしと思へども  やまはあまりに遠し せめては新しき背廣をきて きままなる旅にいでてみん。  猛威を奮うこのコロナ禍の下に、「きままなる旅」は許されず、また「 新しき背廣を」誂える余裕もなく、泣きべそをかいている。

「小林秀雄『本居宣長補記』_はじめから」

今日の昼前、 ◇ 小林秀雄『本居宣長 (下)』新潮文庫 ◆「本居宣長補記」 の初読、また再読を終えた。 考えをめぐらしていると、「歌の事」という具象概念は、詮ずるところ、「道の事」という抽象概念に転ずると説く理論家宣長ではなく、「歌の事」から「道の事」へ、極めて自然に移行した芸術家宣長の仕事の仕振りに、これ亦極めて自然に誘われる。『直毘霊(ナホビノミタマ)(古道論)』の仕上りが、あたかも「古典(フルキフミ)」に現れた神々の「御所為(ミシワザ)」をモデルにした画家の優れたデッサンの如きものと見えて来る。「古事記」を注釈するとは、モデルを熟視する事に他ならず、熟視されたモデルの生き生きとした動きを、画家の眼は追い、これを鉛筆の握られたその手が追うという事になる。言わば、「歌の事」が担った色彩が昇華して、軽やかに走る描線となって、私達の知覚に直かに訴える。私は、思い附きの喩(たとえ)を弄するのではない。寛政十年、「古事記伝」が完成した時に詠まれた歌の意(ココロ)を、有りのままに述べているまでだ。ーー   「九月十三夜鈴屋にて古事記伝かきをへたるよろこびの会しける兼題 披書視古    古事の ふみをらよめば いにしへの てぶりこととひ 聞見るごとし」(325-326頁) 「概念」を極端に悪んだ宣長にとって、「『歌の事』という具象概念」から「『道の事』という抽象概念」へという飛躍は、及びもつかないことだった。 「歌の事」を「熟視」することによって、いつしかそれらは純化され、宣長はそこに、自ずからなる「道の事」をみた。  ここに、四十四巻から成る、三十五年の歳月を費やし、意を尽くした、『古事記伝』の完成をみた。  『本居宣長』の掉尾には、 「もう、終りにしたい。結論に達したからではない。私は、宣長論を、彼の遺言書から始めたが、このように書いて来ると、又、其処へ戻る他ないという思いが頼りだからだ。」(253頁) との記述があり、また、 「本居宣長補記」の末尾には、 「もうお終いにする。」(368頁) の一文が見受けられる。  これらは小林秀雄の、精一杯の尽力後の、ため息混じりの言葉であろう。 間断なく読書をし続け疲弊しています。休憩後、 ◇ 小林秀雄『本居宣長 (下)』新潮文庫 ◆「『本居宣長』をめぐって 小林秀雄 / 江藤淳」 へと駒を進めることにします。三読目の読書です。

TWEET「秋立つ日によせて」

 立秋の日の今日、野分立ち、時折吹き荒れる強風に、草木は恣(ほしいまま)にされている。  立ちはだかるコロナ禍、打ち続く災害、連日の猛暑、秋立つ日の今日、終息を祈るばかりである。 「特段にどこの何が秋めくというのでもなく、それでいて秋のけはいがたつという季節の体感こそが、じつはこの国の秋の感触なのだろう。  空もおおかたの様子が艶だといい、秋のけはいとともに感じるものは、これまた風のけしきだという。  とくに涼気が漂ってきた、天地宇宙の全体が緊張へと向かっていく、そんな季節の移行が秋なのであろう。」(中 西進『ことばのこころ 』東京書籍)  喧しい渦中にあるいま、思うは、静謐の秋への速やかな「移行」のことばかりである。

「小林秀雄『本居宣長 (下)』_はじめから」

昨日の夕刻前には、 ◇ 小林秀雄『本居宣長 (下)』新潮文庫 を読み終えた。  切りのいい頁まで読み、その後傍線を引きながら、付箋をはさみながら読み継いでいった。遅読を心がけたが、まだ読み急いでいる感を抱いている。「読む」と「書く」とは同時進行、というわけには、なかなかいかない。  私達は、史実という言葉を、史実であって伝説ではないという風に使うが、宣長は、「正実(マコト)」という言葉を、伝説の「正実(マコト)」という意味で使っていた(彼は、古伝説(イニシヘノツタヘゴト)とも古伝説(コデンセツ)とも書いている)。「紀」よりも、「記」の方が、何故、優れているかというと、「古事記伝」に書かれているように、ーー「此間(ココ)の古ヘノ伝へは然らず、誰云出(タガイヒイデ)し言ともなく、だゞいと上ツ代より、語り伝へ来つるまゝ」なるところにあるとしている。文字も書物もない、遠い昔から、長い年月、極めて多数の、尋常な生活人が、共同生活を営みつつ、誰言うとなく語り出し、語り合ううちに、誰もが美しいと感ずる神の歌や、誰もが真実と信ずる神の物語が生まれて来て、それが伝えられて来た。この、彼のいう「神代の古伝説」には、選録者は居たが、特定の作者はいなかったのである。宣長には、「世の識者(モノシリビト)」と言われるような、特殊な人々の意識的な工夫や考案を遥かに超えた、その民族的発想を疑うわけには参らなかったし、その「正実(マコト)」とは、其処に表現され、直かに感受出来る国民の心、更に言えば、これを領していた思想、信念の「正実(マコト)」に他ならなかったのである。(145頁)  最終章「五十」は、生死(しょうじ)の問題についての話題である。 「既記の如く、道の問題は、詰まるところ、生きて行く上で、「生死の安心」が、おのずから決定(けつじょう)して動かぬ、という事にならなければ、これをいかに上手に説いてみせたところで、みな空言に過ぎない、と宣長は考えていたが、これに就いての、はっきりした啓示を、「神世七代」が終るに当って、彼は得たと言う。ーー「人は 人事(ヒトノウへ)を以て神代を議(はか)るを、(中略) 我は神代を以て人事(ヒトノウへ)を知れり」、ーーこの、宣長の古学の、非常に大事な考えは、此処の注釈のうちに語られている。そして、彼は、「奇(アヤ )しきかも、霊(クス)しきかも、妙(タヘ)なるか

井上靖『本覚坊遺文』_「利休どのに殉じたのだ」

◇ 「井上靖『本覚坊遺文』_はじめから」 が毎日閲覧されていますが、リンク先のブログは読まれていないようですので、以下に再掲しておきます。 井上靖『本覚坊遺文』講談社文芸文庫 しかし、それとは別の理由で、わしもまた織部どのの死を予見していた。ただ口に出さなかっただけのこと。  ーー ーーー  ーー織部どのは死ぬ時を探しておられた。  ーー ーーー  ーー織部どのにお会いする度に、いつも、この人は死ぬ時を探しているなと思った。  ーー ーーー  ーーそうではなかったか。  (本覚坊は)そう言われても一言も口から出すことはできなかった。ただ小刻みに体が震えてくるのをどうすることもできなかった。右手を縁側の板の上につき、体を折って、目を瞑っている。  ーーが、人間というものはみな、念じればそのようになる。利休どのが亡くなられてから何年目か、そう、二十四年か、二十五年か、漸くその時を摑まれた。どうしてその時を逃すだろう。しかも、思いもかけないことだが、それは利休どのの場合と同じ形でやって来た。  ーー ーーー  ーー罪に服したのではない。利休どのに殉じたのだ。  それから。  ーーまあ、この話はこれだけにしておこう。誰にでも話せることではない。それにこれが真相であるかどうかは知らぬ。ただ(織田)有楽がそう思っているだけのこと。そこもとはどのように考えるか。  ーーわたくしには、そのようなことは、とんと判りません。織部さまのあのような御最期がただただ悲しいだけでございます。世間では御謀反などと、ーー。  ーー謀反か、そういうことになると難しい。本人に訊いてみないと判らぬ。が、おそらく織部どの自身は知らぬことであったろう。しかし、まわりにそのような動きはあったかも知れぬ。が、本人が知らぬことならば、いくらでも申し開きはできる筈、が、それはしなかった。  ーーどうしてでございましょう。  ーー面倒臭かったのだろう。茶を本気で点てていたら、そんなことは面倒臭くなる! それよりも、折角の機会だから、利休どのが申し開きをしないで相果てたように、自分もまた、そのようにしようと思われたのではないか。それが殉じるというもの。  判るような、判らぬようなことではあったが、有楽さまのお言葉の中には、いささかも、織部さまを傷つけているところはなさそうであった。  ーーお辛かったでございましょうか。

井上靖『本覚坊遺文』_「太閤さまはその度に死を賜っていた」

◇ 「井上靖『本覚坊遺文』_はじめから」 が毎日閲覧されていますが、リンク先のブログは読まれていないようですので、以下に再掲しておき ます。 井上靖『本覚坊遺文』講談社文芸文庫  ーー狭いのは、 狭いのでいいが、この茶室(「如庵」)はのんびりと遊べるところにした。狭いと、とかく真剣勝負になる。真剣勝負になると、勝ち敗けになる。利休どののようになる。死を賜りかねない。  また師利休が飛び出したと思っていると、  ーーどうして利休さまは死を賜ったのでございましょう。  大黒屋が言った。(織田)有楽さまにとっても、迷惑な質問であろうと思われた。すると、  ーーああ、なぜ死を賜ったというのか。表向きの理由は知らぬが、まあ、それは簡単なことだと思う。一体太閤さまはどのくらい利休どのの茶室に入っているかな。  有楽さまのお顔が、こちらを向いたので、  ーーさあ、どのくらいの数になりますでしょう。何十回、あるいは何百回。小田原役の頃などは、箱根で殆ど毎日のように師利休の席にお越しになりました。  そう答えると、  ーー何十回か何百回か知らぬが、太閤さまは利休どのの茶室に入る度に、死を賜っていたようなものだ。太刀は奪り上げられ、茶を飲まされ、茶碗に感心させられる。まあ、その度に殺されている。死を賜っている。太閤さまだって一生のうち一度ぐらいは、そうした相手に死を賜らせたくもなるだろう。そうではないか。  有楽さまはおっしゃった。どこまでが本気で、どこまで冗談か、ちょっと見当のつかないところがあった。  すると、大黒屋は重ねて訊いた。  ーー太閤さまにお詫びすれば助かったのに、お詫びしなかった。一時、そのような噂もございました。  ーーそう。  有楽さまはこの場合も少しも動じられず、  ーー利休どのはたくさん武人の死に立ち合っている。どのくらいの武人が利休どのの点てる茶を飲んで、それから合戦に向かったことか。そして討死したことか。あれだけたくさん非業の死に立ち合っていたら、義理にも畳の上では死ねぬだろう。そうじゃないか。  この場合も有楽さまは何でもないことのようにおっしゃった。そんなことは判り切ったことではないか。そうしたお顔である。しかし、そのあと、  ーーだが、利休どのは豪かった。天下に茶人多しと雖も、誰一人、肩を並べる者はない。自分ひとりの道を歩いた。自分ひとりの茶を点てた。

井上靖『本覚坊遺文』_「死の固めの式」

◇ 「井上靖『本覚坊遺文』_はじめから」 が毎日閲覧されていますが、リンク先のブログは読まれていないようですので、以下に再掲しておきます。 井上靖『本覚坊遺文』講談社文芸文庫  ーーそんなものは茶ではない。茶人と茶人が尤もらしい顔をして茶を飲んだって始まらぬ。雪が降ったのは、恰好がつかないので雪の方で降ってやったのだ。わしは一生のうちに、これが茶会だなと思ったことが一度だけある。    そう切り出されて、本覚坊の話は向うへ押し遣って、ご自分の話をそれにお替えになった。  ーー大坂夏の陣に於て河内でいち早く討死した木村長門守重成どのを、その半歳前に大坂の余の茶室に迎えたことがある。客は既に半歳先きに迫っている死を覚悟していた。木村長門守にとっては今生最後の茶であった。それが余にはよく判った。何と言うか、それは自分が死んでゆくことを自分に納得させる、謂ってみれば死の固めの式であった。それに余は立ち合わせて貰った。茶はこのようなものであったかと思った。  有楽さまはおっしゃった。その時の有楽さまの、有楽さまらしからぬ固いお顔が眼に浮かんでくる。めったにお見せにならぬ生真面目なものがお顔を走っていたと思う。 (中略)  このようなことにあれこれ思いを馳せている時、師利休もまた有楽さまと同じようなことを言われたことがあったと、思いは師利休に移った。  ーー永禄四年に堺で物外軒(三好実休)どののために茶を点てたことがある。一年先きの死を予感されていた。囲(茶室)に入ってから出るまで終始見事であった。客より五、六歳ほど年長の亭主であったが、亭主の方が及ばなかった。押されづめに押されていた。  師利休は言われたが、有楽さまと同じようなおっしゃり方だったと思う。そう言えば、師利休は、また高山右近さまの茶についても言われたことがあった。  ーー自分より三十歳も若い南坊(高山右近)どのであるが、今日はどうしても及ばないと思った。尤も今日に限ったことではない。いつも同じような思いにさせられる。どこかに自分を棄てて、これが最後といったところがある。あの静かさは普通では出て来ない。誰も及ばない。  天正十八年十二月の終りに、右近さまを一亭一客でお迎えになった日の夜のお話である。 (中略)  それはそれとして、師利休がお褒めになるように、本覚坊の眼にも高山右近さまはいつも御立派に見えた。もし茶室

井上靖『本覚坊遺文』_「茶人として刀を抜くしかありません」

◇ 「井上靖『本覚坊遺文』_はじめから」 が 毎日閲覧されていますが、 リンク先のブログは読まれていないようですので、以下に再掲しておきます。  ーーよく覚えているな。  ーーそれは覚えております。宗易(利休)、生涯での記念すべき日でございます。あれ(坂本の茶会で初めて太閤さまの御茶頭という資格で席に臨んで)から今日まで足かけ八年、上さまにお仕えしてまいりましたが、いよいよお別れの日となりました。永年に亘っての御愛顧、御温情のほど、お礼の申し上げようもございません。  ーーなにも別れなくてもいいだろう。  ーーそういうわけには参りません。死を賜りました。  ーーそうむきにならなくてもいい。  ーーむきにはなりません。上さまからはたくさんのものを頂いてまいりました。茶人としていまの地位も、力も、侘数寄への大きい御援助も。そして最後に死を賜りました。これが一番大きい頂きものでございました。死を賜ったお蔭で、宗易は侘茶というものがいかなるものであるか、初めて判ったような気がしております。堺へ追放のお達しを受けた時から、急に身も心も自由になりました。永年、侘数寄、侘数寄と言ってまいりましたが、やはりてらいや身振りがございました。宗易は生涯を通じて、そのことに悩んでいたように思います。が、突然、死というものが自分にやって来た時、それに真向うから立ち向った時、もうそこには何のてらいも、身振りもございませんでした。侘びというものは、何と申しますか、死の骨のようなものになりました。  ーーそれはそれでいいではないか。むきにならない方がいい。  ーーでも、上さまは今はそのようにおっしゃいますが、上さまは上さまとして、本気で刀をお抜きになりました。お抜きになってしまいました。そうなると、宗易は宗易で、茶人として刀を抜くしかありません。(183-185頁)  ーーお気に召さないといって、死を下さいました。堺追放をお言渡しになった時、見栄も外聞もなく、上さまは本当の上さまになられました。茶がなんだ、侘茶がなんだ、そんなものは初めからたいしたものとは思っておらん。付合ってやっただけだ。そんなお声が聞えました。上さまが本当の上さまになられたことで、宗易もまた本当の宗易にならねばなりませんでした。お陰さまで宗易は本当に、長い長い間の夢から覚めることができたように思います。(185-186頁)  

井上靖『本覚坊遺文』_「冷え枯れた磧(かわら)の道」

◇ 「井上靖『本覚坊遺文』_はじめから」 が 毎日閲覧されていますが、 リンク先のブログは読まれていないようですので、以下に再掲しておきます。 井上靖『本覚坊遺文』講談社文芸文庫   ーーあの道は余ひとりの道。本覚坊などの入ってはならぬ道。  ーーどうしてでございましょう。  ーー茶人としての利休の道。他の茶人には、それぞれ別の道がある。師紹鷗には師紹鷗の道 がある。宗及どのには宗及どのの道。本覚坊が昵懇な東陽坊どのには東陽坊どのの道がある。が、いいか悪いかは知らぬが、利休は戦国乱世の茶の道として、あの冷え枯れた磧の道を選んでしまった。  ーーあの道は、一体、どこまで続いているのでございましょうか。  ーー際限なく伸びている。しかし、合戦のなくなる時代が来ると、誰にも顧みられなくなってしまうだろう。あれは利休ひとりの道だから、利休と共に消えるが いいと思っている。  ーー師お一人の道?  ーーと言っても、少し先きを山上宗二どのが歩いて行っている。わしのあと、もし歩く者があるとすると、古田織部どのということになろうか。まあ、それで終わる。  ここでぷっつりと師利休の声は切れた。そしてもう二度と師の声は聞えて来なかった。(190頁) “無ではなくならん、死ではなくなる” と山上宗二さまがおっしゃったあの茶室(山崎の妙喜庵)で、本覚坊は、御自刃直前の師利休にお目にかかり、そしてお話を伺ったのである。師利休のお話には、本覚坊の理解できるところもあり、理解できないところもあるようである。しかし、師は、本覚坊がこのところ、日夜考えに考えているところに沿って、それを御自分の言葉で話して下さったようである。  あの冷え枯れた淋しい道の上に、師利休をまん中にして、山上宗二さまと古田織部さまが、前と背後を歩いていらっしゃる。そのことの意味を、師利休はおっしゃりたかったのではないかと思う。今になると、しきりにそのように思われてならない。宗二さまも、織部さまも、死を賜った時、師利休と同じように、茶人として、初めて何ものかをお持ちになり、そこで静かに茶をお点てになって、そこから脱け出すことはお考えにならなくなったのかも知れない。しかし、こうしたことは本覚坊などの立ち入ることのできない世界のようである。 (195-196頁) ー 目録・終り ー 「終章」最後の「日録」,「二月七日、癸酉、天晴

TWEET「風に順う」

 2015/08/03 から書きはじめたブログが 6年目を迎えた。今日から六歳児の作文である。脈絡もなく書き散らした感を抱いているが、これも幼児の性向と思い納得している。  帆に風をはらみ、風に順うことにする。