井筒俊彦「コトバの、また文化の圧制的側面_1/3」

文化と言語アラヤ識」
『井筒俊彦全集 第八巻 意味の深みへ 1983年-1985年』 慶應義塾大学出版会
コトバの意味作用の機構そのもののなかに、権力、強制が組み込まれている。コトバは、何を、いかに言うべきかを、人に強制する。そして(ロラン・)バルトは、コトバは、もともとファシスト的なものだ、という、一見、極端とも思えるような発言をする。
(中略)
 私はこれに更に次の一言をつけ加えたい。すなわち、コトバは、何を、どう言うべきかを強制するだけでなくて、何をどう見るべきかをも強制する、と。コトバが分類様式であるならば、個々の言語(ラング)は、それぞれ特殊な(存在)分類のシステムでなくてはならない。それは、その言語を語り、その言語でものを考える人々に、ある一定の世界像を強制する。一つの言語は、一つの自然的解釈学の地平を提供する。我々はそれによって「世界」を見、それによって「現実」を経験する。経験するように強制されるのだ。(170頁)

一体、バルトがコトバの本源的分類性について語り、コトバのファシスト的圧制を云々する時、彼は主としてそれの社会制度的表層を見ているのである。たしかに、独立した一つの社会制度としてのコトバ、すなわち各個別言語は、意味論的には、一定数の意味分節単位(いわゆる単語)の有機的連合体系であって、それらの意味単位は、それぞれ、本質的に固定されて動きのとれないようになっている。このようなレベルで働くコトバの意味形象機能は、当然、固定して動きのとれない事物、事象からなる既成的世界像を生み出す。出来合いの意味形象が描き出す出来合いの存在絵模様だ。無反省的な日常生活において、人は誰でもそんな出来合いの「世界」に生きているのである。
 だから、もしコトバが、このような社会制度的表層レベルに見られるものだけに終始するものとすれば、そして、もし文化が、言語表層で形成される「現実」だけに基礎づけられているものだとすれば、文化は、社会制度的因襲によってかっちり固定され、力動的な創造性を喪失した紋切り型の思惟、紋切り型の感情、紋切り型の行動のパターンにすぎないことになるだろう。言い換えれば、文化は、決まりきった型にはまった、実存的に去勢された意味、人間生活の社会制度的表面にようやく生命を保つ、憔悴した意味のシステムであることだろう。(171-172頁)

 文化はコトバに起因する。コトバは「圧制的」,「ファシスト的」(170頁)である、とロラン・バルトはいう。「言語の牢獄」(ジームソン,154頁)とは、すなわち、文化の「目に見えぬ牢獄」(カール・ポパー,152頁)を意味する。

 しかしながら、考察をもう一歩進めてみると、文化およびその基底にあるコトバが、必ずしも否定的事態に終始するものではないことを、我々は知る。文化を成立させるコトバの意味生産的メカニズムには、もっと可塑的な、力動的な、側面があるのだ。(171頁)

 西江雅之,吉行淳之介『サルの檻、ヒトの檻―文化人類学講義』朝日出版
 大学時代にお世話になった、文化人類学がご専門の西江雅之先生は、
「文化は遺伝する」
「文化という、身にまとった服は脱ぐことはできない」
とよく言われた。
「サルには『サルの檻』があり、ヒトには『ヒトの檻』がある」
とも口にされた。

 青山二郎は、口癖のように「俺は日本の文化を生きているのだ」と言っていたという。「ヒトの檻」の中で、「日本の文化という服」をまとい、窮屈に思うどころか、自在に生きた青山二郎の賢明さを、また天才を思う。

以下、
小林秀雄「文化という、身にまとった服は脱ぐことはできない」
です。