井上靖『本覚坊遺文』_「太閤さまはその度に死を賜っていた」
◇「井上靖『本覚坊遺文』_はじめから」
が毎日閲覧されていますが、リンク先のブログは読まれていないようですので、以下に再掲しておきます。
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井上靖『本覚坊遺文』講談社文芸文庫
ーー狭いのは、狭いのでいいが、この茶室(「如庵」)はのんびりと遊べるところにした。狭いと、とかく真剣勝負になる。真剣勝負になると、勝ち敗けになる。利休どののようになる。死を賜りかねない。 また師利休が飛び出したと思っていると、
ーーどうして利休さまは死を賜ったのでございましょう。
大黒屋が言った。(織田)有楽さまにとっても、迷惑な質問であろうと思われた。すると、
ーーああ、なぜ死を賜ったというのか。表向きの理由は知らぬが、まあ、それは簡単なことだと思う。一体太閤さまはどのくらい利休どのの茶室に入っているかな。
有楽さまのお顔が、こちらを向いたので、
ーーさあ、どのくらいの数になりますでしょう。何十回、あるいは何百回。小田原役の頃などは、箱根で殆ど毎日のように師利休の席にお越しになりました。
そう答えると、
ーー何十回か何百回か知らぬが、太閤さまは利休どのの茶室に入る度に、死を賜っていたようなものだ。太刀は奪り上げられ、茶を飲まされ、茶碗に感心させられる。まあ、その度に殺されている。死を賜っている。太閤さまだって一生のうち一度ぐらいは、そうした相手に死を賜らせたくもなるだろう。そうではないか。
有楽さまはおっしゃった。どこまでが本気で、どこまで冗談か、ちょっと見当のつかないところがあった。
すると、大黒屋は重ねて訊いた。
ーー太閤さまにお詫びすれば助かったのに、お詫びしなかった。一時、そのような噂もございました。
ーーそう。
有楽さまはこの場合も少しも動じられず、
ーー利休どのはたくさん武人の死に立ち合っている。どのくらいの武人が利休どのの点てる茶を飲んで、それから合戦に向かったことか。そして討死したことか。あれだけたくさん非業の死に立ち合っていたら、義理にも畳の上では死ねぬだろう。そうじゃないか。
この場合も有楽さまは何でもないことのようにおっしゃった。そんなことは判り切ったことではないか。そうしたお顔である。しかし、そのあと、
ーーだが、利休どのは豪かった。天下に茶人多しと雖も、誰一人、肩を並べる者はない。自分ひとりの道を歩いた。自分ひとりの茶を点てた。遊びの茶を、遊びでないものにした。と言って、禅の道場にしたわけではない。腹を切る道場にした。
それから、
ーーまあ、この辺でやめよう。利休どののことを考えると眠れなくなる。
有楽さまはおっしゃった。この有楽さまの言葉で、今までつかえていたものが流れ出しでもしたように、気持ちはすっきりする。やはり有楽さまは、師利休の味方であると思った。もしかしたら一番よく師利休をご覧になっていた方かも知れない。
二度目のお茶を、おし戴いて頂く。(135-137頁)
武人である織田有楽流の物言いである。
「終章」には三つの「日録」がある。二番目の「日録」,「十二月廿九日、丙申、天晴」(172-180頁)において、本覚坊は有楽のこれらの言葉を回想している。本覚坊だけにかぎらず、吾人らにとっても有楽の言葉は鮮烈である。
ーーどうして利休さまは死を賜ったのでございましょう。
大黒屋が言った。(織田)有楽さまにとっても、迷惑な質問であろうと思われた。すると、
ーーああ、なぜ死を賜ったというのか。表向きの理由は知らぬが、まあ、それは簡単なことだと思う。一体太閤さまはどのくらい利休どのの茶室に入っているかな。
有楽さまのお顔が、こちらを向いたので、
ーーさあ、どのくらいの数になりますでしょう。何十回、あるいは何百回。小田原役の頃などは、箱根で殆ど毎日のように師利休の席にお越しになりました。
そう答えると、
ーー何十回か何百回か知らぬが、太閤さまは利休どのの茶室に入る度に、死を賜っていたようなものだ。太刀は奪り上げられ、茶を飲まされ、茶碗に感心させられる。まあ、その度に殺されている。死を賜っている。太閤さまだって一生のうち一度ぐらいは、そうした相手に死を賜らせたくもなるだろう。そうではないか。
有楽さまはおっしゃった。どこまでが本気で、どこまで冗談か、ちょっと見当のつかないところがあった。
すると、大黒屋は重ねて訊いた。
ーー太閤さまにお詫びすれば助かったのに、お詫びしなかった。一時、そのような噂もございました。
ーーそう。
有楽さまはこの場合も少しも動じられず、
ーー利休どのはたくさん武人の死に立ち合っている。どのくらいの武人が利休どのの点てる茶を飲んで、それから合戦に向かったことか。そして討死したことか。あれだけたくさん非業の死に立ち合っていたら、義理にも畳の上では死ねぬだろう。そうじゃないか。
この場合も有楽さまは何でもないことのようにおっしゃった。そんなことは判り切ったことではないか。そうしたお顔である。しかし、そのあと、
ーーだが、利休どのは豪かった。天下に茶人多しと雖も、誰一人、肩を並べる者はない。自分ひとりの道を歩いた。自分ひとりの茶を点てた。遊びの茶を、遊びでないものにした。と言って、禅の道場にしたわけではない。腹を切る道場にした。
それから、
ーーまあ、この辺でやめよう。利休どののことを考えると眠れなくなる。
有楽さまはおっしゃった。この有楽さまの言葉で、今までつかえていたものが流れ出しでもしたように、気持ちはすっきりする。やはり有楽さまは、師利休の味方であると思った。もしかしたら一番よく師利休をご覧になっていた方かも知れない。
二度目のお茶を、おし戴いて頂く。(135-137頁)
武人である織田有楽流の物言いである。
「終章」には三つの「日録」がある。二番目の「日録」,「十二月廿九日、丙申、天晴」(172-180頁)において、本覚坊は有楽のこれらの言葉を回想している。本覚坊だけにかぎらず、吾人らにとっても有楽の言葉は鮮烈である。
そしてそれは、最後の「日録」,「二月七日、癸酉、天晴 ー 註、元和八年、陽暦三月十八日 ー 」(180-196頁)へと続く。
有楽の言葉は、その不分明さも含めて、井上靖によって敷かれた伏線だった。