井筒俊彦「意味分節理論と空海 ー 真言密教の言語的可能性を探る_はじめから」

 昨日の夕暮れ時、
◇『井筒俊彦全集 第八巻 意味の深みへ』 慶應義塾大学出版会
意味分節理論と空海 ー 真言密教の言語的可能性を探る」
を再読した。

 本論は、空海の「真言密教」とファズル・ッ・ラーのイスラーム的「文字神秘主義」、そしてカッバーラー(ユダヤ教神秘主義)とを対照するなかで、「言語哲学」的、また「深層的言語哲学」的に、「ともにきわめて特徴ある同一の思考パターンに属」(414-415頁)することを確認しながら展開され、それは東洋哲学の「共時的構造化」の一端を披歴したものとなっている。

「普通、仏教では、この(意識と存在の究極的絶対性の領域、絶対超越の)次元での体験的事態を、「言語道断」とか「言亡(ごんもう)慮絶」とかいう。つまり、コトバの彼方、コトバを越えた世界、人間のコトバをもってしては叙述することも表現することもできない形而上的体験の世界である、ということだ。
 このような顕教的言語観に反対して、空海は「果分可説」を説き、それを真言密教の標識とする。すなわち、コトバを絶対的に超えた(と、顕教が考える)事態を、(密教では)コトバで語ることができる、あるいは、そのような力をもったコトバが密教的体験としては成立し得る、という。この見地からすれば、従って、「果分」という絶対意識・絶対存在の領域は、本質的に無言、沈黙の世界ではなく、この領域にはこの領域なりの、つまり異次元の、コトバが働いている、あるいは働き得る、ということである。」(391頁)

「大乗仏教では、人間の日常的経験世界、いわゆる現象界の事物の本性を説明して、すべては「妄想分別」の所産であるという。唯識系の術後には、「遍計所執(へんげしょしゅう)」という表現もある。つまり、我々普通の人間は、現象的世界を「現実」と呼び、そこに見出される事物を、我々の意識から独立して客観的に実在するものと思いこんでいるけれども、実はそれらは、すべて人間の意識が妄想的に喚起し出した幻想である、というのである。」(396頁)

「この世のすべては、畢竟するに言語的妄想の所産、夢まぼろし、空しき虚構。それがすなわち、この世の儚(はかな)さというものだ。
 しかるに、同じ大乗仏教のなかにあって、真言密教だけは、例外的に、コトバの意味分節の所産である経験的世界の事物事象の実在性を、正面から肯定する。なぜだろう。いうまでもなく、コトバにたいする見方が根本的に違うからだ。
 真言密教は、顕教のように、コトバというものを、人間の社会生活的レベルで約定化した記号組織としての言語、すなわち、今日の言語学者が普通「言語」と呼んでいるものだけに限定しては考えない。前にも言ったように、それの彼方に、異次元のコトバの働きを見る。現象界の事物事象については、その現出の源泉がコトバの意味分節機能にあることを、真言密教も認めるのであって、この点に関するかぎり、顕教一般と変らない。しかし、顕教と根本的に違うところは、現象界でそのように働くコトバの、そのまた源に、「法身説法」、すなわち形而上的次元に働く特殊な言語エネルギーとでもいうべきものを認めることだ。従って、密教的存在論では、我々の経験世界を構成する一切の事物事象は、いずれも経験的次元に働くコトバのなかに自己顕現する異次元のコトバ、絶対的根源語 ー 宗教的用語で言えば大日如来のコトバ ー の現象形態ということになる。要するに、すべてのものは大日如来のコトバ、あるいは、根源的にコトバであるところの法身そのものの自己顕現、ということであって、そのかぎりにおいて現象的存在は最高度の実在性を保証されるのである。」(397-398頁)

以下、その経緯(いきさつ)である。
「去る年(一九八四年)の十月二十六日、秋色深まる高野山で、第十七回日本密教学大会のためにおこなった特別講演、「言語哲学としての真言」の論旨を、本稿は、論文体に書き移したものである。講演そのものは、その場で録音・速記されたままの形で、近く『密教学研究』誌に発表される予定である。
(中略)
今回の書き直しを機に、いろいろ訂正したり付加したりしてはみたものの、なんといっても、もともと実際に聴衆に語りかけたものであり、また始めからそのようなものとして準備されたものであるから、後でそれを論文的叙述形式に移しても、やはりどうしても、口頭コミュニケーションの原形が、内容だけでなく、発想それ自体を全体的に支配することになってしまう。私はそれをことさらに避けようとはしなかった。そのために、哲学論文としては、文体的に、いささか密度の低いものになるであろうことは、もとより承知の上で。」(529-530頁)

 井筒俊彦は、「存在はコトバである」と措定した。「言語哲学者」としての空海の内に、井筒は同様のものを認めた。空海は、日本で最初の「深層的言語哲学者」だった。
 なお、「井筒俊彦の風景」としての「空海の風景」とは、「言語に関する真言密教の中核思想を、密教的色づけはもちろん、一切の宗教的枠づけから取り外し」、「一つの純粋に哲学的な、あるいは存在論的な立場」(
『井筒俊彦全集 第八巻 意味の深みへ』慶應義塾大学出版会,「言語哲学としての真言」,425頁)から眺めた際に広がる「空海の風景」のことである。
 副題に「真言密教の言語的可能性を探る」とあるとおり、井筒俊彦の眼は本稿でもまた未来に向けられている。実学としての哲学である。

次回は、
◇ 井筒俊彦『井筒俊彦全集 第八巻 意味の深みへ』慶應義塾大学出版会
◆「言語哲学としての真言」
です。ひき続き空海です。出色の論考です。