小林秀雄「無常の思想の如きは、時代の果敢無(はかな)い意匠に過ぎぬ」

小林秀雄「平家物語」
小林秀雄『モオツァルト・無常という事』 新潮文庫
 小林秀雄「平家物語」は、紙数にして、わずか五頁ばかりの作品だが、秀逸であり抜きん出ている。幾度となく各所で引用させていただいている。

「成る程、佐々木四郎は、先がけの勲功を立てずば生きてあらじ、と頼朝の前で誓うのであるが、その調子には少しも悲壮なものはない。勿論(もちろん)感傷的なものもない。傍若無人な無邪気さがあり、気持ちのよい無頓着さがある。人々は、「あっぱれ荒涼な(大口をたたく意)申しやうかな」、と言うのである。頼朝が四郎に生食(「いけずき」という名の名馬)をやるのも気紛(きまぐ)れに過ぎない。無造作にやって了(しま)う。」(143-144頁)
と、手心を加えることなく、集中砲火を浴びせかけているのはおもしろく、示唆に富んでいる。

「(『平家物語』の)一種の哀調は、この作の叙事詩としての驚くべき純粋さから来るのであって、仏教思想という様なものから来るのではない。「平家」の作者達の厭人(えんじん)も厭世(えんせい)もない詩魂から見れば、当時の無常の思想の如(ごと)きは、時代の果敢無(はかな)い意匠に過ぎぬ。鎌倉文化も風俗も手玉に取られ、……」(147頁)

小林秀雄『私の人生観』大和出版 
「諸行無常という言葉も、誤解されている様です。現代人だから誤解するのではない、昔から誤解されていた。平家にある様に「おごれる人も久しからず、唯春の世の夢の如し」そういう風に、つまり「盛者必衰のことわりを示す」ものと誤解されて来た。太田道灌がまだ若い頃、何事につけ心おごれる様があったのを、父親が苦が苦がしく思い、おごれる人も久からず、と書いて与えたところが、道灌は、早速筆をとって、横に、おごらざらる人も久しからず、と書いたという逸話があります。」(27頁)
 諸行は無常であり、万物は流転す、私も誤解していたうちの一人である。

 年を古るごとに「無頓着で、無造作な、我が儘の」、また「悲壮感もなければ感傷もなく、傍若無人で、気紛れな」、「無邪気に」なってゆく自分を感じているが、それも緒に就いたばかりのことで、その行方は依然として不透明である。
 「ひとへに風の前の塵に同じ」。自分を塵芥の類と思えば、平安が訪れるが、「塵」のすぐ後には、「塵にも五分の魂」と続くので厄介である。