「井筒俊彦が見た存在風景」

 話題は「明恵上人」、また「明恵上人」が帰依した「華厳の世界」にはじまり、「空海」に目移りし、「禅」にいたった。
それは、
◇『井筒俊彦全集 第六巻 意識と本質 1980年-1981年』 慶應義塾大学出版会
を再読することであった。図らずも原点に回帰した。
「Ⅸ」章には、「表層・深層意識の構造モデル」を基にした、「元型」また「元型」イマージュの実相についての叙述があり、「Ⅵ」章,「Ⅶ」章は、「禅(無『本質』的存在分節)」に関する「論究」に割かれている。また「真言密教」については、「Ⅹ」章に登場する。
「禅を無彩色文化とすれば、密教は彩色文化だ、と言った人がある。」(「Ⅹ」章 244頁)
の一文が印象的だった。
 三度四度(みたびよたび)におよぶ読書で、細部にまで眼が届くようになった、誤認をその都度訂正した。

 宗教、宗派色に染まることなく、観念に転落することなく、井筒俊彦は生気に満ちた「東洋哲学」を共時的に展開した。それらは皆、井筒が、深層意識の「諸相を体験的に拓きながら」見た「存在風景」であり、そしてその後、形而上学として語られたものである。井筒俊彦を介さなければ、易々とは近づけない世界である。

「私は井筒先生のお仕事を拝見しておりまして、常々、この人は二十人ぐらいの天才らが一人になっているなと存じあげていまして。」司馬遼太郎『十六の話』中公文庫,〈対談〉井筒俊彦 司馬遼太郎「附録 二十世紀末の闇と光」399頁)
とは、司馬遼太郎のことばであるが、井筒俊彦の偉業を前にして私淑しない法はあるまい。
 先にも書いたが、井筒俊彦の著作群は、私にとっては「実学」の書であり、実用の書であり、やむに止まれぬ書である。そしてその点において、井筒俊彦は、どうしようもなく福澤諭吉門下の学徒である。