「『本居宣長』をめぐって 小林秀雄 / 江藤淳_はじめから_3/3」

今日の午前中に、
◇ 小林秀雄『本居宣長 (下)』新潮文庫
◆「『本居宣長』をめぐって 小林秀雄 / 江藤淳」
を読み終えた。当対談の興趣は、ひとえに江藤淳に由来するものである。対談は人を選ぶ。

「宣長とベルグソンの本質的類似」
小 林 『古事記伝』になると、訳はもっと正確になります。性質情状と書いて、「アルカタチ」とかなを振ってある。「物」に「性質情状(アルカタチ)」です。これが「イマージュ」の正訳です。大分前に、ははあ、これだと思った事がある。ベルグソンは、「イマージュ」という言葉で、主観的でもなければ、客観的でもない純粋直接な知覚経験を考えていたのです。更にこの知覚の拡大とか深化とか言っていいものが、現実に行われている事を、芸術家の表現の上に見ていた。宣長が見た神話の世界も、まさしくそういう「かたち」の知覚の、今日の人々には思いも及ばぬほど進化された体験だったのだ。
 この純粋な知覚経験の上に払われた、無私な、芸術家によって行われる努力を、宣長は神話の世界に見ていた。私はそう思った。『古事記伝』には、ベルグソンが行った哲学の革新を思わせるものがあるのですよ。私達を取りかこんでいる物のあるがままの「かたち」を、どこまでも追うという学問の道、ベルグソンの所謂(いわゆる)「イマージュ」と一体となる「ヴィジョン」を摑む道は開けているのだ。たとえ、それがどんなに解き難いものであってもだ。これは私の単なる思い付きではない。哲学が芸術家の仕事に深く関係せざるを得ないというところで、『古事記伝』と、ベルグソンの哲学の革新との間には本質的なアナロジーがあるのを、私は悟った。宣長の神代の物語の注解は哲学であって、神話学ではない。神話学というのはーー
江 藤 分析と類推ですからね。
小 林 私には、あまりおもしろいものではない。(390-391頁)

「本居宣長之奥墓(おくつき)」をお参りし、「本居宣長記念館」を訪れたい、また、「伊勢神宮」を参拝したいと、いましきりに思う。
 前回とは違った感慨があるだろう。