「『本居宣長』をめぐって 小林秀雄 / 江藤淳_はじめから_ 2/3」

今日の午前中に、
◇ 小林秀雄『本居宣長 (下)』新潮文庫
◆「『本居宣長』をめぐって 小林秀雄 / 江藤淳」
を読み終えた。この対談は的を射ており、示唆に富んでいる。

「肉声に宿る言霊(ことだま)」
「宣長とベルグソンの本質的類似」
江 藤 これについては、柳田国夫氏や折口信夫氏の説なども引用されながら、小林さんも指摘していらっしゃいますが、結局、漢才(からざえ)を排して言葉の純粋状態を見きわめようとしたとき、宣長は発音されている言葉、肉声、それこそが言葉だという簡明な事実に、確信を持ったと考えてはいけないでしょうか。そういう受け取り方は間違いでしょうか。
小 林 それでいいんです。あの人の言語学は言霊学なんですね。言霊は、先ず何をおいても肉声に宿る。肉声だけで足りた時期というものが何万年あったか、その間に言語文化というものは完成されていた。それをみんなが忘れていることに、あの人は初めて気づいた。これに、はっきり気付いてみれば、何千年の文字の文化など、人々が思い上っているほど大したものではない。そういうわけなんです。(388頁)
(中略)
江 藤 宣長は『古事記』を、稗田阿礼が物語るという形で、思い描いているのですね。『古事記』を読んでいる宣長の耳には、物語っている阿礼の声が現に聞えている。(391頁)