小林秀雄「雪舟の明らかさ」

「雪舟」
小林秀雄『モオツァルト・無常という事』 新潮文庫
 (「山水長巻」の)遠景も淡彩も装飾であるが、無論、彼は妥協なぞしているのではない。手を動かし乍ら、岩盤について瞑想(めいそう)する果てに、そういうものが自(おのずか)ら現れてくる。恐らく最も正しい意味での装飾である。茫漠(ぼうばく)たる遠景は、確固とした全景を再感させる。清楚(せいそ)な衣装(いしょう)によって、堂々たる体軀に気附く様に、淡彩は施されている。淡彩は、確かに四季の推移を語っているが、それは、まことに静かな移ろいであり、遂に四季の循環という岩の様に不動な観念に導かれる様である。何処(どこ)も彼所(かしこ)も明晰(めいせき)だ。恐らく作者の精神と事物の間には、曖昧なものが何にもないという事だろう。分析すればするほど限りなく細くなって行く様なもの、考えれば考えるほどどんな風にも思われて来るもの、要するに見詰めていれば形が崩れて来る様なもの一切を黙殺する精神、私は、そういう精神が語りかけて来るのを感じて感動した。私には、これを描いた画家が、十年後には、「慧可断臂」を描かねばならなかったのが、よく理解出来る様な気がした。(193-194頁)

 今、私の机の上には、「慧可断臂図」の極くつまらぬ写真版がある。私は、それで満足である。
(中略)
壁を眺めているうちに、両足が身体にめり込んで了った男、たった今切った自分の腕を、外れた人形の腕でも拾った様な顔で持っている男、これは伝説であろうか。ところが、絵は全く逆のことを言う。益田兼尭(ますだかねたか)よりは人間である、と。
 ここにも曖昧(あいまい)な空気はない。文学や哲学と馴れ合い、或る雰囲気などを出そうとしている様なものはない。達磨は石屋の様に坐って考えている、慧可は石屋の弟子の様に、鑿(のみ)を持って待ってる。あとは岩(これは洞窟(どうくつ)でさえない)があるだけだ。この思想は難しい。この驚くほど素朴な天地開闢(かいびゃく)説の思想は難しい。込み入っているから難しいのではない。私達を訪れるかと思えば、忽(たちま)ち消え去る思想だからである。
 雪舟の思想は、もはや私達から遠いところにあるか。決してそんな事はないと思う。それは将来への予言かも知れないのである。ただ現に生きているという理由で、その人の言葉を、その人の顔を、現代人は信用し過ぎている。信用し過ぎたお蔭(かげ)で、人間的というどんな夢路を辿(たど)っているか。(200-201頁)
(註)「慧可断臂図」 慧可が達磨(だるま)に入門を断られた時、自分の左腕を肘(ひじ)から断ち切り意志の固さを示して入門を許されたという故事に基づく図。(295頁)

雪舟の筆に迷いはない。筆の運びの遅速だけがある。
〈参考図書〉:白洲信哉 [編]『小林秀雄 美と出会う旅』(とんぼの本)新潮社