井筒俊彦「言語哲学としての真言」
今日の午後、
◇ 井筒俊彦『井筒俊彦全集 第八巻 意味の深みへ』慶應義塾大学出版会◆「言語哲学としての真言」
を読み終えた。前掲の、
と比較し、洗練された内容のものとなっている。
天籟(てんらい)、人間の耳にこそ聞えないけれども、ある不思議な声が、声ならざる声、音なき声が、虚空を吹き渡り、宇宙を貫流している。この宇宙的声、あるいは宇宙的コトバのエネルギーは、確かに生き生きと躍動してそこにあるのに、それが人間の耳には聞こえない、ということは、私が最初にお話しいたしました分節理論の考え方で申しますと、それが絶対無分節の境位におけるコトバであるからです。絶対無分節、つまり、まだ、どこにも分かれ目が全然ついていないコトバは、それ自体ではコトバとして認知されません。ただ巨大な言語生成の原エネルギーとして認知されるだけです。しかし、この絶対無分節のコトバは、時々刻々に自己分節して、いわゆる自然界のあらゆる事物の声として自己顕現し、さらにこの意味分節過程の末端的領域において、人間の声、人間のコトバとなるのであります。
このように自己分節を重ねつつ、われわれの耳に聞える万物の声となり、人間のコトバとなっていく宇宙的声、宇宙的コトバそれ自体は、当然、コトバ以前のコトバ、究極的絶対言語、として覚知されるはずでありまして、こうして覚知されたあらゆる声、あらゆるコトバの究極的源泉、したがってまた、あらゆる存在の存在性の根源であるものを、真言密教は、大日如来、あるいは法身として表象し、他の東洋の諸宗教はしばしば神として表象いたします。(442-443頁)
(註) 天籟:『荘子』の「内篇」第二「斉物論」に出てくる、「虚空、すなわち無限に広がる宇宙空間を貫いて、色もなく音もない風が吹き渡っている。宇宙的な風、これが天籟です。」(441頁)
『空海の風景』_井筒俊彦 読書覚書
2018/03/30
「空海の風景」が突然ひろがった。思いもかけないことだった。井筒俊彦の透徹した眼には、至極当然の配列なのだろうが、事物相互の関連が寸断され、事物が箇々別々に映っていた私にとっては、唐突な出来事だった。
井筒俊彦が語るのは哲学である。払拭され昇華されたものが、共時的に把捉されているのがうれしい。
信仰なき、寄る辺なき私にとって、井筒俊彦と向き合う、その時々が救いとなっている。
「高野山真言宗 総本山金剛峯寺」への道行は、長年来の想いであるが、なかなか足が伸びない。「古社寺めぐり」の再開の途は、「高野山」から、と決めた。登山道で、と意気込んでいる。