井筒俊彦「イスラームの根源的思惟形態」〈『イスラーム哲学の原像』_はじめから〉
待望の、
◇ 井筒俊彦『イスラーム哲学の原像』岩波新書
を、つい今し方読み終えました。
『イスラーム哲学の原像』は、イスラームの神秘主義(スーフィズム)を代表する、イブン・アラビーの実在体験と、その後の哲学的思惟によってなった、「存在一性論」的形而上学についての論考を主題としている、といってしまえば簡単だが、内容はそんなに浅薄なものではない。
神の「慈愛の息吹き」といい、「至聖溢出(いっしゅつ)」,「神聖溢出」,「神の自己顕現」といい、「有無中道の実在」というも、イブン・アラビーの手になる、「詩的言語(術語)」であり、いきおい感銘があり、安心(あんじん)がある。
「イブン・アラビー」
若松英輔『井筒俊彦―叡知の哲学 』慶應義塾大学出版会
「存在はコトバである」という井筒俊彦の一節は、彼の思想的帰結を闡明しているだけではない。自らがイブン・アラビーの血脈に連なるものであることの宣言でもある。この神秘哲学者に出会うことがなければ、井筒の思想は全く違ったかたちになっていただろう。(280頁)
井筒はイブン・アラビーをイスラームの伝統に縛りつけない。彼がいう「東洋」に向かって開かれた位置に置く。そうした認識が、現象的には交差の痕跡がないイブン・アラビーと老荘という二つの大きな東洋神秘哲学の潮流を「共時的構造化」する Sufism and Taoism の形式を選ばせたのである。また、後年、彼は、この神秘哲学者と華厳の世界、道元の時間論、プロティノス、ユダヤ神秘主義との共時的交差を論じることになる。(285頁)
「『構造』と構造主義」
若松英輔『井筒俊彦―叡知の哲学 』慶應義塾大学出版会
絶対的超越者をイブン・アラビーは「存在(ウジュード)」と呼び、老荘は「道(タオ)」と呼んだ。文学的過ぎるとの誹りを恐れずにいうなら、この長編論考( Sufism and Taoism )は「存在」と「道」の叙事詩だともいえる。主役は著者である井筒俊彦でないばかりか、彼が論じた東洋哲学の先達でもない。超越的絶対者である「存在」であり「道」なのである。序文(Sufism and Taoism )に著者自身が記しているように。試みられたのは、東洋哲学における「存在」論的構造の論究に他ならない。井筒の視座もイブン・アラビー、あるいは老荘といった人間に据えられているのではない。むしろ人間としての彼らを突き抜け、彼らにも開示された万物の始原的世界に、井筒もまた参入を試みているのである。(277頁)
「主体的、実存的な関わりのない、他人の思想の客観的な研究には始めから全然興味がないのだから。ただ私のこうした主体的関心のゆえに、イスラーム哲学の精神そのものを歪曲して提示するようなことだけはなかったであろうことを願っている。」( ⅳ頁 )
井筒俊彦にとっての「読み書き」は、常に「実存体験」だった。「観想体験」だった。
次回は、いよいよ懸念の大物、
◇『井筒俊彦全集 第六巻 意識と本質 1980年-1981年』 慶應義塾大学出版会
の予定です。原点回帰です。
が、「熱中症」につき、しばしの間、小林秀雄の叙情に浸ることにします。