柳田國男「その時鵯が高空で、ぴいッと鳴いた」

小林秀雄「信ずることと知ること」
小林秀雄『人生について』中公文庫

「その時鵯が高空で、ぴいッと鳴いた。その鵯の声を聞いた時に、はっと我に帰った。そこで柳田(國男)さんはこう言っているのです。もしも、鵯が鳴かなかったら、私は発狂していただろうと思う、と。
 私はそれを読んだ時、感動しました。柳田さんという人が分ったという風に感じました。鵯が鳴かなかったら発狂したであろうというような、そういう柳田さんの感受性が、その学問のうちで大きな役割を果たしている事を感じたのです。柳田さんには沢山の弟子があり、その学問の実証的方法は受継いだであろうが、このような柳田さんが持って生れた感受性を受継ぐわけにはまいらなかったであろう。それなら、柳田さんの学問には、柳田さんの死とともに死ななければならぬものがあったに違いない。そういう事を、私はしかと感じ取ったのです。」(238頁)

「柳田さんは、後から聞いた話だと言って、おばあさんは中風になって寝ていて、いつもその蠟石を撫でまわしていたが、お孫さんが、おばあさんを祀るのなら、この珠が一番よろしかろうと考えて、祠に入れてお祀りしたと書いている。少年が、その珠を見て怪しい気持ちになったのは、真昼の春の空に星のかがやくのを見たように、珠に宿ったおばあさんの魂を見たからでしょう。柳田さん自身それを少しも疑ってはいない。疑っていて、こんな話を、「ある神秘な暗示」と題して書ける筈がないのです。」(238-239頁)

「尤も、自分には痛切なものであったが、こんな出来事を語るのは、照れ臭かったに違いない。だから、布川時代の思い出は、「馬鹿々々しいといふことさへかまはなければ、いくらでもある」と断って、この出来事を語っている。こういう言い方には、馬鹿々々しいからと言って、嘘だとは言えません、という含みがあります。自分は、子供の時に、一と際違った境遇に置かれていたのがいけなかったのであろう、幸いにして、其後実際生活の上で苦労をしなければならなくなったので、すっかり布川で経験した異常心理から救われる事が出来た、布川の二年間は危かった、と語っている。」(239頁)

「自分が確かに経験したことは、まさに確かに経験した事だという、経験を尊重するしっかりした態度を現したものです。自分の経験した直観が悟性的判断を越えているからと言って、この経験を軽んずる理由にはならぬという態度です。」(239頁)



 鵯(ひよどり)の一声が、人を救うことがあるならば、人を貶(おとし)めることもあるだろう。鵯はただ鳴くばかりであるが、やはりそこに縁といったものを感じる。
 柳田國男の「感性」は、「狂気」と馴れ合っている。すべてを承知した上で、「狂気」へと進む覚悟のあるお弟子さんは、どれほどいるのか。たとえ手をのばしたところで、届くものではないことは、承知したうえでの話であるが。
 「柳田さんという人が分ったという風に感じました。」

 「そういう事を、私はしかと感じ取ったのです。」
 小林秀雄の認識は、いつも突然やってくる。忽然と、たちまちのうちに頓悟する。