柳田國男「小屋の口一ぱいに夕日がさして居た」

小林秀雄「信ずることと知ること」
小林秀雄『人生について』中公文庫

 柳田さんの話になったので、ついでにもう一つお話ししましょう。柳田さんに「山の人生」という本があります。山の中に生活する人の、いろいろな不思議な経験を書いている。その冒頭に、或る囚人の話を書いている。それを読んでみます。
「今では記憶して居る者が、私の外には一人もあるまい。三十年あまり前、世間のひどく不景気であつた年に、西美濃の山の中で炭を焼く五十ばかりの男が、子供を二人まで、鉞(まさかり)で斫(き)り殺したことがあつた。
 女房はとくに死んで、あとには十三になる男の子が一人あつた。そこへどうした事情であつたか、同じ歳くらゐの小娘を貰つて来て、山の炭焼小屋で一緒に育てゝ居た。
其(その)子たちの名前はもう私も忘れてしまつた。何としても炭は売れず、何度里へ降りても、いつも一合の米も手に入らなかつた。最後の日にも空手で戻つて来て、飢ゑきつて居る小さい者の顔を見るのがつらさに、すつと小屋の奥へ入つて昼寝をしてしまつた。
 目がさめて見ると、小屋の口一ぱいに夕日がさして居た。秋の末の事であつたと謂ふ。二人の子供がその日当りの処にしやがんで、頻りに何かして居るので、傍へ行つて見たら一生懸命に仕事に使ふ大きな斧を磨いて居た。阿爺(おとう)、此(これ)でわしたちを殺して呉れと謂つたさうである。さうして入口の材木を枕にして、二人ながら仰向けに寝たさうである。それを見るとくらくら(表記は「くの字点」です)として、前後の考も無く二人の首を打落してしまつた。それで自分は死ぬことが出来なくて、やがて捕へられて牢に入れられた」
「山の人生」は大正十四年に書かれているが、その当時の思い出が「故郷七十年」の中で語られている。明治三十五年から十余年間、柳田さんは法制局参事官の職にあって、囚人の特赦に関する事務を扱っていたが、この炭焼きの話は、扱った犯罪資料から得たもので、これほど心を動かされたものはなかったと言っている。「山に埋もれた人生」を語ろうとして、計らずも、この話、彼に言わせれば、「偉大なる人間苦の記録」が思い出されたというわけだったのです。(240-241頁)


 子どもたちの姿は終始静かである。
 「みんなと一緒に生活して行く為には、先ず俺達が死ぬのが自然であろう。自然人の共同生活のうちで、幾万年の間磨かれて本能化したこのような智慧がなければ、人類はどうなったろう。そんなものまで感じられると言ったら、誇張になるだろうか。」(244-245頁)  
 法に照らし裁こうとする者たちがいる。それに対し、弁護し、また「特赦」を願う者たちがいる。そして、裁かれる者がいる。お決まりの構図が揺らぐ。
 二人の子どもの美しい願いをかなえた、というにはあまりにも悲しい話である。「山の人生」の冒頭に、「偉大なる人間苦の記録」を置いた、柳田國男の悲痛な叫びが聞こえてくる。
 「山に埋もれた人生」とは、「山に埋もれ」るままに、所在不明で、その痕跡さえ詳(つまび)らかでない「人生」、というほどの意であろうが、「山びと」にとって、伝説や伝承は、「すべてこれ、『目前の出来事』であり、『現在の事実』」(243頁)であって、なんの変哲もないことである。「明らかに問題は、話の真偽にはなく、その齎す感動にある。伝説の豊かな表現力が、人の心を根底から動かすところに、語られる内容の鮮やかな像が、目前に描き出される」。(243頁)それらには、「偉大なる人間苦の記録」と同列の明らかさが認められる。