岡潔「たちまちのうちに解るとき」

岡潔「宗教と数学」
岡潔『春宵十話』角川文庫

岡潔は、「数学的発見」をするためには、「発見の前」の「緊張と」、「それに続く一種のゆるみが必要ではないかと」述べている。そして、八つの体験をあげている。(33頁)

「もう一つはレマン湖畔のトノム村から対岸のジュネーブへ日帰りで見物に行こうと船に乗ったときで、乗ったらすぐわかってしまった。自然の風景に恍惚としたときなどに意識に切れ目ができ、その間から成熟を待っていたものが顔を出すらしい。そのとき見えたものを後になってから書くだけで、描写を重ねていけば自然に論文ができ上がる。」(34頁)

岡潔は上記のような発見を「インスピレーション型の発見」とよんでいるが、以下の発見は、様相を異にしている。

「終戦の翌年宗教に入り、なむあみだぶつをとなえて木魚をたたく生活をしばらく続けた。こうしたある日、おつとめのあとで考えがある方向へ向いて、わかってしまった。このときのわかり方は以前のものと大きくちがっており、牛乳に酸を入れたときのように、いちめんにあったものが固まりになって分かれてしまったといったふうだった。それは宗教によって境地が進んだ結果、物が非常に見やすくなったという感じだった。だから宗教の修行が数学の発展に役立つのではないかという疑問がいまでも残っている。」(35-36頁)

 「文化の型を西洋流と東洋流の二つに分ければ、西洋のはおもにインスピレーションを中心にしている。
(中略)
これに対して東洋は情操が主になっている。
(中略)
木にたとえるとインスピレーション型は花の咲く木で、情操型は大木に似ている。
 情操が深まれば境地が進む。これが東洋的文化で、漱石でも西田幾多郎(にしだきたろう)先生でも老年に至るほど境地がさえていた。」(36頁)



私もささいなことならば何度か経験しているが、要諦はつかず離れずということだと思っている。残念ながら「情操が深まれば境地が進む」という経験はまだない。要諦は、「どうしようもない哀しさ」とのつき合い方の問題であると感じている。