「実朝の天凛と小林秀雄の天才の交感」

小林秀雄『実朝』
小林秀雄『モオツァルト・無常という事』 新潮文庫
「いかにも独創の姿だが、独創は彼の工夫のうちにあったというより寧(むし)ろ彼の孤独が独創的だったと言った方がいい様に思う。自分の不幸を非常によく知っていたこの不幸な人間には、思いあぐむ種はあり余る程あったはずだ」(124頁)

「彼は確かに鋭敏な内省家であったが、内省によって、悩ましさを創(つく)り出す様な種類の人ではなかった。確かに非常に聡明(そうめい)な人物であったが、その聡明は、教養や理性から来ていると言うより寧(むし)ろ深い無邪気さから来ている。僕にはそういう様に思われる」(136頁)

 「彼の歌は、彼の天凛の開放に他ならず、言葉は、殆ど後からそれに追い縋(すが)る様に見える。その叫びは悲しいが、訴えるのでもなく求めるのでもない。感傷もなく、邪念を交えず透き通っている。決して世間というものに馴(な)れ合おうとしない天凛が、同じ形で現れ、又消える。彼の様な歌人の仕事に発展も過程も考え難い。彼は、常に何かを待ち望み、突然これを得ては、また突然これを失う様である」(141頁)

実朝の「天凛」と、小林秀雄の天才の感応はおもしろく、読みごたえがある。一人置いてきぼりをくった恰好だが、綺羅星は遠くに望むほかない。

  散り残る岸の山吹(やまぶき)春ふかみ此ひと枝をあはれといはなむ  (140頁)
  萩(はぎ)の花くれぐれ迄もありつるが月出でて見るになきがはかなさ (117頁)
  吹く風の涼しくもあるかおのづから山の蟬(せみ)鳴きて秋は来にけり  (138頁)