小林秀雄「瞑想という純粋な自足した喜び」


小林秀雄「季」
小林秀雄『人生について』中公文庫

「瞑想という言葉があるが、もう古びてしまって、殆ど誰も使わないようになった。言うまでもなく瞑とは目を閉じる事で、今日のように事実と行動とが、ひどく尊重されるようになれば、目をつぶって、考え込むというような事は、軽視されるのみならず、間違った事と考えられるのが当然であろう。しかし、考え詰めるという必要が無くなったわけではあるまいし、考え詰めれば、考えは必然的に瞑想と呼んでいい形を取らざるを得ない傾向がある事にも変わりはあるまい。事実や行動にかまけていては、独創も発見もないであろう。そういう不思議な人間的条件は変更を許さぬもののように思われる。(179頁)

「数という種子をまき、目を閉じて考える純粋な自足した喜びを感ずる事が出来る。数学の極意は、計量計算の抽象的世界にはないらしい。岡(潔)氏の文章(「春宵十話」)は、瞑想する一人の人間へ、私を真っすぐに連れて行く。そういう人間の喜びを想っていると、ひたすら事実と行動との尊重から平和を案じ出そうとする現代の焦燥は、何か全く見当が外れているようにも思われて来る。(180頁)


 小林秀雄のいう「事実」とは、視認可能なもの、手を伸ばせば届くもの、即物的なもの、間にあわせのもの、既製の品、科学的事実、といったほどの意であろうか。また、「行動」の対義語は、「徐(しず)かなること林の如く」とでもいえば解りやすいかと思う。
 「
目を閉じて考えるという純粋な自足した喜び」とは、至福のときである。こういった喜びを知らない人たちを、気の毒に思う。私ごときが、大仰に構えるわけにもいかず、口幅ったいことをいうのも気がひけるので、「気の毒に思う」とだけ申し上げておく。