岡潔「一つ季節を廻してやろう、という岡潔の気宇壮大」

小林秀雄「季」
小林秀雄『人生について』中公文庫

岡潔「発見の鋭い喜び」
岡潔「自然に従う」
岡潔『春宵十話』角川文庫

「数学の世界で、大戦前からそうであったが、戦後著しくなったのは、仕事がいよいよ抽象化される傾向だそうである。『風景で言えば、冬の野の感じで、カラッとしており、雪も降り、風も吹く。こういうところもいいが、人の住めるところではない』と岡氏は言う。『そこで私は一つ季節を廻してやろうと思って、早春の花園のような感じのものを二、三続けて書こうと思い立った。その一つとして、フランス留学時代の発見の一つを思い出し、もう一度とりあげてみたが、あのころわからなかったことが、よくわかるようになり、結果は格段に違うようだ。これが境地が開けるということだろうと思う。だから欧米の数学者は年をとるといい研究が出来ないというけれども、私はもともと情操型の人間だから、老年になればかえっていいものが書けそうに思える。欧米にも境地が深まっていく型の学者がいるが、それをはっきりとは自覚していないようだ』」(181頁)

地球を鷲づかみにし、その運行を冬から春まで、1/4 周進めようという岡潔の構想は気宇壮大である。
その凄腕は、「ピカソの腕力」(「小林秀雄、梅原龍三郎とピカソの腕力を語る」)に匹敵するものである。


 上記の岡潔の文章は、新聞紙上に連載された「春宵十話」からの、小林秀雄による引用である。「春宵十話」は、「毎日新聞社の松村洋(まつむらひろし)君がまとめて文につづった」、岡潔の聞き書きである。
 早速購入し、角川文庫で読んだ。

 「数学は語学に似たものだと思っている人がある。
(中略)
語学と一致している面だけなら数学など必要ではない。それから先が問題なのだ。人間性の本質に根ざしておればこそ、六千年も滅びないできたのだと知ってほしい。」(47頁)


 「春宵十話」には「情操」という言葉が頻繁に登場する。
 「情操が深まれば境地が進む。これが東洋的文化で、漱石でも西田幾多郎(にしだきたろう)先生でも老年に至るほど境地がさえていた。」(36頁)
 数学が、「人間性の本質に根ざして」いるものならば、それは「情操」の学問であるといえよう。数学から、人間の「境地が深まっていく」過程をみることは、私にはできるはずもないが、これは他の学問領域にも敷衍できることは容易に察しがつき、興味深い。

「数学史を見ても、生きてバトンを渡すことはまずない。数学は時代を隔てて学ぶものだと思う。」(46頁)


後進による問題の解決を、飽くことなく待つ「数学という学問体系」の楽観には、感心する。「情操」豊かな数学者が、いつの時代にか、世界のどこかで誕生することを、信じて疑わないからこそできる離れ技である。

 「よく人から数学をやって何になるのかと聞かれるが、私は春の野に咲くスミレはただスミレらしく咲いているだけでいいと思っている。咲くことがどんなによいことであろうとなかろうと、それはスミレのあずかり知らないことだ。咲いているのといないのとではおのずから違うというだけのことである。私についていえば、ただ数学を学ぶ喜びを食べて生きているというだけである。そしてその喜びは『発見の喜び』にほかならない。」(29頁)

 岡潔は、「数学を学ぶ喜びを食べて生きている」、特異体質の仙人である。仙人の発言は、常に傾聴に値する。
 小林秀雄,岡潔『人間の建設』新潮文庫 が、積読したままになっている。平成22年3月1日に発行されてすぐに求めたものである。読む時期がきたようである。

小林秀雄「季」/ 小林秀雄『人生について』中公文庫
岡潔『春宵十話』角川文庫
については、回を改めて再び書くつもりでいる。乱雑な文になってしまった。