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2月, 2017の投稿を表示しています

「矛盾を生きる」

愛知県公立高入試八日前です。最後の悪あがきのおつき合いをしています。繁忙期です。最盛期です。書き入れ時です、といいたいところですが、子どもたちの様子をうかがいながら、授業をすればするほどに、時給は目減りするばかりで、じり貧状態に陥っています。最低賃金法への抵触はもちろんのこと、サービス残業、過労、と無法地帯に身をおいています。大いなる矛盾を生きています。これも人間らしくある、ということなのでしょうか。

「誰彼にともなく」

メンタルクリニック、または心療内科への受診をお薦めいたします。精神科や神経科とは違って、生育歴等の詳細を尋ねられることはないと思います。イライラ、不安時には、私は精神安定剤を服用しています。そして、服用後には、一時間ほど寝ることにしています。ずいぶん楽になります。煙草一本分ほどの副作用もないといわれています。睡眠中に、散らかった頭のなかが整理されるのだと思っています。薬効と自然治癒力の相乗効果だのみです。 いまは内科でも抗うつ剤を処方する時代ですが、内科医は、専門外のこととて、ひかえめで、無難な、ごく一般的な抗うつ剤しか用いないそうです。友人に、私が全幅の信頼をおいている精神科医の西村克彦先生に診ていただくことを薦めたことがあります。実際に診察していただいた際には、内科で処方されている三倍の量の抗うつ剤が必要だと考えています、といわれたそうです。ぜひ専門家医に診ていただいてください。臨床の知、また手もちの対症法の質・量の差はあきらかです。適当なさじ加減を心得ています。 医師との相性も大切です。保健所の保健婦さんに相談にのっていただくのがいいかと思います。 それら は気質の問題ではなく、症状です。自責の念にかられ、つらい思いをするのは、得策だとは思えません。 中井久夫先生は、 「精神科と内科の大きな違いは、面接室の違いにある」 とおっしゃられています。傾聴に値するご発言です。 くれぐれもお大事になさってください。ご自愛ください。 FROM HONDA WITH LOVE.

「誰にともなく」

軽躁状態での生活は愉快ですが、躁状態となると話は別で、胸が高鳴り、踊り、頭の中が騒々しく、騒がしく、うるっさくっていけません。落ち着きをかき、軽はずみな言動も多く、やはり治療が必要かと思います。

「愛知県公立高校入試の志願者数をみて、哄笑する」

昨夜新制度入試下でのはじめての志願者数が発表されました。豊橋市内およびその周辺の高校の志願者数を概観したとき、県教委の関係者の方々の破顔、また中学校の先生方の「ご指導」のかいもあってか、シュミレーション通り、思惑通りの結果に、哄笑している顔が目にうかびます。 明日には志願変更後の志願者数が出そろいます。今回ばかりは大きく動くような気もしますし、また例年通りの小幅な動きのような気もしています。受験生の皆さん方にとっては切実な問題で、不謹慎ですが、ともあれ楽しみにしています。 志願者数をつらつらとながめていると、県教委の思惑、また受験生の心中が察せられ、興味が尽きません。 悪趣味なこととは承知しています。しかし、悪に染まらなければ解らない真実もあります。私は悪に染まるのにやぶさかではありません。人生の一面だけを生きるのは、もったいないお話です。 時習館高校を、おそらく岡崎高校の併願校にしている受験生が五十二名いることに目をみはりました。新入試制度の下では、東三河地区と西三河地区のトップ校どおしの併願が可能になり、序列化された感を抱いています。この傾向は来年度以降も続き、その差は 顕著になるような気がしています。新制度入試の目玉です。県教委のその勇気と英断には脱帽するばかりです。時習生の頑張りどころですね。

「限界家族」

中学校の教科書、『新しい社会 地理』東京書籍(143頁)には、 過疎地域の中には、高齢化が極端(きょくたん)に進み、65歳(さい)以上の人口が過半数をしめる集落もあります。これらの集落は 限界集落 とも呼ばれ、対策(たいさく)が急がれています。 との記載があります。 我が家を思えば、ご多聞にもれず、「限界家族」です。「対策(たいさく)が急がれています」と、人ごとのように、よそ事のように、無表情な記述をされても、なんの解決策になるはずもなく、「年年歳歳花相似たり、歳歳年年人同じからず」、我が家の「限界家族」化は深刻化するばかりです。かといってこれといって打つ手もなく、手をこまねいている間に、 近い将来には、 「超限界家族」と呼ばれる日がやってくるのは必至です。「超限界」といえば、まことに喜ばしいことですが、「超限界家族」となると、空恐ろしく、いたたまれません。しかし、「超限界・ 家族」と読めば、旧き悪しき既成の「家族」の概念を超えた、という意味においては、いくらかの救いがありそうです。 これは、手すさびの言葉遊びどころではなく、由々しき問題 です。切実で、切迫しています。「限界」までは逃げまわる算段をしていますが、「超限界」までは無理か、と観念し ています。「超限界」「人でなし」「人非人」に挑む勇気は、今のところもちあわせておりません。

「雨水の日に思う」

心なしか日差しが春めいてきました。雨の降る日も増え、めぐる季節を実感しています。 今日が愛知県公立高入試の十六日前です。さしたる計画もないままに、のらりくらりと授業を進めています。のらりくらりとした授業で、かつて差しつかえがあったことはなく、今年ものらりくらりを決めこんでいます。子どもたちにとっても、ぬらりくらり程度の授業が適当で、勢いあまった頭ごしの授業は、空回りするだけでいけません。 のらりくらり、ぬらりくらりとした浮世ばなれした生活を、二十日も続けると、社会復帰には、それなりのリハビリの期間が必要になります。入試後にはきまって体調をくずし、寝たり起きたりの怠惰な生活を、一か月ほど続けるのが、最近の習いになっています。のらりくらりにも、ぬらりくらりにも、それなりの代償がともないます。入試後には、のらくら過ごし、自然治癒力にまかせるのが慣例になっています。

「動詞(名詞+助詞+)_齟齬をきたす」

子どもたちのたっての希望で 、サイト上の、「作文・小論文の文例集」と「『面接試験』覚え書き」を、昨日非公開にしました。ウェブサイト上には、愛知県公立高校の推薦入試のために代筆させられた八十あまりの「三分間自己PR文」と「 面接試験の覚え書き」が 載せてありました。昨年の今頃には、連日二百をこす閲覧があり、盛況を極めていました。新入試制度の下、今年度からは、「 自己の特性などを 1 分間程度で」という形にあらためられました。文字数にすると三百字程度です。 中学生の子どもたちにとっては、いくつかの文章からいいとこ取りをして、つぎはぎして、一つの文章にまとめるのは難しいようです。齟齬をきたし、まとまりをかき、体をなさなくなってしまいます。思えば、気の毒な方たちです。 公開してもさしつかえがあるとはとうてい考えられず、公開しようかどうか迷っています。 リテラシー もおぼつかない子どもたちに、メディアリテラシーをといっても、それはうたい文句だけで、どうしても 浅薄に聞こえ ます。 下記、 「愛知県公立高校_推薦入試_自己の特性文例集」 「愛知県公立高校_推薦入試_三分間自己PR文編選集」 です。 各校の「推薦選抜等合格者数」が発表されました。 平成29年度愛知県公立高等学校(全日制課程)入学者選抜における一般選抜等の合格者数につい です。

「どこかで春が」

愛知県公立高入試まであと二十日です。毎年二十日間で仕上げています。 今後の過ごし方如何で結果は大きく左右されます。 少しの我慢で実力はつきます。 入試は目の前です。 そして、春は確実に足音を立てて近づいて来ています。 来たるときがやってきました。今朝はいつになく早起きをし戦略をたてています。

「Anniversary 投稿数 1111」

投稿数が、「1111」を超えました。最近では、散文詩風な文章を書くことを心がけています。私の好きな文体です。短文を重ねます。

「十六夜の月」

今夜もみごとな月がかかっています。 月の出が一日に五十数分ずつ遅くなるのを知ったのは、昨年の暮れのことでした。 いざよいつつ、たゆたいつつ、夜空をわたってほしいものです。

「『われは湖の子』ごっこ」

加藤登紀子さんが歌う「琵琶湖周航の歌」に魅かれ、琵琶湖にゴムボートを浮かべ、“われは湖の子 ”ごっこをしていた時季がありました。 われは湖(うみ)の子 さすらいの 旅にしあれば しみじみと 昇る狭霧(さぎり)や さざなみの 志賀の都よ いざさらば 松は緑に 砂白き 雄松(おまつ)が里の 乙女子は 赤い椿の 森陰に はかない恋に 泣くとかや 波のまにまに 漂えば 赤い泊火(とまりび) 懐かしみ 行方定めぬ 波枕 今日は今津か 長浜か 瑠璃(るり)の花園 珊瑚(さんご)の宮 古い伝えの 竹生島(ちくぶじま) 仏の御手(みて)に 抱(いだ)かれて 眠れ乙女子 やすらけく 五年も過ぎたころからゴムボートは劣化しはじめ、あちこちから空気が漏れるようになりました。そのつど穴をふさいで使っていましたが、それも追いつかなくなり、あえなく断念しました。いまだに琵琶湖への郷愁を覚えます。「 波のまにまに漂」うことへの憧れがあります。 湖族の血が騒ぎます!?

「月傾(かたぶ)きぬ 」

東の空が白みはじめ、西の空に「名月」がぶら下がっています。盛時に比すれば精彩をかき、心なしか霞んでみえるのは、私の僻目なのでしょうか。 東(ひむがし)の野に炎(かぎろひ)の立つ見えてかりへり見すれば月傾(かたぶ)きぬ   / 柿本人麻呂 とはいえ、やはり気になるのは、人麻呂が返り見た先の西の空です。 夜が明け、悲しいかな、「名月」は西の空にできたシミのようになってしまいました。

「『名月』をいただいて、如何せん」

「名月」とは「中秋の名月」をさすとのことですが。 いま南の空に「 名月」がかかっています。その姿は孤り高く、神々しくさえあります。 名月や池をめぐりて夜もすがら /芭蕉 如何せん如何せん。夜もすがら、如何せん。「名月」をいただいて、如何せん。

「ラブコール_覚める。冷める。最終回です」

「返信遅くなってすいません。大変失礼で申し訳ないですが今回は(来塾を)取り消しでもいいですか? 先生にあと少しでどうやって点をのばせばいいか聞きたかったんですけど、それだけメールで教えてください! ほんとにすいませんm(_ _"m)」 ご依頼の件につきましては、私が気軽に応じられるようなものではなく、またあいにくにも、私はそのような便利な言葉はもちあわせていません。容赦していただくしかありません。 また、文章にして伝えるには、口頭で説明する何倍もの時間と労力を要します。場合によっては資料の添付等も必要となり、今の私には無理だとお考えください。 どうか、お察しください。 ふり返ったとき、美しくあった、といえるような生き方を、と願うばかりです。 ご返信ご不要です。 FROM HONDA WITH LOVE.

「月と私と死と再生と」

下弦の月。月齢でいえば、二十三日の頃。月が地球の周りを 3/4 周した辺り。月に見立てていえば、 こんな年回りになりました 。あとはやせ細るにまかせ、空に痕跡を残すこともなく、潰(つい)え去るばかりです。 「新月」とは、月の  " 死と再生 "  の場であって、生死の交差するところです。 生死一如。 「 死と云うは生きる事と見つけたり」。 「 新月」とは、光の横溢する世界。充足の場、自足のとき。 月にことよせて、 彼岸を充足 の場、自足のときと思えば、いくぶん気が晴れます。

「バックハウス / モーツァルト・リサイタル」

「バックハウス / モーツァルト・リサイタル」ユニバーサル ミュージック クラシック 「ピアノ・ソナタ 第11番 イ長調 K.331(300i)《トルコ行進曲付き》」 一つ一つの音をいとおしむようにして弾くバックハウスの姿がしのばれます。とげとげしたところがなく、丸みを帯びた音は、障ることなくまろやかに響きます。これを「円熟味」と呼ぶのでしょうか。 バックハウスのピアノによって、はじめて聴いた私にとっては、バックハウスの「聴衆に媚びるところのまったくない剛毅で堅固な演奏ぶり」こそがすべてであって、「 剛毅で堅固な演奏」から離れることができません 。バックハウスの演奏はかけがえがなく、他のものにはどうしても違和感を覚えてしまいます。 なお、かぎ括弧内の言葉は、CDジャケット内の寺西基之さんの解説からの引用です。

「適当にあしらう」

愛知県では今日から、私立高校の一般入試がはじまりました。当地域のほとんどの受験生にとっては、併願校であって、小手調べです。消化試合?です。 適当にあしらってきてください。 「適当にあしらってきてください」とはいってみたものの、「適当にあしらう」とは、私の最も苦手とする動詞の一つです。そんなお家の事情はよそに、「適当にあしらってきてください」と何食わぬ顔をしていい、そ知らぬ顔をして顧みず、これもまた然りです。人生はいつも不条理に満ちています。

「深刻だったはずの時代に、二人して_早速の反響です」

思い出を検索して見つけました。今回は難産でした。 「1983/11/09 イ・ムジチ合奏団 名古屋公演」の パンフレットについては、色も形もはっきりと覚えているのですが、仕舞いなくしたのか、見当たりません。 イ・ムジチの「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」を聴きながらとは、驚きました。また、UP 直後の反響ということもあって、驚いています。 P教授に連絡していただき、月曜日に放送された「プロフェッショナル 仕事の流儀『いつだって、人間は面白い 脚本家 倉本聰』」を観ました。録画もしました。寄らば斬る、とでもいった鬼気迫る発言の数々を、身震いしながら聴いてい ました。五郎に会い、純と出会い、そして風に吹かれるままに紫紺が波打つラベンダー畑を目にし、また画面いっぱいに広がった雪原を目にしました。富良野の自然はいまもかわらず美しく、倉本聰はいまもかわらず「ピュア」でした。芸術の神さまが降りてくる由縁です。 いただいたままになっている「100年インタビュー 脚本家 倉本聰 NHK BS」のデータを、動画に変換して、早速観ようと思っています。また、八千草薫さんはご健在でした。現役でした。失礼なことをいってしまいました。Kさんには、その旨よろしくお伝えしてください。 早速の閲覧、またメール、どうもありがとうございました。 では、では。 寒さ厳しき折、くれぐれもご自愛ください。 TAKE IT EASY! FROM HONDA WITH LOVE.

「深刻だったはずの時代に、二人して」

朝から思い出をさがしていました 。 弟は浪人の身で、 私は転学を考え休学中の身で した。深刻だったはずの時代に、二人して、 「1983/11/09 イ・ムジチ合奏団 名古屋公演」 に出かけました。ピーナ・カルミレッリが、コンサート・マスターをつとめていた時代のことです。 祝典の場で華やかな宮廷音楽を聴いているかのようでした。チェロが好きだ、といった弟の言葉をいまも覚えています。 翌日には、 発売されて間もない、 イ・ムジチ来日公演記念版の、「アイネ・クライネ・ナハトムジーク (LP盤)」フィリップス を買いに出かけました 。 入り組んだ迷路のなかで、不安にさいなまれ右往左往していた時代のことでした。受験勉強の合間に、イ・ムジチの「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」をよく聴きました。今にして思えば、イ・ムジチの描く、遠くどこまでも広がった青空の青によって、私は危うく平衡を保っていたような気がしています。 部屋の壁には、「ヴィヴァルディの肖像画が描かれた、真っ赤なマジョリカ・タイル」が、かかっています。12cm 四方のかわいらしいタイルです。当選し、「ヴィヴァルディ賞」としていただいたものです。 先ほど、 イ・ムジチ合奏団「アイネ・クライネ・ナハトムジーク、 パッヘルベルのカノン、アルビノーニのアダージョ 」マーキュリー・ミュージックエンタテインメント を、注文しました。中古品です。イ・ムジチ来日公演記念版の「アイネ・クライネ・ナハトムジーク (LP盤)」が、デジタル化されたものであることを願うばかりです。

愛知県教育委員会発表の「平成29年度 愛知県公立高等学校入学者選抜における志願状況等」のURLです。

以下、愛知県教育委員会発表の「平成29年度 愛知県公立高等学校入学者選抜における志願状況等」のURLです。 http://www.pref.aichi.jp/kyoiku/kotogakko/h29_siganjyoukyou.html 願書締切日の当日の夜、また志願変更締切日の当日の夜には志願者数が確認できます。翌日の朝刊を待つ間もなく便利です。下にスクロールしてご覧になってください。

「一番の若輩者として」

昼下がりのマクドナルド 23号 新栄店には、いつもきまって、何人かの 初老の方たちが静かに読書をする姿が見られます。この時季には、暖房のよく効いたテーブル席に座を占めています。すべてわきまえられてのことです。挨拶を交わしたことも、お話をしたこともなく、目を合わせたことさえほとんどありませんが、一番の若輩者として、かろうじてその末席にすわらせていただいております。 私の読書をする格好は、とびぬけてひどく、抜きんでており、読書家諸氏の目には、さぞ騒々しく映っていることと思われますが、今さら直るものでもなく、直せるものでもなく、と開きなおり、気ままな格好で過ごさせていただいております。 にぎやかな方たち、ぞんざいな言葉で話す方たち、乱暴な方たちを認めると、彼の人たちの引き際は早く、早々に席を立っていかれます。彼の方たちが、私のごとく、ブログ上で「ざっくばらん」にごたくを並べているはずもなく、恥じ入るばかりです。静けさをたたえた人、寡黙な人たちの思慮深さを思います。

「アリス=紗良・オットの『Chopin:Waltz No.6 in D flat, Op.64 No.1 -"Minute"』を聴く」

111 Years of Deutsche Grammophon 「111 More Classic Tracks」 に収録されている、アリス=紗良・オットの弾く、「Chopin:Waltz No.6 in D flat, Op.64 No.1 -"Minute"」は、優美です。オットの演奏には、 艶(えん)なる美を感じます。彼女の人となりの表出だと思っております。私のもっぱらの関心は、彼女の左手、低音部にあります。

「今年はじめてのCDです」

グレン・グールド「 J.S.バッハ: ゴールドベルク変奏曲(81年デジタル録音)」 SMJ グレン・グールドの、これが三枚目の「 ゴールドベルク変奏曲」です。二枚のCDはさしあげてしまって手元にはなく、HDDに 圧縮された音源だけが残っています。 圧縮された音源はやはりさびしく、今回の購入にいたりました。珠玉を思わせる一つ一つの音の連なりは、ただ美しく、ただならぬものを感じます。美はいつも危うさをはらんでいます。美は常に危険です。

「立春の日に『あかあかあかやあかあかや月』です」

あかあかやあかあかあかやあかあか(表記は「くの字点」です)やあかあかあかやあかあかや月 山のはにわれもいりなむ月もいれよなよな(表記は「くの字点」です)ごとにまた友とせむ 上記の二首はいずれも明恵上人の詠まれた歌です。横書きでしか表記できないのが残念です。  冷えこみがきびしく空気が澄んでいるのでしょうか。今時分の夜空には、輪郭のはっきりした明るい月がのぞめます。こうこうと貴(たか) く照る月です。冬の月は詩趣に富んでいます。「よなよなごとにまた友とせむ」とまでの親しみは、いまの私にはありませんが、月のない夜には一抹のさびさを覚えます。  立春の日の今日は、日没時に上弦の月が南中します。

「拝復 P教授様_ゼミの皆さんへのはなむけの言葉に寄せてです」

卒業をまじかにひかえた、ゼミの七名の学生さん宛に書かれた「10期生の皆さんへ」をいずまいを正して拝読させていただきました。 P教授のすてきな言葉を胸に、 ゼミを後に社会に巣立っていく七名の学生さんたちの幸せを思います。 「ゼミナール(Seminar)の語源」が、「ラテン語の(Seminarium;苗床) 」であることをはじめて知りました。「苗床」に、丹精をこめてまかれた種子は、やがて芽生え、その後健やかに成長していることと拝察いたします。収穫の時季が待たれますね。のぞまれますね。 私はといえば、次年度もP 教授のゼミナールへ の残留を、手前勝手に都合よく、何のお断りもなくお許しもなく、ひとり決めこんでいます。最古参です。古狸です。あくことなく「種をまく人」を続けます。徒労を重ねます。 七名の学生さんたちに寄せるP教授の思い、しっかりと受け取りました。確かに受け止めました。 陰ながら、十期生の七名の皆様方のご健康とご多幸、また新天地でのさらなるご雄飛をお祈りしております。 はなむけの言葉に接し、春を感じています。ありがとうございました。 FROM HONDA WITH LOVE .

「patagonia の SALE がはじまりました」

今日から patagonia の SALE がはじまりました。昨年の夏は「 FINAL SALE 30-40% OFF」まで待って、痛い目にあいましたので、今回は早々と、 「メンズ・リバーシブル・スナップT・グリセード・プルオーバー( Black / S) 」 を注文しました。30% OFF です。昨年は「 Navy Blue」を購入しました。 スタンドカラーのプルオーバーはおしゃれで、「 耐水性と保温性を備えたとびきり機能的なトップ」です。しかし、 左右から手を入れ、手を温めるためにつけられた 腹部の「 大型のカンガルー型ポケット」は 曲者で、普通のポケットの用はなさず、ものはすり抜けて落ち信頼できず、重みのあるものを入れるとだらしなく垂れ下がります。ハンドウォーマーとしての「 カンガルー型ポケット」ですので当然のことですが、購入後に気がつき用途がわからず混乱しました 。「BLACK」は今シーズンの新色です。現物はみていません。シックな黒であることを願っています。 時期を誤り高い買い物をしたのか、それとも正解だったのか、SALE の行方を見守ります。

「司馬遼太郎が是とした『すがすがしさ』」

関川夏央 解説・解題「言葉の共同作業を尊ぶ心」 司馬遼太郎『日本語の本質―司馬遼太郎対話選集 2』文春文庫 日本では、デベイトの強者をいかがわしやつ、サギ、インチキ師、ヘラズ口というんだ、というたぐい。どうして互いに自分の弱点を持ちよって、机の上で弱点会議をやらないのか。(237-238頁)  司馬遼太郎の「軟体動物みたいな、ビールの泡のような日本語がはこびる」という言葉は、いわゆる「日本語の乱れ」を嘆ずる言葉ではなかった。人を言いくるめる技倆の向上、あるいは口喧嘩に勝つための屁理屈の達者さをよしとするがごとき風潮への憂いであった。  バブル経済の頂点へと向かいつつあったこの一九八0年代末葉、「ディベート」という言葉はテレビマスコミを中心に流行していたが、それはおそらく「国際化」への焦燥の末節的表現であった。司馬遼太郎は、そのような空論の空転をもっとも嫌ったのであるが、それは、彼がもっとも重きを置いた価値、人間の「すがすがしさ」の対極にあるものと認識されたからである。( 238頁) 「すがすがしさ」とは漢字で表記すれば「清々しさ」であって、換言すれば、司馬遼太郎は「美しさ」をもって是としたのだと私は理解しています。「すがすがしくあること」、また「美しくあること」は、行住座臥、あらゆる場面にわたっての試金石です。 明恵上人の「阿留辺畿夜宇和(あるべきようは)」を思いだします。

「裸木」

木枯らしが吹きすさび、寒空が広がっています。裸木が生気なく無表情に立ちつくしています。仮死の姿をさらしています。はた目には、立ち枯れとも仮死とも見わけがつかず、うすら寒さを覚えます。

「心平らかに心安らけく『J.S. バッハ:無伴奏チェロ組曲』です」

2010/05/15 に発行された『PCオ-ディオfan 2』共同通信社 には、 「スイス出身のチェリスト、マティン ツェラーがバロックチェロを奏でるCDは、愛好家の中でも評価が高い。  この楽器は1673年にヤコブ・シュタイナーによって製作された貴重なものである。そのアルバムをハイレゾで聴けるとは嬉しい。  聴きどころは何といっても、CDでは味わえないホールトーンがブレンドされたチェロの響きの豊かさ、繊細なボウイングの様子。あなたがバッハファンならきっと驚嘆することだろう。」(159頁) との解説があります。PCオーディオに熱をあげていた頃のことです。付録のハイレゾリューションDVD「タッド・ガーファンクル録音選」を聴き、早速購入しました。 また、マーティン・ツェラー 「J.S. バッハ:無伴奏チェロ組曲 Vol.1」M.A Recordings の帯には、 「スイスのチェリスト、マーティン・ツェラーによる名器シュタイナー唯一の楽器で、世界で初めて録音された J.S. バッハ・無伴奏チェロ組曲。絹を撫でるような、魅力的な音色で奏でられ、かつてない感動に包まれる演奏です。」 と記されています。 「端正な響き」、「美しく、温かく、幸福感に包まれた演奏」に、心平らかに心 安らけくなります。すてきなアルバムです。